Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8
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異国での敗戦(北朝鮮) (きぬ子, 2006/9/23 16:33)
- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_1 (きぬ子, 2006/9/23 16:34)
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- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8 (きぬ子, 2006/9/23 16:43)
きぬ子
投稿数: 9
釜山《プサン》から興安丸に乗る
幕舎生活から解放され、釜山に向かう列車に乗った。貨物列車ではなく客車に乗った。十月二十日すぎ、釜山港の埠頭の倉庫に落ち着いた。白髪の医師、I先生がここでも具合の悪い人達の診療に当たっていた。その姿に頭が下がった。
港には夢にまで見た客船、興安丸が停泊していた。見上げる客船の舳先(へさき)には日の丸の旗がはためいている。この船をどれほど待ち焦《こ》がれていたことか…。私は、しばらくの間、じっと立って心にその姿を焼き付けた。誰もが同じ思いだったろう。
乗船してしばらくすると、ドラが鳴り、博多港に向かって出航した。甲板下の部屋に雑魚寝《ざこね》のような形で横になった。夜九時以後は絶対に甲板に出ないように注意があった。甲板から上の客室にはアメリカ兵が乗っていた。興安丸に日の丸はあっても、敗戦国だったのだ。
船中では夕食後、ホールでのど自慢が始まり、三晩ぐらい続いた。もうすぐ日本に帰れる喜びで歌謡曲や民謡、昔の唄がよく歌われた。「花つむ野辺に日はおちて――」「誰か故郷を思わざる」などが、特によく歌われたが、見ている人も一緒に声を出して歌った。気持ちが誰もそれぞれのふるさとに飛んでいた。
私達家族も、祖父母や父のふるさとを目指した。家もお墓も、田や畑もあると聞いてはいるか、私達きょうだいは、初めて見る土地である。おとぎ話で読んだ、かぐや姫、すずめのお宿、こぶとり爺さんなどは、全部日本の話ばかりだった。幼い頃から私は、日本はおとぎの国とあこがれていた。
日本は、もうすぐだ。兄もきっと元気でみんなを待っているだろう。
博多港から祖国へ
私達は、何度も甲板に出ては舳先(へさき)の方向を見た。「あ、対馬だ」「そうだ、そうだ」。人々は口々にうなずき合った。次に見えたのは壱岐《いき》である。もう本土は近い。しかし、船はなかなか港に入らなかった。検査を受けたりして、十月二十五日、やっと博多港に着いた。
船の上から博多の埠頭を見た。はじめて見る婦人警官の姿がまぶしかった。船を降りると、白い粉の消毒を受け、手続きも時間がかかった。尋ね人を書いた書類が沢山あった。やがて粗末な小屋に案内され、白いおにぎりを一つずつもらった。お米は何日ぶりであろうか。おいしくいただいた。
夕方近く、軽くなった荷物を持って私達一家は同郷の人達と汽車に乗った。八幡製鉄が車窓から見えた。爆撃のひどさに、「やられているな」と父は小声でつぶやいた。山陽本線に入ると、窓から竹藪《たけやぶ》が見えた。絵本で見たとおりだ。私はかぐや姫の話を思い出していた。
