Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_7
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異国での敗戦(北朝鮮) (きぬ子, 2006/9/23 16:33)
- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_1 (きぬ子, 2006/9/23 16:34)
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- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8 (きぬ子, 2006/9/23 16:43)
きぬ子
投稿数: 9
三十八度線に向かって
大同江《テドン》一夜を船の上で明かし、十月一日、黄海道《ファンヘ》に上陸した。その夜は倉庫のむしろの上で眠った。石を積み、持ってきた鍋《なべ》でご飯を炊いた。駅まで全員長い行列を作り田舎道を歩く。荷物の検査を受け、夕方に乗った貨物列車に荷物を床にぎっしり積み、その上に私達は座った。
身動きできないほどぎゆうづめだったが、列車に乗れたことだけでもありがたかった。夜中、トンネルの中で汽車が止まった。
汽車を運転する朝鮮人達が、「金や物をよこせ」と要求してきた。私も仕方なく学校の制服を出した。母が縫ってくれた服だった。やっと動き出したら雨になった。無蓋車《むがいしゃ=屋根のない貨車》も何両かあったと聞く。外側が真っ黒にすすけた鍋でご飯を炊く。
細いたんぽ道、高いポプラの並木、小高い山道を遅れないように歩いて広場に出た。また荷物の検査が待っていた。歩いては休み、また歩く。
ある田舎町にきたとき、牛車が雇えることになった。牛車に母と二歳の妹が乗り、私達の荷物も乗せた。父と私達、四歳の妹もいっしょに歩いた。天気が良かったことは幸いだった。みんな励まし合い助け合って歩いた。
夕方、山に囲まれた広場にきた。そこで野宿することになった。父は家族の健康を心配し、民家を探して交渉してきた。四畳半より狭いオンドルだった。オンドル《温突》は暖かく父が持ってきた一枚の布団でハ人が眠った。この布団がどれほど役に立ったか知れない。私達はぐっすり眠って元気になった。布団はそこの家において出た。
十月五日、いよいよ国境三十八度線に向かって歩く。「もう少しだから頑張ろう」。誰もそう言い合って歩いた。長い休憩があって、夜十時頃だったろうか。空には丸い月が光って見えた。班ごとにまとまり、坂道を隊を組んで出発した。みんな緊張して静かだった。みんなの歩く足音だけが聞こえた。
国境を越える
夜十時、国境に向かって出発した。私達の足音が次第にサクサクと砂地を歩く音になってきた。川に近づいて来たらしい。川には板が渡してあった。大きい石などいくつも置いて渡りやすくしてあった。夜だし、子どもや年寄りもいる。男の人が二、三人いて、手を取ってくれた。川はあまり深くなかった。砂地の道をしばらく歩き、山道を下る頃、空か白みかけてきた。見ると遠くに民家が四、五軒。ぼんやり灯りがともっている。
三十八度線の国境を越えたのだ。「やった、やった」「やったぞ」「青丹だ」。人々は口々に叫んだ。長い間の念願が叶《かな》った瞬間の喜びの表現だったのだ。歌を歌う人、喜び抱き合う人びと、涙を流す人もいた。父も母も妹も弟もみんな無事に越えてきた。あの薄明かりの中にぼんやりと灯のともる民家が浮かんだ光景は、今も私の目に焼きついている。天気が良かったことと、川を渡してくださった人たちに感謝した。
国境に近い青丹の倉庫で夜を明かし、開城《ケソン》の町に向かう列車に乗った。列車を降り、町の中を並んで歩いた。そのとき一人の朝鮮人の男性が父に近づいてきた。「鈴木さんじゃないですか。ちょっと待ってください」と言って朝鮮のもちを沢山買ってきて、「大変でしたね、食べてください」と差し出した。父と以前親交のあった人であろう。父は丁寧《ていねい》にその男性に礼を言った。ここでも現地の人の優しさに元気づけられた。
