Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_2
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異国での敗戦(北朝鮮) (きぬ子, 2006/9/23 16:33)
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- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8 (きぬ子, 2006/9/23 16:43)
きぬ子
投稿数: 9
北朝鮮の町
私が生まれ育ったのは北朝鮮の「鎮南浦《チンナムポ》」という町である。大同江《だいどうこう=テドン・ガン》の大きな河口に位置し、川は黄海に流れている。住民は五万人、そのうち日本人が八千人いた。
ソ連参戦によって八月十三日、満州から八千人の疎開《注1》者がこの地に送られてきた。しかも、女、子どもが多かった。二目後の十五目、敗戦を迎えたので、受け入れ側もいかに大変であったかがわかる。そのうえ、官公庁の官舎などはもちろん日鉱精錬所、三菱マグネ、理研、昭電エなどが接収《せっしゅう注2》され、社宅に住む家族達は追い出された。埠頭《ふとう》の倉庫に沢山の家族が住むことを余儀なくされた。わが家にも一時は三十人も暮らしていたが、九月十一日に接収されることになる。
警察署には保安隊の看板が掲げられた。そこには日本人から没収《=とりあげる》した刀剣類、ラジオ、自転車などが集められた。長と名のつく責任者が次々と保安隊に連行されたり、呼び出しにあったりし、留置《=一定の支配下におく》される者も少なくなかった。父にも呼び出しがきた時は、本当に心配した。だがその日に帰され、ほっとしたことだった。
山の上のスピーカーからは相変わらず朝鮮語の放送が流されていた。「日本人の生命財産は保障します」と、日本語で時々放送するようになった。銀行が封鎖《注3》され、商売も停止になって、収入の道も断たれた。
間もなく三十八度線以北の北朝鮮は、ソ連軍が進駐することになり、事態は急変していく。私達の暮らしはどうなるのだろう。不安はつのるばかりであった。
わが家を接収される
九月五日、ソ連の将校十数名が町に入ってきた。朝鮮の役人とソ連の将校がわが家にやってきて、倉庫に積まれたビールを全部運び出していった。治安隊の看板と並んで赤衛隊《広義には赤軍》の看板も出ている。(当時、保安隊の中に赤衛隊と呼ばれた組織があったようである)
接収は民間の住宅にまで及んだ。最初に狙われたのは、わが家から数軒はなれた角の店である。富田儀作という方の家で、大きなウインドウにはIメートル以上もある高麗焼きの壷がいくつも並んでいた。町のために沢山貢献《こうけん》した人だと聞いていた。お寺の近くにあった三和花園は、四月の末には桜が見事に咲いて町の人達で賑わった。生物の時間にそこで勉強もした。その三和花園も富田氏によるものであった。
九月十一日、わが家が接収された。朝九時頃、赤衛隊が来て家を取り囲み、五時までに明け渡せという。家の前には牛車や馬車が並んだ。一人の兄は海軍兵学校へ行っていて居ない。残ったきょうだい六人の長子として私は、父を手伝い、店の帳簿を祖父の家に何度も運んだ。帳簿が重くニキロ近くの道のりを必死で歩いた。
満州からの疎間者と社宅を追われた家族も同居していたので、家の中はごったがえした。運び出す物は点検され、身の回りの物を運び出すのがやっとだった。
家を明け渡す最後の別れに、父は「家に礼をして行こう」と言った。私達は横一列に並んでお辞儀《じぎ》をした。このときの父が忘れられない。母は冬のオーバーやセーターが入った衣装缶を二つも押さえられたと、悔しがった。
身重な母
祖父の家にも満州からの疎間者が三家族十人もいた。わが家の引っ越し荷物は祖父の家に近い赤レンガの倉庫に一時入れた。わが家が接収されたことは、家族にとって「悔しい」ではすまされなかった。タンスにしまってあった父や母の着物は、もちろん、私や妹たちの服や晴れ着に骨董品、軸《じく》ものまで押さえられ、裏の大きな倉庫に入れられたのだ。
母は隣近所の人達の手助けでやっと働いていた。九月半ばになると、朝鮮は冷涼な季節になる。母はセルの着物を着ていた。急な引っ越しに動転《どうてん》もしたであろう。母は身重であった。当時の引っ越しは馬車や牛車を使った。引き手は朝鮮の現地の人である。
私たち八人は祖父の家に落ち着くことになった。ひと月後には、またそこも追い出される。
祖父の家に移って間もない九月十五日、ソ連の軍隊が入ってきた。巨大な戦車、装甲車《そうこうしゃ注4》、トラックが列をなし、兵隊達は二部合唱で足並みを揃えて行進していった。町には、ソ連兵が腕時計を狙っ《ねらって》て民家を襲ってくるという噂《うわさ》が広がった。十月に入った頃、二人のソ連兵が自動小銃をかかえてやってきた。祖父がかねて用意していた時計を二人に渡して事なきを得た。私達女、子どもは、小屋の中で震えていた。
わが家は貿易商だったので、商品は総て倉庫にあった。臨港鉄道のそばに二つ、埠頭に一つ、家の裏の一つ。どれもこれもすべて鍵をとられてしまった。ソ連が来てからトラックが家の前を引っ切りなしに通った。母は、「この先を思うと夜はねむれない」と嘆いた。倉庫の中のわが家の財産は全てなくなった。