辺りは暗くなり夜の十一時過ぎ、山口県のY駅に着いた。ここからはバスに乗らないと家に帰れない。バスが出る明日の朝まで駅で待つことになった。家族の少ない人たちは旅館に泊まりに行き、駅から家が近い同行の人達は駅から出て行った。残ったのは八人家族のわが家だけになった。待合室の隅に荷物をかたよせて、その上に妹達三人と弟を寝かせた。あとの四人は椅子に腰掛けて夜が明けるのを待った。さすがに夜がふけてくると寒さが身にしみた。
夜明け近くなると、駅には行商や通勤の人たちがやってきた。私は顔をあげられなかった。周りの人には、私達の姿が、どう映っただろうか。私達は乞食に近いのかも知れないと思った。
祖国の土をふむ
朝の六時半、一番のバスに乗った私達は瀬戸内の水場で降り、すぐそばにあった、知り合いのお寺にひとまず落ち着いた。住職と奥さんにいたわられ、座敷に上がった。話は広島に落ちた原爆のことや、この近くに沈んでいる巡洋艦のことなどだった。
早速、お風呂を沸かしていただいた。ひと月近くの垢《あか》を落とすことができた。母は一番最後に入り、掃除が天変だったのよ、と言っていた。そのうえ、お昼には、大きなざるにイモを沢山ふかしてくださった。それを食べて二階で休んでいた時、船着き場を眺めていた父が立ち上がり、「亮蔵さーん」と叫んだ。見ると男の人が手を振りながらやって来た。父の従兄弟の亮蔵さんは、水場の前に浮かぶ島に住んでいた。
父や母が一番心配していたのは、兄の行方と病院船に乗せた祖母達のことだった。私達より二週間早く出た祖母達はまだ帰っていないと分かり、父の顔が曇った。兄は四月から山口の学校に入り、寮で暮らしていると、亮蔵さんが教えてくれた。亮蔵さんは、父が戦後、朝鮮から出したハガキをポケットから出して見せた。これにはどうかよろしくたのむ、と筒単に書いてあった。
お寺の広い庭の門の近くに大きな柿の木があった。高い枝先に赤い実が五、六個残っている。ポタッと柿の実がひとつ落ちた。すみきった空に、トンビがピーヒョロと飛んでいった。あーこれが日本の国だ、帰って来たんだなあと、その時しみじみ思った。
私達は亮蔵さんの船に乗って島に渡り、亮蔵さんの大きな家にしばらくお世話になった。この島には、父の従兄弟達の家が三軒あった。祖母のきょうだい達の家である。この小さな島には電灯がなく、夜はランプを灯していた。国木田独歩が若い頃、この島の分教場で教鞭《きょうべん》をとっていたと聞いた。翌朝、父と母が兄を訪ねて山口へ発った。
祖国日本に帰って
島での暮らしは一週間ほど続く。暦は、十一月に入っていた。島では、初めて見たザクロの大きな実がたわわに実っていた。はじけた実のなかには、ルビーのような赤く甘い実がびっしり詰まっていた。
三軒の親類が世帯道具を揃えてくれた。お布団も皿小鉢も、それに古い鏡台まであった。全てを船に乗せ、私達も乗って、父のふるさと、瀬戸へ向かった。父の生まれた瀬戸には船着き場(がんぎ)があり、荷下ろしは簡単にできた。
日曜日には兄も帰ってきて、一家全員が揃った。海軍兵学校にいた兄は、敗戦後、同郷の友人と学校のカッターに乗って手旗信号で、「曳航《えいこう》せよ」と言って、漁船に引っ張ってもらってここまで帰ったんだよ、と得意げに話してくれた。家の前には祖母の親元の家、ほかに何軒かの親類があってお世話になった。
それからまもなく祖母達が無事に帰ってきた。行く先を騙されたうえ、伝染病も出て散々な目に合ったという。一ヶ月半もかかって、やっと帰った年寄りの気持ちを思った。すでにできていたお墓に、祖父のお骨を納めた。
そのころ、出征《しゅっせい注1》してシベリアに抑留《よくりゅう注2》されていた父の弟が帰るという知らせがあった。バスの終点へ迎えに父と出た。バスが止まり、叔父が降りてきた。そのとき、側にいた人が、父に祖父の悔やみを言った。祖父が死んだことを知らない叔父は、「お父さんは」と言って絶句した。家の近くまで来たとき、家にいた祖母が待ちきれず走り出て叔父にしがみついた。祖母と叔父の嘆く姿に、私は母子の情愛を強く感じた。
