『奇遇』 (LIPTONE)
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編集者
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『奇遇』 93/08/11 13:13
『奇遇』 93/08/11 13:13
『困った時にはバタビアの「海軍武官府」と連絡すればよい』とだめ押しの言葉を後に、私の双発機《=2個のエンジンを持つ飛行機》はセレベス島マカッサル空港を飛び立った。
昭和20《=1945》年8月初旬の朝9時、ジャワ島スラバヤ空港へ向けて約2時間を超低空で出発した。
『窓側座席の者は、対敵監視を! 眼鏡所有者は窓がわの監視員にメガネを貸すこと。いかなる機影も見逃すな! 以上 機長』
19年暮れまでに入港する筈《はず》の御用船2便とも、途中撃沈されたので現地では各種の品不足が生じ、このままでは日常業務の遂行が困難になってきた。
不足を告げる品物は、主として通信機器の部品で真空管、トランス、継電器の他多種多様の特殊部品だ。我々は19年12月8日の現地マカッサルに於《お》ける第1回大詔奉載日《たいしょうほうたいび=宣戦布告の詔書発行日》には、現地調達《げんちちょうたつ=その地で品物を整える》したラジオ受信機の部品を使って製作したAアンプ《増幅器》やBアンプを用いて、日本本土(NHK)と交歓放送に成功したが、それでも20年4月には市中に点在する有線式ラジオ放送塔の保守も侭《まま》ならぬ様になって来た。
海軍宣撫班《せんぶはん=住民の人心を安定させる任務の班》では、(日本軍が)占領している地域の原住民の人心安定のためには万難を排しても良質の有線ラジオ放送を続ける様に我々に圧力を掛けて来た。
民政府通信課を通して、海軍の通信課と機関課を説得した結果スラバヤの101海軍根拠地へむかう軍用機に便乗出来る事になり台湾銀行マカッサル支店から、手の切れる様な新品軍票《ぐんぴょう=軍が通貨の代用として使用する手形》をトランク一杯に詰め込んでジャワ島へ買い出しに出張する事になったので有る。
途中敵機との遭遇もなく、午前10時40分にはスラバヤ空港に無事着陸。
早速ティガ・ロダ(三輪車)でコタ(市街)に入りホテル・シンパンに宿をとる。昭和12~13《=1937-38》年当時私がスラバヤに居た時から知り合いの、中国系商人で不動産屋をしている店を訪ねて行った。私の父が可愛がっていた「チゥエン」さんが出て来て険《け》わしい顔つきで暫らく私を観察し、ホッとした顔に直おって握手した。
太平洋戦争《=第2次世界大戦のうち東南アジア・太平洋方面での戦争》が起こって《1941年》から、暫らくは、本国へ引き揚げるオランダ人の土地や家の物件が沢山あって、店は忙しかったが、今はジャワ本土全部の不動産が日本軍に押さえられて仕事が無くなり困っている・・・ことを知った。
緊急度に応じて分類された買付け物件のリストを示し、協力を求めた。コミッション《手数料》は買い取り価格の8%支払いは軍票でCODと決定した。
ただし、入手の難しい自動車は50%になった。
バタビア(今のジャカルタ)での買付けは、チゥエンの親戚《しんせき》が荒物《あらもの=雑貨》屋をやっているが、同じコミッションで喜んで協力できる事を知った。この親戚は、バタビアとバンドンに店を持っており、チゥエンよりも活発に仕事をしている様子であった。
バンドンの店には数少ないアマチュア無線のハム《=通信する人》をやっている男が居て、非常に役にたった。
チゥエンの息子の提案で、私の好きな中華料理を食べに行く事になり、到着第一夜はホテル外で食事をすることになった。
接待料理はマカッサルでは味わえぬ美味しさだった。
タンバ・バヤン通りの中国人が経営する料理店には手書きの日本語のメニューがあるが値段が書き入れて無い。支払いはチゥエンがするので気に留めて居なかったがチゥエンの話しに依ると、ほぼ10日置きに値上げをせざるを得ないので、値段をブランクにしてある・・・とのこと。
