Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_5
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異国での敗戦(北朝鮮) (きぬ子, 2006/9/23 16:33)
- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_1 (きぬ子, 2006/9/23 16:34)
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- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_6 (きぬ子, 2006/9/23 16:41)
- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_7 (きぬ子, 2006/9/23 16:42)
- Re: 異国での敗戦(北朝鮮)_8 (きぬ子, 2006/9/23 16:43)
きぬ子
投稿数: 9
祖父の死
敗戦翌年の三月一日のことだった。前日から熱を出して床に伏せていた祖父が家族全員を集めて、「聞いてくれ」と言って話し始めた。
祖父は喘息もちのうえに高熱のためか、息づかいが苦しそうだった。私たちは膝《ひざ》揃《そろ》えて座った。
「わしはこの病気で死ぬと思う。よう聞いてくれ。朝鮮の土になる覚悟で渡ってきたのじゃから、なんの悔いもない」。ここまで聞いて、私たちはわっと泣き出した。
祖父は「泣かんでもいい。聞いてくれ。朝鮮に渡ってきたのは国が奨励《しょうれい》してきたからじゃ。わしは、国のためにも朝鮮のためにも、精一杯働いてきた。思い残すことはないが、梅子さん(私の母)どうか後を頼みます」「みんなよう見てくれ。わしは大往生《だいおえじょう=安らかに死ぬ》するから心配せんでいい」。
翌日医者に診てもらうと肺炎だった。母は薬局へ走ったが、熱は引かなかった。お寺さんを呼んで欲しいという祖父の頼みで、懇《ねんご》ろにしていた方丈《ほうじょう=住職》さんが来られた。祖父は、お経を聞いてほっとしたのか、翌朝、祖母と父に看《み》取られ大往生を遂《と》げた。三月六日、七十二歳だった。
祖父の存在は大きく家族の誇りであった。明治三十八年、小学一年の父を連れて山口県からこの地に渡ってきた。現地の言葉で現地の人と仲良く話している姿を、私はよく見ていた。西鮮電気、商工会、学校、寺、神社などの世話役も務めた。明治生まれの気骨《きこつ》があった、あの祖父は忘れられない。
春の日が待ち遠しい
大同江の流水が解けるまで、ここから私達日本人は脱出することはできない。暖かくなる日を誰もが待った。抑留生活が長くなり、暮らしも苦しくなってくる。
人の噂《うわさ》どおり商工学校の先生が馬車を引いている姿を見た。幼稚園の先生はリヤカーに野菜を積んで売り歩いている。お世話になった弟は、先生の姿を見て、「お母さん、先生の野菜を買って」と大きい声で訴えた。先生は二人の子どもを抱えていた。ご主人は出征《しゅっせい》したまま行方不明だった。
父は今までやったことのない、わが家の便所のくみ取りをした。家の東側の空き地に穴を掘る。凍っているのでツルハシで三十センチ掘ると、柔らかな土になった。あとはスコップでIメートルくらいの深い穴を掘った。三世帯十六人が暮らしていると、少々ではない量になる。私達も手伝った。父の友達のブリキ屋さんにソ連兵から仕事がきた。父は仕事を習いながら手伝った。こんな時期もあった。
私は同じ屋根の下に住む女学校の家庭科の先生に初めて洋裁を習い、ワンピースを縫った。祖父が着ていたインバネス(着物の春物コート)のリフォームだった。先生もご主人をフイリピンで戦死で亡くしていた。母親と二人の女の子を連れていた。そのとき習った洋裁の知識は、のちに役立ち、妹達の服が縫えるようになった。
祖国日本へ帰る日を私たちは夢に見て、励まし合って生きてきた。日本人会では、脱出の計画を練っていた。現地の桜は日本のソメイヨシノだ。四月の終わり頃に咲く。春はすぐそこまで来ていた。
強盗におそわれる
祖父が亡くなって、高台のわが家にはお悔やみの訪問客が続いた。ソ連軍が進駐しても治安は悪く、いつ日本へ帰れるか当てもない。日毎に暮らしは苦しくなった。あるお客が祖父のことを、「うらやましい。私も死にたいんじゃ」と言っていたのが忘れられない。
それから間もない三月の終り頃、三世帯が住むわが家にとんでもないことが起きた。すっかり寝静まった真夜中だった。雨戸をどんどんと叩《たた》き、雨戸をはずして容赦なく、ガラス戸をこじ開けられた。父が出て財布を渡しても五、六人の男がどやどやと上がりこんできた。家の者は全員目をさまし震え上がった。押入の中にみんな押し込められた。部屋の中では物を探す音がした。
金も金目の物もないと知ると押入の戸をあけ、父の胸ぐらにピストルを突きつけて「金を出せ」と迫った。私達子どもにもピストルを向けて、「殺すぞ」と脅した。祖母は震えながら、「ナンマイダ、ナンマイダ」と唱えていた。どのくらい時間が過ぎたのだろうか。静かになったのを確かめて、押入から出てみると、部屋の中には、山のように物を積み上げていた。米の中まで探したらしく、米がまき散らしてあった。
