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Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_6

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きぬ子

通常 Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_6

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:41
きぬ子  新米   投稿数: 9
税務署に差し押さえられる

 高台の一軒家だったわが家に強盗が入った。それで身の危険を感じ、町へ降りることになった。商売で親しかったH氏宅へ割り込ませてもらった。H家は大きかったが、六、七世帯十七、八人が暮らしている。その中の一部屋を空けていただき、私達家族の生活が始まった。

 H氏は、敗戦まで金物とガラス商を営んでいたので、通りに面した広い店はバザールになっていた。日本人の世話で、売りたい品物をバザールで売ることができた。買いにくる客は、ほとんどがソ連兵、ソ連兵の将校の奥さん達であった。

 私や同級生など年頃の子どもが七、八人もいて、にぎやかだった。バザールに来るソ達人に影響されて、片言のロシヤ語を覚えた。「オオチンハラショ」「ニエット」「タワリシュ」「ロシビダニヤ」。片言を今も覚えている。ロシヤ民謡もロシヤ語で歌えるようになった。近所にも友達がいて流行歌「紫煙る」「青い背広で」「誰か故郷を」を日本語で大きな声で歌っていた。

 ところが四月のある日、わが家に朝鮮の税務署がやってきた。去年の所得に対する税金を払えという。家も倉庫もめぼしい物はみんな取られているのに、税金を払えとは…。
未だに日本に帰る目途《めど》もない暮らしである。父は役人と掛け合ったが、相手は一歩も引かず、差し押さえの赤紙を残った僅《わず》かな荷物にべたべたと貼《は》っていった。

 子どもの私でさえ悔しいと思ったのだから、父や母はどれほどの思いをしただろう。山の手の拡声器で、「日本人の生命財産は保証します」と何回も放送したではないか。
あれは嘘《うそ》だったのか。私達が頼る日本の国からは手が届かない。敗戦の惨めさ、悔しさをたっぷり昧わった。


第一陣、祖国に向かって出発

 唐国の三とせ見ぬレンギョウの花

 この句は、私が朝鮮から引揚げて、転校した先の先生が詠んだ句である。先生も朝鮮から引き揚げてきたのだろう。日本がサクラの国なら、朝鮮はレンギョウの国と言ってもいいほど、真っ黄色の花が街に野に咲き乱れる。

 北朝鮮の厳しい冬を越し、大同江の流氷が解け、サクラやレンギョウの花が咲き出すと、私達日本人は、祖国への思いに胸を膨らませた。今年こそ帰らなくては、日本人会の指示を待ち、準備も考えた。長い冬の間、日本人会では脱出の策を練り、帰路ルートの研究、ソ進軍と朝鮮側との交渉も重ねた。

 五月半ばすぎ、ソ進軍の移動許可を得て、第一陣が出発した。倉庫で暮らしていた二百人ばかりの人達である。広い大同江を艀(はしけ)で渡り、黄海《ファンヘ》道の沙里院《サリウォン》から南下して行く。第一陣を送るためには、周到な準備がなされたろう。三十八度線を越えると南側はアメリカの支配下になる。開城《ケソン》という町にたどりつけば、まず一安心である。

 日本人会を通した集団脱出が待ちきれなくて、個人や小集団で夜逃げした例もいくつかあった。なかには、盗賊に襲われ、命からがら戻ってきた人達もいた。集団脱出が六、七月と続くと、日本人は三分の一になり、町は寂しくなった。そのうえコレラが流行って、外出禁止となり、引き揚げも一時中止になった。幸い、コレラは日本人町には入ってこなかった。六月から七月にかけてアカシヤ並木の白い花の房に蜂が群がった。夏には朝鮮の国花ムクゲの花が咲く。

 現地人たちが次第に幅をきかせてきた。敗戦の日から抑留生活も一年が過ぎた。八月十五日の敗戦の日は、ソ連や朝鮮にとっては、戦勝記念の日である。マンセイ、マンセイと叫んで喜び祝っている。われわれ日本人は益々小さくなって暮らしていた。


九月に次々と脱出決行

 北朝鮮は大陸的気候である。九月になるとすっかり涼しくなる。ここで引揚げ中止命令が出れば、また寒い冬を迎えることになる。そこで九月十三日、三千八百人の大集団で脱出することになった。続いて九月十七日、病院船が南の仁川《インチョン》に向けて出るという。船賃は高かった。

 わが家では、祖母と叔父達がこの船に乗ることになり、父と私達きょうだいは、埠頭へ見送りに行った。年寄りや担架《たんか》に乗せられた病人のほか、身障者《しんしょうしゃ》の姿が目を引いた。この人たちの道中の苦労を思った。乗船者は三千人だった。日本に帰って分かったことだが、この船は南へは行ってなかった。編《だま》されたのだ。

 九月三十日、私達が最後に引き揚げる日となった。一番下の妹を母が背負い、あとの者はリュックを担いだ。子ども達はセーターをきて身支度をした。父は大事な書類のほか、なべやおわんなど、道中の食事の道具も用意し、冬の掛け布団を一枚担いだ。みんな揃って家を後にした。

 埠頭に集まった最後の日本人二千六百人は、艀(はしけ)に乗って向こう岸ヘー昼夜かけて渡るはずだった。ところが、四十人ばかりの技術者が残された。日鉱、理研、日産化学、三菱マグネなどの工場が立ちゆかないための措置であった。残された人達に見送られて、私達の乗った艀は岸を離れた。

 もう帰ることのない北朝鮮の鎖南浦、私が生まれ育った地、十五年間の思い出がいっぱい詰まったふるさとである。この一年余り、次々と事件にあい、怒り、悲しみ、恐怖、悔しさ、惨めさの中でこの日を夢に見、待ちに待ってきた。父は祖父の遺骨を抱いていた。どんな思いをしていただろう。母はちょうど日本にいる長男の身を案じていたと思う。船は闇《やみ》の中を滑るように走っていった。

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