私達はアメリカ軍の幕舎《ばくしゃ注1》に落ち着いた。毛布をもらいテント生活がしばらく続いた。二回の食事は、いつもトウモロコシやコウリャンのお粥だった。二歳の妹には極寒の中で凍らせて作ったご飯を食べさせた。元気な者は物と交換した大根をよくかじった。
白髪の医者I先生がそこにいた。倉庫の中も、幕舎もよく回って診療を続けていた献身的な先生の姿は神々しく見えた。
開城《ケソン》の幕舎暮らし
南浦《ナムポ》港を艀(はしけ)で出発して、三十八度線を越えて開城についた。一週間足らずだったろう。開城《ケソン》での幕舎生活は二週間余りにもなった。満州、北朝鮮からの引揚げ者が多く、受け入れ側は大変であったと思う。
鉄条網に囲まれたテント村からは一歩も外には出られなかった。現地の人と鉄条網越しに食べ物をお金や品物で買った。やわらかい四角の朝鮮のおもち、リンゴ、大根などが手に入った。
沢山の幕舎のなかで、私は、平壌《ピョンヤン》へ転校していった友達のMさんにばったり出会った。山口県の徳山に帰ると言っていたMさんとは、今でもお付き合いが続いている。親しい友達同士は、お互いに帰るところを教え合った。一応は寝食に困らないテント暮らしのなかで、一緒に出発した仲間が亡くなった。六十歳代の男性二人だった。
昭和五十六年《1981年》、京都で帰国して初めての同窓会を開いた。各地方から四十人が集まった。お互い顔を見て、ただただ涙、涙だった。一人の恩師が挨拶のなかで、「私は亡くなった方を担いで三十八度線を越えました」と話した。祖国を目の前にして亡くなった人達は、女、子ども、お年寄り…。その裏で様々な困難や災難、苦難を支えてくれた人達があった。
朝鮮の秋はリンゴがたわわに実る。「リンゴ照りそう丘つづき」と校歌にも歌われた。あさひ、祝い、紅玉、インドリンゴなど、テント村で手に入れたリンゴはどれも美味しく、よく皮のままかぶりついた。大根は味噌をつけると格別だった。
わが家の家族が無事に越境できたのは、秋の実りの多い季節で、しかも、天候に恵まれたせいではないかと思った。第一陣から、次々に引き揚げた人達の経験が生かされたことも幸いした。
注1 幕舎=野外につくったテント張りの営舎
大同江《テドン》一夜を船の上で明かし、十月一日、黄海道《ファンヘ》に上陸した。その夜は倉庫のむしろの上で眠った。石を積み、持ってきた鍋《なべ》でご飯を炊いた。駅まで全員長い行列を作り田舎道を歩く。荷物の検査を受け、夕方に乗った貨物列車に荷物を床にぎっしり積み、その上に私達は座った。
身動きできないほどぎゆうづめだったが、列車に乗れたことだけでもありがたかった。夜中、トンネルの中で汽車が止まった。
汽車を運転する朝鮮人達が、「金や物をよこせ」と要求してきた。私も仕方なく学校の制服を出した。母が縫ってくれた服だった。やっと動き出したら雨になった。無蓋車《むがいしゃ=屋根のない貨車》も何両かあったと聞く。外側が真っ黒にすすけた鍋でご飯を炊く。
細いたんぽ道、高いポプラの並木、小高い山道を遅れないように歩いて広場に出た。また荷物の検査が待っていた。歩いては休み、また歩く。
ある田舎町にきたとき、牛車が雇えることになった。牛車に母と二歳の妹が乗り、私達の荷物も乗せた。父と私達、四歳の妹もいっしょに歩いた。天気が良かったことは幸いだった。みんな励まし合い助け合って歩いた。
夕方、山に囲まれた広場にきた。そこで野宿することになった。父は家族の健康を心配し、民家を探して交渉してきた。四畳半より狭いオンドルだった。オンドル《温突》は暖かく父が持ってきた一枚の布団でハ人が眠った。この布団がどれほど役に立ったか知れない。私達はぐっすり眠って元気になった。布団はそこの家において出た。
