Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_3
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異国での敗戦(北朝鮮) (きぬ子, 2006/9/23 16:33)
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- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8 (きぬ子, 2006/9/23 16:43)
きぬ子
投稿数: 9
強 奪
ソ連兵による時計の強奪ばかりではなかった。民家の接収と朝鮮による現地人の略奪も各地で次々と起きていた。
祖父の家から近かったM子とは、家同士の付き合いがあった。M子の家で、一緒に食事をしたり、お風呂にも入った思い出もある。
十月、天気の良い日であった。春には、ボタンの花が見事に咲くM子の家の庭石に腰掛けて、私たち二人は冬支度の編み物に精出していた。前触れもなく数人の現地人がやってきて、家の者を広間に集めた。「俺達は本も買えなかった」と怒鳴り、本を全部かっさらっていった。
祖父の家に、顔の角張った宗という朝鮮の男が突然、上がり込んで、祖父がチンタオで買ってきた、螺鈿《らでん注1》の応接台と飾り棚を置いていけと言う。家を接収にきたのである。正に強奪だ。何の抵抗もできず、一人の男に家を明け渡す悔しさ、屈辱を、祖父母や両親はどれほど情けなく思ったか。日本が戦争に負けたことで、世の中が引っ繰り返ってしまった。確かに日本は朝鮮を馬鹿にしてきた。馬車ひきや肥え汲み《かわやの糞尿を汲み取る》など、下働きはみな現地の人だった。
明治四十三年《1910年》に日韓併合が行われ、以来、終戦まで三十六年間、植民地として日本が支配してきた。ある記録によると、太平洋戦争中、日本が連行し奴隷のように働かせた朝鮮人はおよそ百万人とみられる、とあった。私が知覧特攻平和会館を見学した時、南の海と空に散っていった勇士は四百三十六人、そのうち八人が朝鮮の人と記録されていた。
私はこの一連の文章を書きながらいつも泣いている。書いていると五十八年前の私に帰ってしまう。だが祖父母も両親もこの世には、もういない。
水道山近くの家で
十月の半ばすぎ、祖父の家を出て、指定された水道山に近い高台の家で暮らすことになった。家までの坂道は二十メートル以上もあった。喘息《ぜんそく》の祖父は杖にすがって何度も休まなくてはならなかった。現地は十月も末になると雪がちらつく。四畳半一間だけのオンドルが一つの救いだった。その家で三世帯十六人の暮らしがはじまった。
日本人会が創立され、対ソ連、対朝鮮の窓口ができた。日本人会にだけ一台のラジオがあった。父は、毎日のように出かけてはラジオや、人々からの情報を聞いて帰ってきた。日本入会の指導で、ソ連と朝鮮の旗を玄関に掲げることになった。赤い布に鎌《かま》と槌《つち》を描き、日の丸を二つ巴《ともえ》に描き四隅に拍子木をかくと、それらしくできた。
山の手の一軒家だったせいか、かつて店にいた朴さんや子守をしていたチェーニもこっそり訪ねてきてくれた。売り食いの暮らしである。父の大切な時計やホームスパンの背広を手放したのもこの頃であった。
日本のお札がソ連紙幣になり、赤い紙幣が一番高く、百円であったかと思う。私と妹は、その赤いお札を持って市場へ何度もお米を買いに行った。市場は朝鮮町の広場でかなりの道のりがあった。乳母車にお米を乗せて、山道を帰る途中、現地の子ども数人に「イリボンチョッパリ」「イリボンチョッパリ」とはやしたてられ、石をなげつけられた。お米を取られては大変と、必死で帰った日もあった。
朝はお芋の入ったお粥《かゆ》、お昼と夕食には大根や野菜を沢山刻み込んだご飯と、おかずは一品だった。誰も一言の不平や文句も言わず黙って食べた。お陰でみんな元気で暮らした。そんな中でも銃声の聞こえない夜はなかった。
母のお産
仮のわが家となった高台の一軒家は、南側に二間続きの縁側があって、その外が藤棚だった。庭木や庭石もあって眺めがよく、日本人町が一望できた。水道山の近くにありながら、水道がなく、下の家まで行って水を汲み上げた。
十一月の曇った寒い日、身重だった母が産気づいた。私たちきょうだい七人をとりあげた小柄な産婆さんが、坂をあえぎあえぎ登ってきてくれた。私は裏で、一斗缶《18リットル缶》で作ったかまどでお湯を沸かし、母の身を案じていた。どうしてよいか分からず、かまどの火を見ながら待つしかなかった。
だいぶ時間が経っても、泣き声がしない。そのうち父が、真っ赤な水の入った洗面器をかかえて出てきた。裏の溝に捨てにきたのだ。十五歳の私には、ショックだった。お産というものは、こんな血に染まった苦しみなのか。産声はなく、死産であった。産婆さんは、「お腹にいる間は生きていたのに」と残念がった。
お寺さんにお経をあげてもらい、それをみんなで聞いた。隣の部屋の母が一人泣いていた。死んで生まれた男の子の、長細い頭や顔は難産であった証拠だと今になって思う。妹たちは、「お爺ちゃんに似て長い顔だ」と言った。小さなお棺に入れられた子は、名前も付けられず、父に抱えられ、山に埋められた。