急加速度のインフレーションに見舞われているのだった。
食事は素晴らしいものだった。 腹一杯になってティガ・ロダにのってホテルへ戻った。
名前は忘れてしまったが、現地陸軍の安酒を飲んだ。
冷水のシャワーを浴びて持参した浴衣《ゆかた》に着替え、ベッドに倒れ込んだ時は真夜中を過ぎていた。
最優先調達物品については、チゥエンに下駄を預けた《げたをあずけた=すべての処理をを相手に頼んだ》ので安心して、ゆっくり寝ていたが、ふと思い出して101根拠地の松尾大尉と連絡する事にした。
まばゅい朝だ。 洗面を済ませると朝食も取らずに波止場の方へ行った。
タンジョン・ペラ(銀の波止場)一帯は日本海軍の根拠地になっていて、松尾大尉は水雷戦隊副隊長としてタンジョン・イタム(黒い波止場)の蓄電池工廠《こうしょう=工場》の事務室にいた。
彼は逓信省《=郵政省の前身》の技官《ぎかん=技師》から召集を受けて戦地に来た方で、今回の私の任務を側面から援助してくれる事になっている。
スラバヤ市東端の此の工廠では海軍の兵士は勿論《もちろん》、軍属《ぐんぞく=軍に所属する軍人でない文官や技官等》や多くの現地住民を使って内火艇《ないかてい=シリンダー内で燃焼したエネルギーによって走る小型の船》の発動機や発電機の修理や整備をしているのだった。既に102根拠地から彼の属する101根拠地に連絡があり、私の訪問を待ち受けていたのだった。
松尾大尉と私のコンビですることは、かって連戦連勝の陸軍がジャワ島を西から東へ進駐《しんちゅう=進軍した地に留まる》(その後ニューギニア?へ転戦)した時、彼等が発見し、接収《=強制的に受け収める》・封鎖した数多くの敵財産の中に、多くの自動車があり、「<何々部隊長>の許可無くして現状の変更を禁ず」とか、「……移動厳禁」などと貼紙された車を、こっそり海軍地区の(タンジョン・ペラ)へ持ち去り、機を見て、何かの便でセレベス島のマカッサル市に運び込む事が、二人に課せられた任務である。
私はその他にも各種資材の入手をしなければならなかったが、松尾大尉と一緒にする仕事は、言い替えると「カー泥棒」そのもので、圧倒的に人数の多い陸軍さんの占領地区での車泥棒は大変困難なのである。余程旨くやらないと直ぐ「陸さん《=陸軍》」の目に止まってしまう。
軍人や軍属でない私が、「…厳禁」の貼紙《はりがみ》を無視して憲兵《けんぺい=軍事警察の兵》に逮捕されたら、殺されなくても「かたわ」にされてしまうであろう。
スラバヤ動物園に近いダルモ住宅街からダルモ・カリ(ダルモ川)にかけてオランダ人の高級住宅があり、その北側の丘陵斜面に日本が造営した対戦国人の収容所がある。
松尾大尉が派遣した調査員の報告によると、ダルモには、直ぐ道路に面した車庫に入ったままの車が4~5台あるとのこと。
車庫の扉は十文字に打ち付けた封印のつもりの板材に、日本語で「禁移動」と書かれているものや扉の無い開けっ放しの車庫に、「○○部隊接収品」と書いた紙片が張り付けられた車もある。目視による判定では、すべて状態は良好らしい。
しかし長期間放置されているので、タイヤ・チューブ、バッテリー、オイル、ガソリン、冷却水を用意しなければならぬ。
車種とその年度別に、取り替え用品を揃えるのに3日間かかり切りだった。車の部品関係で、チゥエンの応援も求めた。
大がかりな車泥棒の準備をする舞台裏は転手こ舞い《てんてこまい》なのだ。
錨《いかり》マーク付き1桁《けた》番号のナンバープレートと将校旗も用意した。
チゥエンはスラバヤ市からマラン市にかけて点在する自動車の修理工場を回って、取り替え用のスパーク・プラッグや交換ランプなどを集めてくれた。
車泥棒の日が来た。
青色三角旗(尉官のマーク)を付けた松尾大尉の乗用車を先頭に、人員輸送の為の乗用車2台、海軍工作車1台合計4台の泥棒の一団が夕暮れのスラバヤ市内をタンジョン・ペラからダルモの高級住宅街に向かって出発した。