私は一番気にしていた仏壇を見た。遺骨の入った木の箱は手をつけられていなかった。遺骨の箱には細工がしてあり、お金も入っていた。強盗は父の服と僅《わず》かな金を取って行った。明るくなって私は、ソ連のゲーペーウ(憲兵隊)へ走り、憲兵を遺《つ》れてきた。妹が、「きのう家を覗《のぞ》いていた男だ」と言うので、父と妹は治安隊へ行った。
おじいさんをこんな恐ろしい目にあわせなくて良かった。誰も傷つかず無事であったことが何よりだったと私は思った。後に九人の強盗が捕まったと聞いた。
敗戦翌年の三月一日のことだった。前日から熱を出して床に伏せていた祖父が家族全員を集めて、「聞いてくれ」と言って話し始めた。
祖父は喘息もちのうえに高熱のためか、息づかいが苦しそうだった。私たちは膝《ひざ》揃《そろ》えて座った。
「わしはこの病気で死ぬと思う。よう聞いてくれ。朝鮮の土になる覚悟で渡ってきたのじゃから、なんの悔いもない」。ここまで聞いて、私たちはわっと泣き出した。
祖父は「泣かんでもいい。聞いてくれ。朝鮮に渡ってきたのは国が奨励《しょうれい》してきたからじゃ。わしは、国のためにも朝鮮のためにも、精一杯働いてきた。思い残すことはないが、梅子さん(私の母)どうか後を頼みます」「みんなよう見てくれ。わしは大往生《だいおえじょう=安らかに死ぬ》するから心配せんでいい」。
翌日医者に診てもらうと肺炎だった。母は薬局へ走ったが、熱は引かなかった。お寺さんを呼んで欲しいという祖父の頼みで、懇《ねんご》ろにしていた方丈《ほうじょう=住職》さんが来られた。祖父は、お経を聞いてほっとしたのか、翌朝、祖母と父に看《み》取られ大往生を遂《と》げた。三月六日、七十二歳だった。
祖父の存在は大きく家族の誇りであった。明治三十八年、小学一年の父を連れて山口県からこの地に渡ってきた。現地の言葉で現地の人と仲良く話している姿を、私はよく見ていた。西鮮電気、商工会、学校、寺、神社などの世話役も務めた。明治生まれの気骨《きこつ》があった、あの祖父は忘れられない。
春の日が待ち遠しい
大同江の流水が解けるまで、ここから私達日本人は脱出することはできない。暖かくなる日を誰もが待った。抑留生活が長くなり、暮らしも苦しくなってくる。
人の噂《うわさ》どおり商工学校の先生が馬車を引いている姿を見た。幼稚園の先生はリヤカーに野菜を積んで売り歩いている。お世話になった弟は、先生の姿を見て、「お母さん、先生の野菜を買って」と大きい声で訴えた。先生は二人の子どもを抱えていた。ご主人は出征《しゅっせい》したまま行方不明だった。
父は今までやったことのない、わが家の便所のくみ取りをした。家の東側の空き地に穴を掘る。凍っているのでツルハシで三十センチ掘ると、柔らかな土になった。あとはスコップでIメートルくらいの深い穴を掘った。三世帯十六人が暮らしていると、少々ではない量になる。私達も手伝った。父の友達のブリキ屋さんにソ連兵から仕事がきた。父は仕事を習いながら手伝った。こんな時期もあった。
私は同じ屋根の下に住む女学校の家庭科の先生に初めて洋裁を習い、ワンピースを縫った。祖父が着ていたインバネス(着物の春物コート)のリフォームだった。先生もご主人をフイリピンで戦死で亡くしていた。母親と二人の女の子を連れていた。そのとき習った洋裁の知識は、のちに役立ち、妹達の服が縫えるようになった。
祖国日本へ帰る日を私たちは夢に見て、励まし合って生きてきた。日本人会では、脱出の計画を練っていた。現地の桜は日本のソメイヨシノだ。四月の終わり頃に咲く。春はすぐそこまで来ていた。
強盗におそわれる
祖父が亡くなって、高台のわが家にはお悔やみの訪問客が続いた。ソ連軍が進駐しても治安は悪く、いつ日本へ帰れるか当てもない。日毎に暮らしは苦しくなった。あるお客が祖父のことを、「うらやましい。私も死にたいんじゃ」と言っていたのが忘れられない。
それから間もない三月の終り頃、三世帯が住むわが家にとんでもないことが起きた。すっかり寝静まった真夜中だった。雨戸をどんどんと叩《たた》き、雨戸をはずして容赦なく、ガラス戸をこじ開けられた。父が出て財布を渡しても五、六人の男がどやどやと上がりこんできた。家の者は全員目をさまし震え上がった。押入の中にみんな押し込められた。部屋の中では物を探す音がした。
金も金目の物もないと知ると押入の戸をあけ、父の胸ぐらにピストルを突きつけて「金を出せ」と迫った。私達子どもにもピストルを向けて、「殺すぞ」と脅した。祖母は震えながら、「ナンマイダ、ナンマイダ」と唱えていた。どのくらい時間が過ぎたのだろうか。静かになったのを確かめて、押入から出てみると、部屋の中には、山のように物を積み上げていた。米の中まで探したらしく、米がまき散らしてあった。
私は一番気にしていた仏壇を見た。遺骨の入った木の箱は手をつけられていなかった。遺骨の箱には細工がしてあり、お金も入っていた。強盗は父の服と僅《わず》かな金を取って行った。明るくなって私は、ソ連のゲーペーウ(憲兵隊)へ走り、憲兵を遺《つ》れてきた。妹が、「きのう家を覗《のぞ》いていた男だ」と言うので、父と妹は治安隊へ行った。
おじいさんをこんな恐ろしい目にあわせなくて良かった。誰も傷つかず無事であったことが何よりだったと私は思った。後に九人の強盗が捕まったと聞いた。