十月五日、いよいよ国境三十八度線に向かって歩く。「もう少しだから頑張ろう」。誰もそう言い合って歩いた。長い休憩があって、夜十時頃だったろうか。空には丸い月が光って見えた。班ごとにまとまり、坂道を隊を組んで出発した。みんな緊張して静かだった。みんなの歩く足音だけが聞こえた。
国境を越える
夜十時、国境に向かって出発した。私達の足音が次第にサクサクと砂地を歩く音になってきた。川に近づいて来たらしい。川には板が渡してあった。大きい石などいくつも置いて渡りやすくしてあった。夜だし、子どもや年寄りもいる。男の人が二、三人いて、手を取ってくれた。川はあまり深くなかった。砂地の道をしばらく歩き、山道を下る頃、空か白みかけてきた。見ると遠くに民家が四、五軒。ぼんやり灯りがともっている。
三十八度線の国境を越えたのだ。「やった、やった」「やったぞ」「青丹だ」。人々は口々に叫んだ。長い間の念願が叶《かな》った瞬間の喜びの表現だったのだ。歌を歌う人、喜び抱き合う人びと、涙を流す人もいた。父も母も妹も弟もみんな無事に越えてきた。あの薄明かりの中にぼんやりと灯のともる民家が浮かんだ光景は、今も私の目に焼きついている。天気が良かったことと、川を渡してくださった人たちに感謝した。
国境に近い青丹の倉庫で夜を明かし、開城《ケソン》の町に向かう列車に乗った。列車を降り、町の中を並んで歩いた。そのとき一人の朝鮮人の男性が父に近づいてきた。「鈴木さんじゃないですか。ちょっと待ってください」と言って朝鮮のもちを沢山買ってきて、「大変でしたね、食べてください」と差し出した。父と以前親交のあった人であろう。父は丁寧《ていねい》にその男性に礼を言った。ここでも現地の人の優しさに元気づけられた。
私達はアメリカ軍の幕舎《ばくしゃ注1》に落ち着いた。毛布をもらいテント生活がしばらく続いた。二回の食事は、いつもトウモロコシやコウリャンのお粥だった。二歳の妹には極寒の中で凍らせて作ったご飯を食べさせた。元気な者は物と交換した大根をよくかじった。
白髪の医者I先生がそこにいた。倉庫の中も、幕舎もよく回って診療を続けていた献身的な先生の姿は神々しく見えた。
開城《ケソン》の幕舎暮らし
南浦《ナムポ》港を艀(はしけ)で出発して、三十八度線を越えて開城についた。一週間足らずだったろう。開城《ケソン》での幕舎生活は二週間余りにもなった。満州、北朝鮮からの引揚げ者が多く、受け入れ側は大変であったと思う。
鉄条網に囲まれたテント村からは一歩も外には出られなかった。現地の人と鉄条網越しに食べ物をお金や品物で買った。やわらかい四角の朝鮮のおもち、リンゴ、大根などが手に入った。
沢山の幕舎のなかで、私は、平壌《ピョンヤン》へ転校していった友達のMさんにばったり出会った。山口県の徳山に帰ると言っていたMさんとは、今でもお付き合いが続いている。親しい友達同士は、お互いに帰るところを教え合った。一応は寝食に困らないテント暮らしのなかで、一緒に出発した仲間が亡くなった。六十歳代の男性二人だった。
昭和五十六年《1981年》、京都で帰国して初めての同窓会を開いた。各地方から四十人が集まった。お互い顔を見て、ただただ涙、涙だった。一人の恩師が挨拶のなかで、「私は亡くなった方を担いで三十八度線を越えました」と話した。祖国を目の前にして亡くなった人達は、女、子ども、お年寄り…。その裏で様々な困難や災難、苦難を支えてくれた人達があった。
朝鮮の秋はリンゴがたわわに実る。「リンゴ照りそう丘つづき」と校歌にも歌われた。あさひ、祝い、紅玉、インドリンゴなど、テント村で手に入れたリンゴはどれも美味しく、よく皮のままかぶりついた。大根は味噌をつけると格別だった。
わが家の家族が無事に越境できたのは、秋の実りの多い季節で、しかも、天候に恵まれたせいではないかと思った。第一陣から、次々に引き揚げた人達の経験が生かされたことも幸いした。
注1 幕舎=野外につくったテント張りの営舎