大尉の車に同乗した私は、万一憲兵に捕まった時の言葉を考えながら、緊張のため足がガタガタしていた。
偵察員が目星を付けた家の前に4台の車を打ち合わせ通りに、少しづつ重複させ道路に添って一直線にとめて、通行人からは家側では何が始まっているのか分からぬ様に努めた。
もし陸軍の連中が覗《のぞ》き見したら・・・もし憲兵が来たら・・・
気の小さい私には命が縮まる思いの1時間が過ぎた頃、調子の良いエンジンの音が車庫から聞こえてきた。次ぎに短く鋭い警報機の大きな音がした。音が大きいのでハッとした時蘇《よみがえ》った車はヘッドライトをパッと点灯して車庫から静かに出てきた。
なんと、「錨マーク」の2号車のピカピカのプレートが付いて、車の前には佐官級を示す「赤三角旗」がちゃ~んと翻《ひるがえ》って居る。
2号車を先頭に松尾大尉の車がしんがりで全車フルスピードで皓煌《こうこう》とライトをつけてタンジョン・ペラまで戻ってきた。
ここは陸軍でも勝手に立ち入り出来ない「治外法権」地区なのだ。
やっと安心して、参加した将兵一同と共にビールで乾杯した。
更に3台の車を手に入れなければならない。おなじダルモ地区から陸軍が差し押さえた車を戴《いただ》く事にした。
この暴挙を遂行したのはその翌日の夕方であった。
出動人員も、車両数もほぼ2倍の大編成「車ドロ」だった。私は都合でこの第2次出動には加わらなかったが、大成功だった。 蓄電池工廠の庭に、ピカピカの乗用車4台が整然と並んでいるのを見た時思わず「ヤッタ!」と叫んだ。
チゥエンの買付け部隊による収穫は上々で、「要緊急」資材は着々と蓄電池工廠に届けられてくる。
電報通信社(?)のチャータ便がマカッサルへ飛ぶとの情報を得たので、ラジオ放送関係の緊急を要する部品を託した。
車は既に確保済みで、艦船の便が有れば1台づつでも送り出せることの伝言をもついでに依頼しておいた。
チゥエンから、資金切れになったとの通知をうけたので百万ギルダーの追加金を渡した。こんどは、服地や時計やタイプライター謄写版《とうしゃばん=孔版、ガリ版》、医薬品、たばこ、酒などの不急品の買付けを行う。同じ品を追加注文すると、たった一日の違いで既に値上がりしている。
次第に買付けが「買い占め」の様子になって行くのが恐い様に跳《は》ね返ってくる。
列車でバタビアへ行く。 海軍武官府の前田大佐(終戦の時、トランクに一杯の手持ちの現金(軍票)が底を突いてきたので、夜行ソ連モスクワで日本大使をしていた前田閣下の弟にあたる人)に相談して、軍票で100万ギルダーを貰《もら》い受けた。このためバタビアに4日間も滞在させられた。
やっと調達出来た軍票を盗難に合わぬ様、最大の注意をして、バタビアを出発しバンドン市へ来た。
バンドンにやって来たのは2つの理由があった。それはチゥエンの親戚《しんせき》に委託した買付けの進捗状態《しんちょくじょうたい=進み具合》を調べる事と、郊外山間部で長波送信アンテナを建設している会社(国際電気通信株式会社)の先輩に出会って見たいと思ったからである。
先ずホテル・サボイに宿泊することにして大切な軍票を入れたバッグをホテルに預けた。
ホテルには陸軍上等兵と陸軍々属が居て多くの現地人を指揮していた。沢山な陸軍々人がホテルに出入りしている。彼らは敬礼されたり敬礼したり、誠に落ち着かぬ風情、どう言う訳か砂糖に群がる蟻《あり》の様に見えた。
チゥエンの親戚が集めていた通信機器の中には、オランダ製の真空管(殆ど《ほとんど》フィリップス製)の良非を試験するテスターや、オランダ語で書かれた分厚い真空管規格書などもあった。
マカッサルで一生懸命探して居たものである。イーストマン・コダックの熱帯用ッキングした写真フィルム、精製キニーネ(医薬品)、腕時計、タイプライター、タイプライターリボンやカーボン紙、裁縫ミシン真っ白な厚手の洋服生地などなど牛車に一杯集められていた。
これらの物資は5日後にはスラバヤに到着する予定とのこと。
途中2回の検問を通過し、大きく広がった谷間に辿《たど》り着いた。立派な木柱が何本も林立し、無数の支線が谷を跨《また》いでいる。
