Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_4
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異国での敗戦(北朝鮮) (きぬ子, 2006/9/23 16:33)
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- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8 (きぬ子, 2006/9/23 16:43)
きぬ子
投稿数: 9
正月を迎える
寒さが日増しに身にしみた。祖国日本への思いは日毎に募《つの》るばかりである。帰国は全く見通しがたたなかった。冬の厳しい寒さに向かって、年を越さねばならないと、誰もが覚悟を決めた。
倉庫で暮らしている沢山の人達を思うと申し訳なかった。仮のわが家では、暖かいオンドルもあるし、お風呂に入ることもできた。
戦勝の喜びで踊るのか、キリスト教会の広間では、アコーデオンの音楽に合わせて、社交ダンスに打ち興じているソ連の人々の姿を、妹とガラス越しに見た。ソ連軍の兵士達は隊を組み、一部合唱で町を移動した。そのメロディーを私たちはすっかり覚えた。商工学校は兵舎になった。シベリアに流されていた囚人だろうと噂された坊主頭の兵隊達は、白い布を足に包んだ靴下に軍靴《ぐんか》を履いていた。若い婦人兵は、黒の長いブーツにカーキ色のコーートを着て、雪道を歩く姿は格好《かっこう》よかった。太った胸の大きな中年の婦人兵もよく見かけた。
十二月も末近くなると雪の季節になる。雪の積もった藤棚の下で正月を迎えるための餅つきをした。父や叔父が杵《きね》をつき、「ひゅ、ひゅ」という叔父のかけ声が面白く、みんなで大笑いした。臼《うす》のまわりはすぐ凍りついた。道具や材料はどうしてそろえたのか記憶にない。明かりの見えないなかで、家族が楽しんだ一時だった。おせち料理はなくても、とっておきの油で野菜の天ぷらを沢山揚げた。
家族全員、病気もせず暮らせたことに感謝してお雑煮《ぞうに》を祝い、昭和二十一年の正月を無事に過ごすことができた。
現地の人のやさしさにふれる
祖父は、昔から決まったように、朝、お天道さま《おてんとうさま=太陽》に手を合わせ、仏壇で、朝夕のお勤めをすませ、その後で食事をした。「がんがしんにょう、によころう」。妹達もお経を覚えて唱えていた。
暖かな春がくれば、日本に帰る見通しも見えてくるだろう。春が待たれる日々であった。
ある夜、私と妹は、父に連れられ、朝鮮の呉さんの家を訪ねた。呉さんは、以前わが家で「チョンガー」とよばれ、下働きをしていた青年である。呉さんは、「お世話になったお礼をしたいから、暗くなってからきて欲しい」と招いてくれたのだ。三人は、こっそり朝鮮町の家を訪ねた。暖かい部屋に通され、やき肉をご馳走《ちそう》になった。
隣の部屋はきれいに整頓され、赤や黄色、みどりなど色鮮やかな布団と、刺繍《ししゅう》された枕が飾ってあった。日本の暮らしでは、押入に布団をしまうが、呉さんの家には押入がないらしかった。きちんとたたんだお布団の上に枕が飾ってあったのが印象に残っている。新婚生活も見て欲しかったのかもしれない。
わが家に泊まり込みでいた頃、お酒の場で、バカチ(すいかに似た果実を半分にして中をくり抜き、干して水汲みに使う)を背中に入れて踊って見せ、みんなを笑わせてくれたことを思い出した。