叔父は船の中でもらった菓子折を祖父の写真に供え、手を合わせた。シベリアの厳しい寒さを越した叔父の顔のしわや、歯が欠けていたのが痛ましかった。
斉藤 絹子_1931
注1 出征=軍隊の一員として戦地にいく
注2 抑留=強制的にとどめおく
幕舎生活から解放され、釜山に向かう列車に乗った。貨物列車ではなく客車に乗った。十月二十日すぎ、釜山港の埠頭の倉庫に落ち着いた。白髪の医師、I先生がここでも具合の悪い人達の診療に当たっていた。その姿に頭が下がった。
港には夢にまで見た客船、興安丸が停泊していた。見上げる客船の舳先(へさき)には日の丸の旗がはためいている。この船をどれほど待ち焦《こ》がれていたことか…。私は、しばらくの間、じっと立って心にその姿を焼き付けた。誰もが同じ思いだったろう。
乗船してしばらくすると、ドラが鳴り、博多港に向かって出航した。甲板下の部屋に雑魚寝《ざこね》のような形で横になった。夜九時以後は絶対に甲板に出ないように注意があった。甲板から上の客室にはアメリカ兵が乗っていた。興安丸に日の丸はあっても、敗戦国だったのだ。
船中では夕食後、ホールでのど自慢が始まり、三晩ぐらい続いた。もうすぐ日本に帰れる喜びで歌謡曲や民謡、昔の唄がよく歌われた。「花つむ野辺に日はおちて――」「誰か故郷を思わざる」などが、特によく歌われたが、見ている人も一緒に声を出して歌った。気持ちが誰もそれぞれのふるさとに飛んでいた。
私達家族も、祖父母や父のふるさとを目指した。家もお墓も、田や畑もあると聞いてはいるか、私達きょうだいは、初めて見る土地である。おとぎ話で読んだ、かぐや姫、すずめのお宿、こぶとり爺さんなどは、全部日本の話ばかりだった。幼い頃から私は、日本はおとぎの国とあこがれていた。
日本は、もうすぐだ。兄もきっと元気でみんなを待っているだろう。
博多港から祖国へ
私達は、何度も甲板に出ては舳先(へさき)の方向を見た。「あ、対馬だ」「そうだ、そうだ」。人々は口々にうなずき合った。次に見えたのは壱岐《いき》である。もう本土は近い。しかし、船はなかなか港に入らなかった。検査を受けたりして、十月二十五日、やっと博多港に着いた。
船の上から博多の埠頭を見た。はじめて見る婦人警官の姿がまぶしかった。船を降りると、白い粉の消毒を受け、手続きも時間がかかった。尋ね人を書いた書類が沢山あった。やがて粗末な小屋に案内され、白いおにぎりを一つずつもらった。お米は何日ぶりであろうか。おいしくいただいた。
夕方近く、軽くなった荷物を持って私達一家は同郷の人達と汽車に乗った。八幡製鉄が車窓から見えた。爆撃のひどさに、「やられているな」と父は小声でつぶやいた。山陽本線に入ると、窓から竹藪《たけやぶ》が見えた。絵本で見たとおりだ。私はかぐや姫の話を思い出していた。
辺りは暗くなり夜の十一時過ぎ、山口県のY駅に着いた。ここからはバスに乗らないと家に帰れない。バスが出る明日の朝まで駅で待つことになった。家族の少ない人たちは旅館に泊まりに行き、駅から家が近い同行の人達は駅から出て行った。残ったのは八人家族のわが家だけになった。待合室の隅に荷物をかたよせて、その上に妹達三人と弟を寝かせた。あとの四人は椅子に腰掛けて夜が明けるのを待った。さすがに夜がふけてくると寒さが身にしみた。
夜明け近くなると、駅には行商や通勤の人たちがやってきた。私は顔をあげられなかった。周りの人には、私達の姿が、どう映っただろうか。私達は乞食に近いのかも知れないと思った。