日本海軍の対艦通信アンテナの建設現場だ。 仲々壮大な眺めで、戦争最中異国の地でこの様な大きい建設の出来る日本の実力を心から嬉《うれ》しく誇りに思った。
先輩の鵜飼技師と手がちぎれる程の握手をして、無事を喜び合つた。時間と距離の関係で、二人で食事するチャンスがないので、帰国したら新宿の例の店でゆっくり一杯・・と言うことで別れた。
次の日の夜行列車でスマラン経由スラバヤに向かった。スラバヤ駅に着いてホテル・シンパンへドッカル(馬車)で行く。荷物は幸いに盗難にも合わず、紛失した物もなかった。
ただ堅い座席に7~8時間腰掛けたままだったので睡眠不足も手伝っていささか疲労した。また機関車は石炭では無く、薪《たきぎ》を燃やしているので時々煙が目に入り涙がでる始末。汗と涙で汚れた顔を早く洗いたかった。
全ての荷物を自室へ運ばせて、上半身裸になって顔を洗っていると、ドアーをノックして日本語がきこえた。
私が記載した宿帳を持って上等兵が戸口に立っている。
『生年月日と住所が違うが、姓名が似ていて、本籍が同じ人がもう一人宿泊している。 この記載事項に相違ないか?』と宿帳を広げて私に示す。不審に思って話を聞くと一昨々日一泊したマドラ州長官の姓名が「萩谷正雄」で本籍が「京都府宮津」、私の名前は「萩谷正隆」で本籍は全くおなじ。
ホテルでは調べるために私の部屋を訪れたがフロントにキーを預けたままの連続外泊。マドラ州長のほうは絶対本物・・・という訳で「不審者」として憲兵隊へ通報した。
私がホテルに戻るのを待っていたのだ。
マドラ州長官は私の親父なのだ!
『すべて正直に記載しました。 身分は証明書のとおりです』と答えて、今度は逆に尋ねた。
『マドラ州の長官といわれましたネ。私の父に間違いありません。 連絡のほうほうは?』
マドラの1番が州事務所、2番が長官々邸、3番が警備隊と言うのが電話番号であった。
これは実際の話しである。
今ごろ、この様なことを言うと、何処《どこ》かのカステラの宣伝をして居るようであるから不思議なことだ。
正午少し前に2名の憲兵がきて、「調べる事がある。スラバヤ憲兵隊へ連行する」と、有無を言わさずダルマ(ミニカー)に乗せられてホテル・シンパンをでた。さすが手錠は掛けられていないが後ろから腰のベルトをガッチリ握られている。
憲兵隊の事務所には、顔見知りの小林さんが陸軍大尉の服装でつっ立つていた。私と小林さんは殆ど同時に「あっ!」と叫んだ。
憲兵大尉はわたしを引っ張ってきた兵を部屋から追い出して、『やっぱり萩谷のボッチャンじゃないの!それは何の服装ですか、海軍地区の何処にいるのですか、スラバヤへ何しに来たのですか』と矢継ぎ早の質問だ。
自動車泥棒の件は伏せておいて、海軍の不足資材を探し回っている。手助けして欲しい。などと心臓強く話してみた。
小林さんは、答えずに、机の上の書類篭《かご》からタブロイド版《273×406ミリ》の新聞の様な印刷物を取り出して、私にも見える様にして読み始めた。
《近時、本島外から制限を超過する軍票を持ち込み、民政並びに戦略物資を買い占める者がいる。このため不要に物価を釣り上げ民心安定を妨げるにいたった・・・》と。
これは「陸軍官報」とよぶ週間情報紙で、間違いなく私のことを書いている。
「速やかに検挙せよ」との言葉も続いている。
『悪い事は言わぬ。一日も早くジャワを出て行きなさい。全島の憲兵が動きだしますョ。お父さんに出会ったら直ぐセレベスへ引上げるんだな。 お父さんに会えるようにして上げよう・・・』
小林憲兵大尉から電話機を受け取ると父の声がする。嬉しくて余り喋る《しゃべる》ことも出来なかったが・・・父は今夕マドラ島を出て深夜には同じホテル・シンパンに着くだろう・・・とのこと。
ジャワ島全部のホテル支配人(軍属)を割り当てたのは父で、多くの軍属の中からホテル業者や宿屋の経営者が指名されたことを後日聞き知った。
寝ないで父の到着をまった。・・・フロントから父の電話だ!
