陸軍登戸研究所:殺人光線?
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投稿日時 2007/2/6 0:30
かんぶりあ
投稿数: 11
【プロローグ】
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敗戦の足音が聞こえ始めたようなサイパン失陥のあと、東条内閣総辞職、代って小磯内閣が誕生、矢継ぎ早に新施策が次々と施行されて行きました。
学徒出陣に続き学徒動員令 … そして大学の研究室に勤務する科学技術者にも有無を言わせず赤紙が舞い込む有様 …
やがて戦局が電波兵器等の物理戦争の様相を見せるに及び、さすが政府も軍部も慌てて新兵器開発のための科学技術者の養成を始めます。
適性があると認められた者は学徒動員令を解除、各地の旧帝大に集められて特訓が始りました。特攻研究員とでも言うような物凄い特訓を受けたあと軍の研究所や大学の戦時研究部門に送り込まれます。
以下は連日の空襲や艦載機の機銃掃射の中を潜り抜けて研究所勤めをした当時の一若人の戦時体験記です。
戦時下の帝都の日常の生々しい様相の一端などを、この手記から想像して頂ければ幸いです。
もう関係者の実名を出しても迷惑をお掛けする状態ではなくなりました。
【登戸研究所の思い出(1)】
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長旅の末、やっと小田急の登戸の駅に着きましたが、さて目的の研究所の場所がさっぱり分りません。
なにせ学務課で貰った手書きの地図が、どうにもこうにも曖昧で、全然役に立たないのです。
正式の地図には一切載ってないから、と学務課のお嬢さんの手書きの略図を貰ったのが、現地の状況とかなり違って居ります。
地元の人も知らない様子。民家のラジオから、ビーッと言う警報音に続いて、「東部軍情報、東部軍情報、B29一機 … ガガー … 方面より … 」と雑音混じりに何やら聞こえて来ますが、もうこんなものは日常茶飯事。
ここかも知れない、と勘に頼って坂を上ってやっと見付けました。
登戸研究所では第4科に配属、科長は京都帝大・電気工学出身の大槻少佐という人でした。
到着して庶務で書類を提出したら、庶務掛長の大林曹長というのが書類を見るなり目を丸くして、
「お~い! 昭和生まれが来たぞ!」と大声を出しました。
どれどれ、と皆が集って来て、誰かが、 「昭和生まれが来るようじゃあ、日本も、もうおしまいだなあ …」と、ポツリ。
… 何となく情けなくなりました。張り切ってやって来たのになあ …
研究所始って以来の最年小でしたが、間もなくの敗戦で、その後永遠にこの最年小記録は破られることはありません。
4科では気球爆弾関連、殺人光線の実用化等がテーマでした。
戦後の色んな本に風船爆弾とありますが、あれは戦後のマスコミの造語。
もっとも揶揄的には風船と言ってたし、防牒上の見地から外部には「フ」とか風船とか称していたような記憶があります。
めし喰ったら、午後一番に風船畳んで、とか言う具合に使ってました。
本当は「フ号作戦」なんです。
「風船爆弾」と言えば、他に風船式偽装空中機雷がありましたね。
なにせ和紙製の気球ですから、虫が喰わぬように梱包前には天日に当てて良く乾かさねばなりません。
穴開きの瑕物は女性事務員の皆様のレインコートに生まれ変ります。
風船合羽と言ってましたが、終戦直後はバスのシートにも使われました。
警戒警報が出たら目立ちますから、すぐ畳みます。20人位は必要です。
時折り畳んでる途中で、人が中に巻き込まれることがありました。
ラジオから「伊豆方面よりB29一機 …」なんて始ると、これは偵察機ですから確実に写真に写るので、でっかいものが地面に広げた侭になっていては大変危険です。後で艦載機が銃撃にやって来ますから。
米軍側には当時既に「コロネット作戦」という計画があって、主力部隊が相模湾から上陸する予定でした。
その前に終戦になりましたが、日本側も「決3号作戦」で一応は用意して居ました。尤も後で知れば、彼我の戦力には雲泥の差があったのですが …
で、相模湾に上陸して東京を目指す米軍の一部は当時の道路事情から登戸附近に来ることが予想されるので、研究所は信州小諸に疎開することになり日夜解体と梱包、そして軍用トラックで搬送する毎日でした。
しかし超大型の殺人光線(仮称)の設備はそう簡単に解体したり運んだり出来ないので最後まで残りました。
殺人光線と言うより、電気要塞砲と言ったほうが良いかも知れませんが、これは強力な紫外線ビームで空気を電離し、電導度が上った所に超高圧を掛けます。要するに雷を横に走らせる訳ですね。連続パルスにしたりして。
ですから第4科の建物は、縦に長い木造の4階の吹き抜けになっていて、天井から長い碍子がぶら下がり、周囲の壁に階段と廊下が付いて観察出来るようになって居りました。
ベルが鳴って、ビビッ、と大きな火花が飛ぶと、何かの空想科学映画の中にこんな状景があったような気がしました。「メトロポリス」でしたか …
あんなのが現実にあったわけです。
この高圧を高周波で変調すると、B29の点火プラグのタイミングを狂わせることが出来そうだ、なんてこともやってましたね。
水冷式の大電力発振管がありました。
今で言うレーザーも考えられて居りました。でも当時のやり方では非常に効率が悪く、実戦に使うには発電所一基分位の電力が要る計算になります。
ランダムな白熱輻射でも微細な穴を通すとコヒーレントな波になります。
これを多数並列配置し同期したら可能性がある筈、と言うわけです。
考えて見ると、今で言うレーザーを作り出そうとしてたんですね。
実験用の動物が飼ってありまして、山羊だの山猫だの、その他色々居て、ちょっとした小型動物園です。
山猫は人間が近寄るとギャーッと凄い形相をするので、庶務の女性雇員は餌をやるたびに「キャーッ」と悲鳴を上げて居りました。
人間の声の方がよっぽど凄いな、なんて皆でよく笑って居りました。
そして、愈々、色んな新兵器案を提出する段階がやって来ます。
(つづく)
このアーティクルに責任を持つ意味で本名を記して置きます。
========= 新多 昭二 (Shinta Shoji) ========