敗戦後、現地の人々のやさしさに触れることもしばしばあった。日本の有名な人の書いた、小磯国昭《注1》の軸物《巻物》や伊藤博文《注2》の扁額《へんがく注3》を朝鮮の金持ちに買ってもらったと言って喜んでいた父の言葉も覚えている。私達家族を助けてくれたのも、そんな朝鮮人だったと思う。
厳しい満州からの引揚げ者
私の生まれ育ったこの土地は冬の寒さが厳しく、マイナス十度になる日も珍しくなかった。海岸では流氷が見られ、町を歩く牛車の牛達は白い息をはき、よだれがつららになった。
この寒さを利用して携帯用の食料を作った。人伝えに教えられたのだが、炊きあがったご飯をもろぶたにいれ、庭の木に吊《つる》しておくと一晩で凍りつく。それを天日で干すと、軽く少量になった。いつの日か祖国へ帰る日のため、長い道中を予想して準備した。後日、このご飯は引揚げの時、祖母と二歳の妹の糧となって大いに役立った。
仮のわが家でも暖かいオンドルがあり、お風呂にはいることもできた。しかし、埠頭《ふとう》の倉庫には満州からの疎開者が沢山暮らしていた。私の住む山の手から埠頭の倉庫まではかなりの距離があったので、暮らしの様子を見ることはできなかった。
この寒さで幼子が次々に死んでいったことを聞かされていた。当時の記録を調べてみると、六歳以下の子どもが冬期間、五百三十人死んでいる。(六歳以下の在往者千二百四十人中、四十人死亡〈昭和二十年〉、六歳以下の疎間者千七百八十人中、四百九十人死亡〈昭和二十年〉)。倉庫はコンクリートにむしろを敷いただけで、天井は高く吹きさらしだった。医者に見せても薬もなかったという。何人かの子どもが毎日肺炎やはしかで亡くなり、リンゴ箱に入れられた。トランクを台にして線香やろうそくを立てて供養し、男達が山に埋めてくるという状況であった。山には沢山の墓標が立ったと記されている。
戦争の悲劇では、幼子達が犠牲《ぎせい》になった。今生きていたら六十歳代になる。母に負われて帰った、当時二歳の妹は、栄養不良のため足が弱かった。でも今は二人の孫もできて、幸せに暮らしている。
注1 小磯国昭こいそこにあき=陸軍大将 政治家
注2 伊藤博文=明治の政治家・内閣制度を創設し初代総理大臣
注3 扁額=室内に架ける細長い軸
寒さが日増しに身にしみた。祖国日本への思いは日毎に募《つの》るばかりである。帰国は全く見通しがたたなかった。冬の厳しい寒さに向かって、年を越さねばならないと、誰もが覚悟を決めた。
倉庫で暮らしている沢山の人達を思うと申し訳なかった。仮のわが家では、暖かいオンドルもあるし、お風呂に入ることもできた。
戦勝の喜びで踊るのか、キリスト教会の広間では、アコーデオンの音楽に合わせて、社交ダンスに打ち興じているソ連の人々の姿を、妹とガラス越しに見た。ソ連軍の兵士達は隊を組み、一部合唱で町を移動した。そのメロディーを私たちはすっかり覚えた。商工学校は兵舎になった。シベリアに流されていた囚人だろうと噂された坊主頭の兵隊達は、白い布を足に包んだ靴下に軍靴《ぐんか》を履いていた。若い婦人兵は、黒の長いブーツにカーキ色のコーートを着て、雪道を歩く姿は格好《かっこう》よかった。太った胸の大きな中年の婦人兵もよく見かけた。
十二月も末近くなると雪の季節になる。雪の積もった藤棚の下で正月を迎えるための餅つきをした。父や叔父が杵《きね》をつき、「ひゅ、ひゅ」という叔父のかけ声が面白く、みんなで大笑いした。臼《うす》のまわりはすぐ凍りついた。道具や材料はどうしてそろえたのか記憶にない。明かりの見えないなかで、家族が楽しんだ一時だった。おせち料理はなくても、とっておきの油で野菜の天ぷらを沢山揚げた。
