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敗戦の技師(4) (LIPTONE)

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通常 敗戦の技師(4) (LIPTONE)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/21 8:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 敗戦の技師(4)93/08/11 13:26
 
 
 夕食後所長がタイプライターで記された「返還物件リスト」を見せてくれた。
 司令部で受け取ったメモである。ジープ、タイプライター、停電灯、電話機などすべて英印軍から貸与されたもの。 
 机、書類棚、椅子《いす》などNICAに属する物はリストになかった。
 
 所長のメモに記載されたものは、いずれも最後の最後に返還するもので有るが、忘れない様に事務室の壁に落書してから個室へ戻って寝た。 
 久しぶりに不寝番が廊下を通って行く足音がした。
 
 不寝番の申し継ぎ事項に自分を起こす件が無かったので誰も声をかけてくれなかったが、元気な点呼の号令や番号呼称の大声で目がさめた。  
 焼け付く様な暑い朝だ。 
 連絡事務所は引き揚げの話しで賑やかな朝食だった。 
 食事が済むと全員中庭に集合。
 所長の話しが終わって解散すると私は司令部へ出て行った。

 通信室へ到着し、電線などの材料と工具箱を3/4トン車に兵とともに積載して、タンジョン(波止場)へ向かった。車中聞いた話によると、入出船舶の監視所と桟橋事務所間の電話線が何者かによって盗まれた。
 我々は其の電話線の架線をおこなう・・・と。

 現場に着いて被害状況をしらべると、日本海軍が架け直した「銅線」の電話2回路が約2kmの区間に亙《わた》って奇麗に持って行かれている。 
 幸いに、背の低い電話柱、腕木、碍子《がいし》、柱の支線などは被害無し。私が調査のため、梯子《はしご》を掛けようとした木柱の上部に手のひら大の鉄片が突き刺さっていた。 
 爆弾の破片であることが一目でわかった。潮風でドス黒く酸化していた。
 この鉄片は電話の工事に関係無いが、柱上安全ベルトを確かめて、ややフラフラする柱を登り、丹念に鉄片を引き抜いた。抜けるまでに10分か20分かかったと思う。

 英印軍通信兵達は、トラックの上から、細い鋼鉄線に被服をかけた茶色の電話線4本を「繰り出し台」から送り出し、要領良く展線をおこなった。電柱に梯子をかけ、電話線を腕木の上に乗せ、線を碍子に縛り付ける。約70本の柱上作業が済んだのは正午少し過ぎた時である。
 トラックで監視所へ兵を送り、我々は桟橋事務所に居て、監視所からの電話呼び出しをまった。呼び出し、通話共に良好だった。ちょうど午後1時腹ペコで司令部へ帰って来た。

 熱帯の太陽に照らされ、強い潮風に晒《さら》される場所にこの様な細い鉄線を使う事は我々の常識では考えられないのだが・・・通信兵達は任務遂行の満足感でニコニコしながらメスホールへはいって行った。通信の中尉が私を例の薄暗い食堂へ連れて行ってくれた。
 私が間もなく波止場から戻るので、食べないで待って居てくれたのだ。
 彼が別れるまでにもう一度食事を共に・・・と言ったことを思い出した。 
 テーブルナフキンの白さには感動しなかったが、この中尉の人間性に心をうたれた。
 いつの日か、日本から礼状を出そう。 
 『あなたの、本国のメールアドレスを教えて下さい・・・』と頼んだ。気持ち良く、手帳を破って太い鉛筆でサッと書いてくれた。

 この薄暗い食堂で准尉や通信の責任者である中尉にご馳走になったが、もう此所《ここ》も見納めになる訳だ。日本海軍は戦時中この部屋を何に使っていたのだろうか・・・。
 食事をしながら『波止場で張った電話線はすぐ駄目になる』と忠告すると『君の船が岸壁を離れるまで耐えれば十分。後はNICAがなんとかする。現在港湾施設は我が軍が面倒を見ている。   
 しかし、施設の電気や水道はNICAの行政下になった。桟橋に接岸した引き揚げ船に水や食糧や船の燃料を供給したり、引き揚げ者を乗船させるのは我が軍の任務になっている。NICAは船に積み込む野菜に就いては協力的であるが・・・』と語ってくれる。
 どうもNICAとはあまりシックリ行ってないようだ。