注1 疎開=戦争の被害を避けるため分散する
注2 接収=強制的に人民の所有物をめしあげる
注3 封鎖=強制的にりょう不可になる
注4 装甲車=小火器弾を防御できる程度の装備をつけた軍用自動車
私が生まれ育ったのは北朝鮮の「鎮南浦《チンナムポ》」という町である。大同江《だいどうこう=テドン・ガン》の大きな河口に位置し、川は黄海に流れている。住民は五万人、そのうち日本人が八千人いた。
ソ連参戦によって八月十三日、満州から八千人の疎開《注1》者がこの地に送られてきた。しかも、女、子どもが多かった。二目後の十五目、敗戦を迎えたので、受け入れ側もいかに大変であったかがわかる。そのうえ、官公庁の官舎などはもちろん日鉱精錬所、三菱マグネ、理研、昭電エなどが接収《せっしゅう注2》され、社宅に住む家族達は追い出された。埠頭《ふとう》の倉庫に沢山の家族が住むことを余儀なくされた。わが家にも一時は三十人も暮らしていたが、九月十一日に接収されることになる。
警察署には保安隊の看板が掲げられた。そこには日本人から没収《=とりあげる》した刀剣類、ラジオ、自転車などが集められた。長と名のつく責任者が次々と保安隊に連行されたり、呼び出しにあったりし、留置《=一定の支配下におく》される者も少なくなかった。父にも呼び出しがきた時は、本当に心配した。だがその日に帰され、ほっとしたことだった。
山の上のスピーカーからは相変わらず朝鮮語の放送が流されていた。「日本人の生命財産は保障します」と、日本語で時々放送するようになった。銀行が封鎖《注3》され、商売も停止になって、収入の道も断たれた。
間もなく三十八度線以北の北朝鮮は、ソ連軍が進駐することになり、事態は急変していく。私達の暮らしはどうなるのだろう。不安はつのるばかりであった。
わが家を接収される
九月五日、ソ連の将校十数名が町に入ってきた。朝鮮の役人とソ連の将校がわが家にやってきて、倉庫に積まれたビールを全部運び出していった。治安隊の看板と並んで赤衛隊《広義には赤軍》の看板も出ている。(当時、保安隊の中に赤衛隊と呼ばれた組織があったようである)
接収は民間の住宅にまで及んだ。最初に狙われたのは、わが家から数軒はなれた角の店である。富田儀作という方の家で、大きなウインドウにはIメートル以上もある高麗焼きの壷がいくつも並んでいた。町のために沢山貢献《こうけん》した人だと聞いていた。お寺の近くにあった三和花園は、四月の末には桜が見事に咲いて町の人達で賑わった。生物の時間にそこで勉強もした。その三和花園も富田氏によるものであった。
九月十一日、わが家が接収された。朝九時頃、赤衛隊が来て家を取り囲み、五時までに明け渡せという。家の前には牛車や馬車が並んだ。一人の兄は海軍兵学校へ行っていて居ない。残ったきょうだい六人の長子として私は、父を手伝い、店の帳簿を祖父の家に何度も運んだ。帳簿が重くニキロ近くの道のりを必死で歩いた。
満州からの疎間者と社宅を追われた家族も同居していたので、家の中はごったがえした。運び出す物は点検され、身の回りの物を運び出すのがやっとだった。
家を明け渡す最後の別れに、父は「家に礼をして行こう」と言った。私達は横一列に並んでお辞儀《じぎ》をした。このときの父が忘れられない。母は冬のオーバーやセーターが入った衣装缶を二つも押さえられたと、悔しがった。
身重な母
祖父の家にも満州からの疎間者が三家族十人もいた。わが家の引っ越し荷物は祖父の家に近い赤レンガの倉庫に一時入れた。わが家が接収されたことは、家族にとって「悔しい」ではすまされなかった。タンスにしまってあった父や母の着物は、もちろん、私や妹たちの服や晴れ着に骨董品、軸《じく》ものまで押さえられ、裏の大きな倉庫に入れられたのだ。
母は隣近所の人達の手助けでやっと働いていた。九月半ばになると、朝鮮は冷涼な季節になる。母はセルの着物を着ていた。急な引っ越しに動転《どうてん》もしたであろう。母は身重であった。当時の引っ越しは馬車や牛車を使った。引き手は朝鮮の現地の人である。
私たち八人は祖父の家に落ち着くことになった。ひと月後には、またそこも追い出される。
祖父の家に移って間もない九月十五日、ソ連の軍隊が入ってきた。巨大な戦車、装甲車《そうこうしゃ注4》、トラックが列をなし、兵隊達は二部合唱で足並みを揃えて行進していった。町には、ソ連兵が腕時計を狙っ《ねらって》て民家を襲ってくるという噂《うわさ》が広がった。十月に入った頃、二人のソ連兵が自動小銃をかかえてやってきた。祖父がかねて用意していた時計を二人に渡して事なきを得た。私達女、子どもは、小屋の中で震えていた。
わが家は貿易商だったので、商品は総て倉庫にあった。臨港鉄道のそばに二つ、埠頭に一つ、家の裏の一つ。どれもこれもすべて鍵をとられてしまった。ソ連が来てからトラックが家の前を引っ切りなしに通った。母は、「この先を思うと夜はねむれない」と嘆いた。倉庫の中のわが家の財産は全てなくなった。
注1 疎開=戦争の被害を避けるため分散する
注2 接収=強制的に人民の所有物をめしあげる
注3 封鎖=強制的にりょう不可になる
注4 装甲車=小火器弾を防御できる程度の装備をつけた軍用自動車