家族全員、病気もせず暮らせたことに感謝してお雑煮《ぞうに》を祝い、昭和二十一年の正月を無事に過ごすことができた。
現地の人のやさしさにふれる
祖父は、昔から決まったように、朝、お天道さま《おてんとうさま=太陽》に手を合わせ、仏壇で、朝夕のお勤めをすませ、その後で食事をした。「がんがしんにょう、によころう」。妹達もお経を覚えて唱えていた。
暖かな春がくれば、日本に帰る見通しも見えてくるだろう。春が待たれる日々であった。
ある夜、私と妹は、父に連れられ、朝鮮の呉さんの家を訪ねた。呉さんは、以前わが家で「チョンガー」とよばれ、下働きをしていた青年である。呉さんは、「お世話になったお礼をしたいから、暗くなってからきて欲しい」と招いてくれたのだ。三人は、こっそり朝鮮町の家を訪ねた。暖かい部屋に通され、やき肉をご馳走《ちそう》になった。
隣の部屋はきれいに整頓され、赤や黄色、みどりなど色鮮やかな布団と、刺繍《ししゅう》された枕が飾ってあった。日本の暮らしでは、押入に布団をしまうが、呉さんの家には押入がないらしかった。きちんとたたんだお布団の上に枕が飾ってあったのが印象に残っている。新婚生活も見て欲しかったのかもしれない。
わが家に泊まり込みでいた頃、お酒の場で、バカチ(すいかに似た果実を半分にして中をくり抜き、干して水汲みに使う)を背中に入れて踊って見せ、みんなを笑わせてくれたことを思い出した。
敗戦後、現地の人々のやさしさに触れることもしばしばあった。日本の有名な人の書いた、小磯国昭《注1》の軸物《巻物》や伊藤博文《注2》の扁額《へんがく注3》を朝鮮の金持ちに買ってもらったと言って喜んでいた父の言葉も覚えている。私達家族を助けてくれたのも、そんな朝鮮人だったと思う。
厳しい満州からの引揚げ者
私の生まれ育ったこの土地は冬の寒さが厳しく、マイナス十度になる日も珍しくなかった。海岸では流氷が見られ、町を歩く牛車の牛達は白い息をはき、よだれがつららになった。
この寒さを利用して携帯用の食料を作った。人伝えに教えられたのだが、炊きあがったご飯をもろぶたにいれ、庭の木に吊《つる》しておくと一晩で凍りつく。それを天日で干すと、軽く少量になった。いつの日か祖国へ帰る日のため、長い道中を予想して準備した。後日、このご飯は引揚げの時、祖母と二歳の妹の糧となって大いに役立った。
仮のわが家でも暖かいオンドルがあり、お風呂にはいることもできた。しかし、埠頭《ふとう》の倉庫には満州からの疎開者が沢山暮らしていた。私の住む山の手から埠頭の倉庫まではかなりの距離があったので、暮らしの様子を見ることはできなかった。
この寒さで幼子が次々に死んでいったことを聞かされていた。当時の記録を調べてみると、六歳以下の子どもが冬期間、五百三十人死んでいる。(六歳以下の在往者千二百四十人中、四十人死亡〈昭和二十年〉、六歳以下の疎間者千七百八十人中、四百九十人死亡〈昭和二十年〉)。倉庫はコンクリートにむしろを敷いただけで、天井は高く吹きさらしだった。医者に見せても薬もなかったという。何人かの子どもが毎日肺炎やはしかで亡くなり、リンゴ箱に入れられた。トランクを台にして線香やろうそくを立てて供養し、男達が山に埋めてくるという状況であった。山には沢山の墓標が立ったと記されている。
戦争の悲劇では、幼子達が犠牲《ぎせい》になった。今生きていたら六十歳代になる。母に負われて帰った、当時二歳の妹は、栄養不良のため足が弱かった。でも今は二人の孫もできて、幸せに暮らしている。
注1 小磯国昭こいそこにあき=陸軍大将 政治家
注2 伊藤博文=明治の政治家・内閣制度を創設し初代総理大臣
注3 扁額=室内に架ける細長い軸