「お久しぶり」も変だし「お元気ですか」も分かり切ったことでおかしい・・・何と言って電話に出れば良いのか、瞬間頭の中がカーッと熱くなったが、とっさに
『スラマット・ダタン!(よくぞいらっしゃいました!)』と現地の言葉で会話が始まった。
間もなく父の大きい部屋へ通されて、(二人共)もう一度夜の食事をする事になった。 食堂は駄目なので、ルームサービスとなる。
ホテルのマネジャーから贈物のワインが届いた。父子再会を祝ってマネジャー自身が栓を抜いてグラスに注いでくれた
『奇遇』 93/08/11 13:13
『困った時にはバタビアの「海軍武官府」と連絡すればよい』とだめ押しの言葉を後に、私の双発機《=2個のエンジンを持つ飛行機》はセレベス島マカッサル空港を飛び立った。
昭和20《=1945》年8月初旬の朝9時、ジャワ島スラバヤ空港へ向けて約2時間を超低空で出発した。
『窓側座席の者は、対敵監視を! 眼鏡所有者は窓がわの監視員にメガネを貸すこと。いかなる機影も見逃すな! 以上 機長』
19年暮れまでに入港する筈《はず》の御用船2便とも、途中撃沈されたので現地では各種の品不足が生じ、このままでは日常業務の遂行が困難になってきた。
不足を告げる品物は、主として通信機器の部品で真空管、トランス、継電器の他多種多様の特殊部品だ。我々は19年12月8日の現地マカッサルに於《お》ける第1回大詔奉載日《たいしょうほうたいび=宣戦布告の詔書発行日》には、現地調達《げんちちょうたつ=その地で品物を整える》したラジオ受信機の部品を使って製作したAアンプ《増幅器》やBアンプを用いて、日本本土(NHK)と交歓放送に成功したが、それでも20年4月には市中に点在する有線式ラジオ放送塔の保守も侭《まま》ならぬ様になって来た。
海軍宣撫班《せんぶはん=住民の人心を安定させる任務の班》では、(日本軍が)占領している地域の原住民の人心安定のためには万難を排しても良質の有線ラジオ放送を続ける様に我々に圧力を掛けて来た。
民政府通信課を通して、海軍の通信課と機関課を説得した結果スラバヤの101海軍根拠地へむかう軍用機に便乗出来る事になり台湾銀行マカッサル支店から、手の切れる様な新品軍票《ぐんぴょう=軍が通貨の代用として使用する手形》をトランク一杯に詰め込んでジャワ島へ買い出しに出張する事になったので有る。
途中敵機との遭遇もなく、午前10時40分にはスラバヤ空港に無事着陸。
早速ティガ・ロダ(三輪車)でコタ(市街)に入りホテル・シンパンに宿をとる。昭和12~13《=1937-38》年当時私がスラバヤに居た時から知り合いの、中国系商人で不動産屋をしている店を訪ねて行った。私の父が可愛がっていた「チゥエン」さんが出て来て険《け》わしい顔つきで暫らく私を観察し、ホッとした顔に直おって握手した。
太平洋戦争《=第2次世界大戦のうち東南アジア・太平洋方面での戦争》が起こって《1941年》から、暫らくは、本国へ引き揚げるオランダ人の土地や家の物件が沢山あって、店は忙しかったが、今はジャワ本土全部の不動産が日本軍に押さえられて仕事が無くなり困っている・・・ことを知った。
緊急度に応じて分類された買付け物件のリストを示し、協力を求めた。コミッション《手数料》は買い取り価格の8%支払いは軍票でCODと決定した。
ただし、入手の難しい自動車は50%になった。
バタビア(今のジャカルタ)での買付けは、チゥエンの親戚《しんせき》が荒物《あらもの=雑貨》屋をやっているが、同じコミッションで喜んで協力できる事を知った。この親戚は、バタビアとバンドンに店を持っており、チゥエンよりも活発に仕事をしている様子であった。
バンドンの店には数少ないアマチュア無線のハム《=通信する人》をやっている男が居て、非常に役にたった。
チゥエンの息子の提案で、私の好きな中華料理を食べに行く事になり、到着第一夜はホテル外で食事をすることになった。
接待料理はマカッサルでは味わえぬ美味しさだった。
タンバ・バヤン通りの中国人が経営する料理店には手書きの日本語のメニューがあるが値段が書き入れて無い。支払いはチゥエンがするので気に留めて居なかったがチゥエンの話しに依ると、ほぼ10日置きに値上げをせざるを得ないので、値段をブランクにしてある・・・とのこと。
急加速度のインフレーションに見舞われているのだった。
食事は素晴らしいものだった。 腹一杯になってティガ・ロダにのってホテルへ戻った。
名前は忘れてしまったが、現地陸軍の安酒を飲んだ。
冷水のシャワーを浴びて持参した浴衣《ゆかた》に着替え、ベッドに倒れ込んだ時は真夜中を過ぎていた。