 昼食を終わり、礼を述べて椅子から立ち上がると、中尉は傍へ寄ってきて握手を求め「元気で日本へ帰り着く様に・・・」と。 給仕の兵が私に向かい手を合わせてくれた。戦争捕虜にそんな値打があるのか・・・? 
 昼寝の時間で静かな中庭へ出て来たら、日本の衛生兵が英印軍の軍服に着替え、赤十字の腕章をはめている最中だった。
 彼らの足元にはボロボロの軍靴《ぐんか》や、今脱ぎ捨てたばかりの海軍や陸軍の、少し傷んだ軍服がまとめてあった。
 これから散髪をするそうだ。その後英印軍々医による健康診断(身体検査)を受けてから連絡事務所へ帰る・・と、初めて見る衛生下仕官が語った。

 司令部では次から次の雑用で多忙を極めたが、夕飯より大分早く事務所にもどって、壁の落書メモを見る。軍医が細かい英文の印刷物を持って来て、有田小尉と私に翻訳をしてくれ・・という。
 いま考えれば「抗性物質のズルフォン剤」の説明書であったが、全然分からない専門語がやたらに現れる。 
 上等の英和辞典が欲しい! ドイツ語なら多少軍医に分かるのだが。 
 『非常に良い素晴らしい薬だ。しかし、投与を誤るとあぶない・・・』と英印軍の軍医の注意があった(我々には)問題の新薬のことだった。  

 急いで夕飯を済まし、1時間ほど仕事をして、やっと英印軍に提出する書類が完成した。多少のミスタイプや文法間違いを発見したが、所長の決断でそのまま渡す事にして、有田小尉が情報部へ持参した。
 提出書類の方は良かったが、有田小尉が情報部に居る時「今度引き揚げる日本人の中に、原住民から自転車を強奪した者が居る。
 逮捕してNICAへ引き渡せ」と言う陳情があった。
 有田小尉から情報を聞いて、これは大変、面倒な事になる。
 もし英印軍司令部から言って来たらどうするか・・・? 
 良くないニュースに頭を抱えた。困った事だ!全員一刻も早く乗船して脱出しなければ・・・。  
 深夜に及んでも名案は浮かばなかった
 本当にどうしようか・・・ 床に入っても眠れない。
 夜が明けた。 
 朝一番のビッグ・ニュース!
 『マカッサルへ進駐して来た英印軍は、その上陸直後からの敗戦国の人と物の処理、現地の保安を任務としている。 
 我が軍の上陸以前の「直接戦闘に関係の無い」事項は残念ながら、取り上げない。』。。。。涙がでる様な英印軍の処置であった。

 本当に自転車を略奪した奴が居たのだろうか ?  
 借りただけで、返すのを忘れたか、返す暇が無かったのでは・・? 
 朝食は心の中で英印軍の厚意に感謝と安堵《あんど》を感じながら、元気を取り戻どした連中の朗らかな話し声で賑やかだった。 
 もう一つニュースが飛び込んだ。  
 ニューギニアのマノクワリから病人達を乗せた船が無電で入港許可をもとめてきた・・・と言うもの。

 流石《さすが》のニッポンの事務所もやや混乱気味になってきた。指令部からは機関銃の様に電話が掛かってくるし、半ズボンの伝令が出たり入ったり・・・食堂は、まるで24時間営業。  
 中庭の照明灯増設の特急工事が始まった。 
 一番広い部屋を事務室にしていたが間もなく到着する病院車にタイミングを合わせて、什器《じゅうき=家具、道具》を位置変えする。 
 直ちに窓磨きや床掃除(モップかけ)がつづく。 
 衛生兵がバケッの水をリレーして、便所と、それに続く廊下を洗い出す。

 英印軍司令部へ返還する品物のリストを事務室の壁に落書して置いたが、消されてしまった。たしか、ジープ、タイプライター停電灯、電話機だったことを再確認する。
 所長、軍医、副官、技師の個室の名札を廃して部屋番号に改める。 
 裏庭の海岸に面する垣根の近くに、臨時かわや(トイレ)が造られた。

 病院車が到着。英印軍の赤十字マークの兵が担架を持って来たが病人は元気(?)に歩いて連絡所の元事務室へ進んで行った。
 大きな文字で部隊名と個人名を書いた病人の私物袋は衛生兵が運び入れていた。
 全部で6名の病人だった。 
 日本軍の、「塩酸キニーネ」で直らぬ熱帯性マラリヤの重病患者が一人目立つた。
 病院車を運転して来た衛生下仕官に「ありがとう」を言って話し掛けてみた。 
 山のキャンプに居る日本人は20キロメートルの道を徒歩で引き揚げ船が待っている桟橋まで来る。ただし、荷物は英印軍のトラックで船側の岸壁まで「無料輸送」だ・・・と笑いながら山の様子を語ってくれた。