祖国の土をふむ
朝の六時半、一番のバスに乗った私達は瀬戸内の水場で降り、すぐそばにあった、知り合いのお寺にひとまず落ち着いた。住職と奥さんにいたわられ、座敷に上がった。話は広島に落ちた原爆のことや、この近くに沈んでいる巡洋艦のことなどだった。
早速、お風呂を沸かしていただいた。ひと月近くの垢《あか》を落とすことができた。母は一番最後に入り、掃除が天変だったのよ、と言っていた。そのうえ、お昼には、大きなざるにイモを沢山ふかしてくださった。それを食べて二階で休んでいた時、船着き場を眺めていた父が立ち上がり、「亮蔵さーん」と叫んだ。見ると男の人が手を振りながらやって来た。父の従兄弟の亮蔵さんは、水場の前に浮かぶ島に住んでいた。
父や母が一番心配していたのは、兄の行方と病院船に乗せた祖母達のことだった。私達より二週間早く出た祖母達はまだ帰っていないと分かり、父の顔が曇った。兄は四月から山口の学校に入り、寮で暮らしていると、亮蔵さんが教えてくれた。亮蔵さんは、父が戦後、朝鮮から出したハガキをポケットから出して見せた。これにはどうかよろしくたのむ、と筒単に書いてあった。
お寺の広い庭の門の近くに大きな柿の木があった。高い枝先に赤い実が五、六個残っている。ポタッと柿の実がひとつ落ちた。すみきった空に、トンビがピーヒョロと飛んでいった。あーこれが日本の国だ、帰って来たんだなあと、その時しみじみ思った。
私達は亮蔵さんの船に乗って島に渡り、亮蔵さんの大きな家にしばらくお世話になった。この島には、父の従兄弟達の家が三軒あった。祖母のきょうだい達の家である。この小さな島には電灯がなく、夜はランプを灯していた。国木田独歩が若い頃、この島の分教場で教鞭《きょうべん》をとっていたと聞いた。翌朝、父と母が兄を訪ねて山口へ発った。
祖国日本に帰って
島での暮らしは一週間ほど続く。暦は、十一月に入っていた。島では、初めて見たザクロの大きな実がたわわに実っていた。はじけた実のなかには、ルビーのような赤く甘い実がびっしり詰まっていた。
三軒の親類が世帯道具を揃えてくれた。お布団も皿小鉢も、それに古い鏡台まであった。全てを船に乗せ、私達も乗って、父のふるさと、瀬戸へ向かった。父の生まれた瀬戸には船着き場(がんぎ)があり、荷下ろしは簡単にできた。
日曜日には兄も帰ってきて、一家全員が揃った。海軍兵学校にいた兄は、敗戦後、同郷の友人と学校のカッターに乗って手旗信号で、「曳航《えいこう》せよ」と言って、漁船に引っ張ってもらってここまで帰ったんだよ、と得意げに話してくれた。家の前には祖母の親元の家、ほかに何軒かの親類があってお世話になった。
それからまもなく祖母達が無事に帰ってきた。行く先を騙されたうえ、伝染病も出て散々な目に合ったという。一ヶ月半もかかって、やっと帰った年寄りの気持ちを思った。すでにできていたお墓に、祖父のお骨を納めた。
そのころ、出征《しゅっせい注1》してシベリアに抑留《よくりゅう注2》されていた父の弟が帰るという知らせがあった。バスの終点へ迎えに父と出た。バスが止まり、叔父が降りてきた。そのとき、側にいた人が、父に祖父の悔やみを言った。祖父が死んだことを知らない叔父は、「お父さんは」と言って絶句した。家の近くまで来たとき、家にいた祖母が待ちきれず走り出て叔父にしがみついた。祖母と叔父の嘆く姿に、私は母子の情愛を強く感じた。
叔父は船の中でもらった菓子折を祖父の写真に供え、手を合わせた。シベリアの厳しい寒さを越した叔父の顔のしわや、歯が欠けていたのが痛ましかった。
斉藤 絹子_1931
注1 出征=軍隊の一員として戦地にいく
注2 抑留=強制的にとどめおく