当時十歳だった妹が高校卒業後、奈良の百済観音《くだらかんのん》に出会い、詩をかいた。
百済からいらしたひょろ高い仏さま
百済に残してきた弟に
おもゆを一ぱいのませてください
戦争のあとのどさくさに 死んで生まれた弟です
死んで生まれたことが せいいっぱいの 親孝行だった弟です
注1 螺鈿=漆器に蝶貝の薄片などはめこんで装飾する
ソ連兵による時計の強奪ばかりではなかった。民家の接収と朝鮮による現地人の略奪も各地で次々と起きていた。
祖父の家から近かったM子とは、家同士の付き合いがあった。M子の家で、一緒に食事をしたり、お風呂にも入った思い出もある。
十月、天気の良い日であった。春には、ボタンの花が見事に咲くM子の家の庭石に腰掛けて、私たち二人は冬支度の編み物に精出していた。前触れもなく数人の現地人がやってきて、家の者を広間に集めた。「俺達は本も買えなかった」と怒鳴り、本を全部かっさらっていった。
祖父の家に、顔の角張った宗という朝鮮の男が突然、上がり込んで、祖父がチンタオで買ってきた、螺鈿《らでん注1》の応接台と飾り棚を置いていけと言う。家を接収にきたのである。正に強奪だ。何の抵抗もできず、一人の男に家を明け渡す悔しさ、屈辱を、祖父母や両親はどれほど情けなく思ったか。日本が戦争に負けたことで、世の中が引っ繰り返ってしまった。確かに日本は朝鮮を馬鹿にしてきた。馬車ひきや肥え汲み《かわやの糞尿を汲み取る》など、下働きはみな現地の人だった。
明治四十三年《1910年》に日韓併合が行われ、以来、終戦まで三十六年間、植民地として日本が支配してきた。ある記録によると、太平洋戦争中、日本が連行し奴隷のように働かせた朝鮮人はおよそ百万人とみられる、とあった。私が知覧特攻平和会館を見学した時、南の海と空に散っていった勇士は四百三十六人、そのうち八人が朝鮮の人と記録されていた。
私はこの一連の文章を書きながらいつも泣いている。書いていると五十八年前の私に帰ってしまう。だが祖父母も両親もこの世には、もういない。
水道山近くの家で
十月の半ばすぎ、祖父の家を出て、指定された水道山に近い高台の家で暮らすことになった。家までの坂道は二十メートル以上もあった。喘息《ぜんそく》の祖父は杖にすがって何度も休まなくてはならなかった。現地は十月も末になると雪がちらつく。四畳半一間だけのオンドルが一つの救いだった。その家で三世帯十六人の暮らしがはじまった。
日本人会が創立され、対ソ連、対朝鮮の窓口ができた。日本人会にだけ一台のラジオがあった。父は、毎日のように出かけてはラジオや、人々からの情報を聞いて帰ってきた。日本入会の指導で、ソ連と朝鮮の旗を玄関に掲げることになった。赤い布に鎌《かま》と槌《つち》を描き、日の丸を二つ巴《ともえ》に描き四隅に拍子木をかくと、それらしくできた。
山の手の一軒家だったせいか、かつて店にいた朴さんや子守をしていたチェーニもこっそり訪ねてきてくれた。売り食いの暮らしである。父の大切な時計やホームスパンの背広を手放したのもこの頃であった。
日本のお札がソ連紙幣になり、赤い紙幣が一番高く、百円であったかと思う。私と妹は、その赤いお札を持って市場へ何度もお米を買いに行った。市場は朝鮮町の広場でかなりの道のりがあった。乳母車にお米を乗せて、山道を帰る途中、現地の子ども数人に「イリボンチョッパリ」「イリボンチョッパリ」とはやしたてられ、石をなげつけられた。お米を取られては大変と、必死で帰った日もあった。
朝はお芋の入ったお粥《かゆ》、お昼と夕食には大根や野菜を沢山刻み込んだご飯と、おかずは一品だった。誰も一言の不平や文句も言わず黙って食べた。お陰でみんな元気で暮らした。そんな中でも銃声の聞こえない夜はなかった。
母のお産
仮のわが家となった高台の一軒家は、南側に二間続きの縁側があって、その外が藤棚だった。庭木や庭石もあって眺めがよく、日本人町が一望できた。水道山の近くにありながら、水道がなく、下の家まで行って水を汲み上げた。
十一月の曇った寒い日、身重だった母が産気づいた。私たちきょうだい七人をとりあげた小柄な産婆さんが、坂をあえぎあえぎ登ってきてくれた。私は裏で、一斗缶《18リットル缶》で作ったかまどでお湯を沸かし、母の身を案じていた。どうしてよいか分からず、かまどの火を見ながら待つしかなかった。
だいぶ時間が経っても、泣き声がしない。そのうち父が、真っ赤な水の入った洗面器をかかえて出てきた。裏の溝に捨てにきたのだ。十五歳の私には、ショックだった。お産というものは、こんな血に染まった苦しみなのか。産声はなく、死産であった。産婆さんは、「お腹にいる間は生きていたのに」と残念がった。
お寺さんにお経をあげてもらい、それをみんなで聞いた。隣の部屋の母が一人泣いていた。死んで生まれた男の子の、長細い頭や顔は難産であった証拠だと今になって思う。妹たちは、「お爺ちゃんに似て長い顔だ」と言った。小さなお棺に入れられた子は、名前も付けられず、父に抱えられ、山に埋められた。
当時十歳だった妹が高校卒業後、奈良の百済観音《くだらかんのん》に出会い、詩をかいた。
百済からいらしたひょろ高い仏さま
百済に残してきた弟に
おもゆを一ぱいのませてください
戦争のあとのどさくさに 死んで生まれた弟です
死んで生まれたことが せいいっぱいの 親孝行だった弟です
注1 螺鈿=漆器に蝶貝の薄片などはめこんで装飾する