 私はいつの間に何を食べたのか昼食を済ませて、所長を乗せ情報部へ。引き揚げ船と情報部との交信で、入港は夕刻になり接岸は明朝になる。 
 船はLST(鋲《びょう》を使わない、溶接造船)。 
 桟橋広場では、英印軍による点呼、NICAによる持物検査が行われる。
 山の捕虜収容所からの乗船者は明朝8時に桟橋到着のこと。
 乗船は正午までに完了する予定である。マノクワリから乗船した日本の軍医中将が日本に到着するまでの指揮官で、船長に協力する。マカッサル連絡所長は「日本語」の名簿を桟橋事務所へ持参し、そこで軍医中将に申告。その予定時刻は午前8時とする。
 タイプされた2ページの申し渡し書を、ゆっくり読み上げたのち、この情報部将校は握手を求めて来た。
 我々は握手して、敬礼して司令部を出た。  
 司令部の時計は現地時間の3時だった。

 いよいよ明日乗船出来るのだ! 万歳! 遂に生きて故国へ帰れることになったのだ! 
 大日っ本帝国臣民として一応の責務を全うしたのだ!  
 どうした事だろう、「戦死や病死」した日本人の事に思いを馳せる気が起こらない。 
 薄情もの、冷血漢、非国民と罵《ののし》りたい者は罵れ。
 自分は見事に国のため命を惜しまず奉公して来たのだ!。 
 運が良くて死ななかったのだ! 
 戦には負けたが躯《からだ》は勝ち残ったのだ! 
 日本に帰っても少しも恥しい事は無いのだ!
 勿論《もちろん》戦病死の方々のご冥福《めいふく》を祈る正常精神は持っている。

 午後4時半、約200名が2食分を携行で、深夜山を出発し朝食を済ませて7時頃桟橋広場到着見込み・・・との伝令連絡を受け、この旨折り返し司令部へ通報した。  
 夜間行軍となるので、「たいまつ」使用の許可を貰《もら》わねばならない。 
 間もなく有田小尉に電話がはいり「ジープ3台の発電車と別に2台のジープで護衛する。このジープ小隊は午後10時司令部を出る。山で誰と出会えばよいか。言葉の分かる者は居るか?」と情報部からの話。
 山には英語なら何とか分かる者が居るので「言葉は大丈夫」と情報部へ伝える。 
 敵性語を解する事をふせて居た学士様は山に沢山いるのだ。 
 英語は分かってもドイツ語を知らぬ奴は非国民だなんて誰が言い出したのか! 
 英語の分かる自分が大きくみえた。

 現地最後の夕食だ。病院車から降ろした荷物の中に、も早や山では余分となる「山印の味噌《みそ》」の手土産があった。
 餅《もち》も若干あったし、多分「山製」と思われる竹筒入り地酒も少し有った。
 沢山有った食器も不足する程数多くのご馳走《ちそう》で、立派な晩餐《ばんさん》だった。明日の朝食が終われば、もう炊事の必要が無くなる。
 昼食は船上でとる事になるのだ。
   
 午後7時、今までなら司令部との連絡業務を終わる時刻だが英印軍も我々と同じ様に興奮(?)しているのか、引っ切り無しに細々と連絡してくる。 
 引き揚げ船は暗くなったので沖泊となる。
 司令部から数名の要員がNICAの要員を伴って引き揚げ船に向かった。
 山のキャンプに、引き揚げを聞きつけた原住民が押し掛けてきた。
 警備の英印軍が一旦は阻止したが、別れの差入れ物を持参した事が判明して、3時から4時まで面会を許した。 
 今日マカッサル市の警察権は消防機関と共にNICAへ移ったこと・・・まるで共同通信社の新聞ニュースを受けている様だ。

 10時丁度、発電車とエスコートのジープ5台が司令部出発との連絡が入る。
 11時全車山のキャンプ着。キャンプでは盛んに塵《ちり》を焼却している。
 大型軍用トラック2台に引き揚げ者の荷物を満載した。
 これらのトラックは朝6時に山を出発する。山に着いたジープ分隊からのラジオをその都度電話してくれる。

 セレベス島最後の夜が明けた。 
 星明りだけで連絡所の周囲はまだ暗い。 
 連絡所要員は殆ど《ほとんど》熟睡出来なかった様だ。 
 大部屋では昨夜10時の消灯時刻は無期延期となってしまった様だ。
 全部の電灯をつけっ放しで、あっちやこっちで、日本へ持ち帰る私物を出したり、入れたり、眺めたり。 
 我々個室組みでも電灯がついたり消えたり。

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