最優先調達物品については、チゥエンに下駄を預けた《げたをあずけた=すべての処理をを相手に頼んだ》ので安心して、ゆっくり寝ていたが、ふと思い出して101根拠地の松尾大尉と連絡する事にした。
まばゅい朝だ。 洗面を済ませると朝食も取らずに波止場の方へ行った。
タンジョン・ペラ(銀の波止場)一帯は日本海軍の根拠地になっていて、松尾大尉は水雷戦隊副隊長としてタンジョン・イタム(黒い波止場)の蓄電池工廠《こうしょう=工場》の事務室にいた。
彼は逓信省《=郵政省の前身》の技官《ぎかん=技師》から召集を受けて戦地に来た方で、今回の私の任務を側面から援助してくれる事になっている。
スラバヤ市東端の此の工廠では海軍の兵士は勿論《もちろん》、軍属《ぐんぞく=軍に所属する軍人でない文官や技官等》や多くの現地住民を使って内火艇《ないかてい=シリンダー内で燃焼したエネルギーによって走る小型の船》の発動機や発電機の修理や整備をしているのだった。既に102根拠地から彼の属する101根拠地に連絡があり、私の訪問を待ち受けていたのだった。
松尾大尉と私のコンビですることは、かって連戦連勝の陸軍がジャワ島を西から東へ進駐《しんちゅう=進軍した地に留まる》(その後ニューギニア?へ転戦)した時、彼等が発見し、接収《=強制的に受け収める》・封鎖した数多くの敵財産の中に、多くの自動車があり、「<何々部隊長>の許可無くして現状の変更を禁ず」とか、「……移動厳禁」などと貼紙された車を、こっそり海軍地区の(タンジョン・ペラ)へ持ち去り、機を見て、何かの便でセレベス島のマカッサル市に運び込む事が、二人に課せられた任務である。
私はその他にも各種資材の入手をしなければならなかったが、松尾大尉と一緒にする仕事は、言い替えると「カー泥棒」そのもので、圧倒的に人数の多い陸軍さんの占領地区での車泥棒は大変困難なのである。余程旨くやらないと直ぐ「陸さん《=陸軍》」の目に止まってしまう。
軍人や軍属でない私が、「…厳禁」の貼紙《はりがみ》を無視して憲兵《けんぺい=軍事警察の兵》に逮捕されたら、殺されなくても「かたわ」にされてしまうであろう。
スラバヤ動物園に近いダルモ住宅街からダルモ・カリ(ダルモ川)にかけてオランダ人の高級住宅があり、その北側の丘陵斜面に日本が造営した対戦国人の収容所がある。
松尾大尉が派遣した調査員の報告によると、ダルモには、直ぐ道路に面した車庫に入ったままの車が4~5台あるとのこと。
車庫の扉は十文字に打ち付けた封印のつもりの板材に、日本語で「禁移動」と書かれているものや扉の無い開けっ放しの車庫に、「○○部隊接収品」と書いた紙片が張り付けられた車もある。目視による判定では、すべて状態は良好らしい。
しかし長期間放置されているので、タイヤ・チューブ、バッテリー、オイル、ガソリン、冷却水を用意しなければならぬ。
車種とその年度別に、取り替え用品を揃えるのに3日間かかり切りだった。車の部品関係で、チゥエンの応援も求めた。
大がかりな車泥棒の準備をする舞台裏は転手こ舞い《てんてこまい》なのだ。
錨《いかり》マーク付き1桁《けた》番号のナンバープレートと将校旗も用意した。
チゥエンはスラバヤ市からマラン市にかけて点在する自動車の修理工場を回って、取り替え用のスパーク・プラッグや交換ランプなどを集めてくれた。
車泥棒の日が来た。
青色三角旗(尉官のマーク)を付けた松尾大尉の乗用車を先頭に、人員輸送の為の乗用車2台、海軍工作車1台合計4台の泥棒の一団が夕暮れのスラバヤ市内をタンジョン・ペラからダルモの高級住宅街に向かって出発した。
大尉の車に同乗した私は、万一憲兵に捕まった時の言葉を考えながら、緊張のため足がガタガタしていた。
偵察員が目星を付けた家の前に4台の車を打ち合わせ通りに、少しづつ重複させ道路に添って一直線にとめて、通行人からは家側では何が始まっているのか分からぬ様に努めた。
もし陸軍の連中が覗《のぞ》き見したら・・・もし憲兵が来たら・・・
気の小さい私には命が縮まる思いの1時間が過ぎた頃、調子の良いエンジンの音が車庫から聞こえてきた。次ぎに短く鋭い警報機の大きな音がした。音が大きいのでハッとした時蘇《よみがえ》った車はヘッドライトをパッと点灯して車庫から静かに出てきた。
なんと、「錨マーク」の2号車のピカピカのプレートが付いて、車の前には佐官級を示す「赤三角旗」がちゃ~んと翻《ひるがえ》って居る。
2号車を先頭に松尾大尉の車がしんがりで全車フルスピードで皓煌《こうこう》とライトをつけてタンジョン・ペラまで戻ってきた。
ここは陸軍でも勝手に立ち入り出来ない「治外法権」地区なのだ。
やっと安心して、参加した将兵一同と共にビールで乾杯した。
更に3台の車を手に入れなければならない。おなじダルモ地区から陸軍が差し押さえた車を戴《いただ》く事にした。
この暴挙を遂行したのはその翌日の夕方であった。
出動人員も、車両数もほぼ2倍の大編成「車ドロ」だった。私は都合でこの第2次出動には加わらなかったが、大成功だった。 蓄電池工廠の庭に、ピカピカの乗用車4台が整然と並んでいるのを見た時思わず「ヤッタ!」と叫んだ。
チゥエンの買付け部隊による収穫は上々で、「要緊急」資材は着々と蓄電池工廠に届けられてくる。
電報通信社(?)のチャータ便がマカッサルへ飛ぶとの情報を得たので、ラジオ放送関係の緊急を要する部品を託した。
車は既に確保済みで、艦船の便が有れば1台づつでも送り出せることの伝言をもついでに依頼しておいた。
チゥエンから、資金切れになったとの通知をうけたので百万ギルダーの追加金を渡した。こんどは、服地や時計やタイプライター謄写版《とうしゃばん=孔版、ガリ版》、医薬品、たばこ、酒などの不急品の買付けを行う。同じ品を追加注文すると、たった一日の違いで既に値上がりしている。
次第に買付けが「買い占め」の様子になって行くのが恐い様に跳《は》ね返ってくる。
列車でバタビアへ行く。 海軍武官府の前田大佐(終戦の時、トランクに一杯の手持ちの現金(軍票)が底を突いてきたので、夜行ソ連モスクワで日本大使をしていた前田閣下の弟にあたる人)に相談して、軍票で100万ギルダーを貰《もら》い受けた。このためバタビアに4日間も滞在させられた。
やっと調達出来た軍票を盗難に合わぬ様、最大の注意をして、バタビアを出発しバンドン市へ来た。
バンドンにやって来たのは2つの理由があった。それはチゥエンの親戚《しんせき》に委託した買付けの進捗状態《しんちょくじょうたい=進み具合》を調べる事と、郊外山間部で長波送信アンテナを建設している会社(国際電気通信株式会社)の先輩に出会って見たいと思ったからである。
先ずホテル・サボイに宿泊することにして大切な軍票を入れたバッグをホテルに預けた。
ホテルには陸軍上等兵と陸軍々属が居て多くの現地人を指揮していた。沢山な陸軍々人がホテルに出入りしている。彼らは敬礼されたり敬礼したり、誠に落ち着かぬ風情、どう言う訳か砂糖に群がる蟻《あり》の様に見えた。
チゥエンの親戚が集めていた通信機器の中には、オランダ製の真空管(殆ど《ほとんど》フィリップス製)の良非を試験するテスターや、オランダ語で書かれた分厚い真空管規格書などもあった。
マカッサルで一生懸命探して居たものである。イーストマン・コダックの熱帯用ッキングした写真フィルム、精製キニーネ(医薬品)、腕時計、タイプライター、タイプライターリボンやカーボン紙、裁縫ミシン真っ白な厚手の洋服生地などなど牛車に一杯集められていた。
これらの物資は5日後にはスラバヤに到着する予定とのこと。
途中2回の検問を通過し、大きく広がった谷間に辿《たど》り着いた。立派な木柱が何本も林立し、無数の支線が谷を跨《また》いでいる。
日本海軍の対艦通信アンテナの建設現場だ。 仲々壮大な眺めで、戦争最中異国の地でこの様な大きい建設の出来る日本の実力を心から嬉《うれ》しく誇りに思った。
先輩の鵜飼技師と手がちぎれる程の握手をして、無事を喜び合つた。時間と距離の関係で、二人で食事するチャンスがないので、帰国したら新宿の例の店でゆっくり一杯・・と言うことで別れた。
次の日の夜行列車でスマラン経由スラバヤに向かった。スラバヤ駅に着いてホテル・シンパンへドッカル(馬車)で行く。荷物は幸いに盗難にも合わず、紛失した物もなかった。
ただ堅い座席に7~8時間腰掛けたままだったので睡眠不足も手伝っていささか疲労した。また機関車は石炭では無く、薪《たきぎ》を燃やしているので時々煙が目に入り涙がでる始末。汗と涙で汚れた顔を早く洗いたかった。
全ての荷物を自室へ運ばせて、上半身裸になって顔を洗っていると、ドアーをノックして日本語がきこえた。
私が記載した宿帳を持って上等兵が戸口に立っている。
『生年月日と住所が違うが、姓名が似ていて、本籍が同じ人がもう一人宿泊している。 この記載事項に相違ないか?』と宿帳を広げて私に示す。不審に思って話を聞くと一昨々日一泊したマドラ州長官の姓名が「萩谷正雄」で本籍が「京都府宮津」、私の名前は「萩谷正隆」で本籍は全くおなじ。
ホテルでは調べるために私の部屋を訪れたがフロントにキーを預けたままの連続外泊。マドラ州長のほうは絶対本物・・・という訳で「不審者」として憲兵隊へ通報した。
私がホテルに戻るのを待っていたのだ。
マドラ州長官は私の親父なのだ!
『すべて正直に記載しました。 身分は証明書のとおりです』と答えて、今度は逆に尋ねた。
『マドラ州の長官といわれましたネ。私の父に間違いありません。 連絡のほうほうは?』
マドラの1番が州事務所、2番が長官々邸、3番が警備隊と言うのが電話番号であった。
これは実際の話しである。
今ごろ、この様なことを言うと、何処《どこ》かのカステラの宣伝をして居るようであるから不思議なことだ。
正午少し前に2名の憲兵がきて、「調べる事がある。スラバヤ憲兵隊へ連行する」と、有無を言わさずダルマ(ミニカー)に乗せられてホテル・シンパンをでた。さすが手錠は掛けられていないが後ろから腰のベルトをガッチリ握られている。
憲兵隊の事務所には、顔見知りの小林さんが陸軍大尉の服装でつっ立つていた。私と小林さんは殆ど同時に「あっ!」と叫んだ。
憲兵大尉はわたしを引っ張ってきた兵を部屋から追い出して、『やっぱり萩谷のボッチャンじゃないの!それは何の服装ですか、海軍地区の何処にいるのですか、スラバヤへ何しに来たのですか』と矢継ぎ早の質問だ。
自動車泥棒の件は伏せておいて、海軍の不足資材を探し回っている。手助けして欲しい。などと心臓強く話してみた。
小林さんは、答えずに、机の上の書類篭《かご》からタブロイド版《273×406ミリ》の新聞の様な印刷物を取り出して、私にも見える様にして読み始めた。
《近時、本島外から制限を超過する軍票を持ち込み、民政並びに戦略物資を買い占める者がいる。このため不要に物価を釣り上げ民心安定を妨げるにいたった・・・》と。
これは「陸軍官報」とよぶ週間情報紙で、間違いなく私のことを書いている。
「速やかに検挙せよ」との言葉も続いている。
『悪い事は言わぬ。一日も早くジャワを出て行きなさい。全島の憲兵が動きだしますョ。お父さんに出会ったら直ぐセレベスへ引上げるんだな。 お父さんに会えるようにして上げよう・・・』
小林憲兵大尉から電話機を受け取ると父の声がする。嬉しくて余り喋る《しゃべる》ことも出来なかったが・・・父は今夕マドラ島を出て深夜には同じホテル・シンパンに着くだろう・・・とのこと。
ジャワ島全部のホテル支配人(軍属)を割り当てたのは父で、多くの軍属の中からホテル業者や宿屋の経営者が指名されたことを後日聞き知った。
寝ないで父の到着をまった。・・・フロントから父の電話だ!
「お久しぶり」も変だし「お元気ですか」も分かり切ったことでおかしい・・・何と言って電話に出れば良いのか、瞬間頭の中がカーッと熱くなったが、とっさに
『スラマット・ダタン!(よくぞいらっしゃいました!)』と現地の言葉で会話が始まった。
間もなく父の大きい部屋へ通されて、(二人共)もう一度夜の食事をする事になった。 食堂は駄目なので、ルームサービスとなる。
ホテルのマネジャーから贈物のワインが届いた。父子再会を祝ってマネジャー自身が栓を抜いてグラスに注いでくれた