引き上げ(2) (LIPTONE)
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戦争の思い出をのこす (LIPTONE) <一部英訳あり> (編集者, 2007/3/4 20:50)
- 『奇遇』 (LIPTONE) (編集者, 2007/3/16 15:26)
- 『ジャゴン』 (LIPTONE) (編集者, 2007/3/17 8:12)
- 敗戦の技師(1) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/18 9:29)
- 敗戦の技師(2) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/19 8:35)
- 敗戦の技師(3) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/20 9:53)
- 敗戦の技師(4) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/21 8:31)
- 敗戦の技師(5) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/22 8:11)
- 引き上げ(1) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/23 8:31)
- 引き上げ(2) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/24 8:01)
- ただ今帰りました! (LIPTONE) (編集者, 2007/3/25 8:42)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
引き上げ(2)93/08/11 13:33
食事のテントを出ると次の者が入って食事を摂《と》る。貰った案内図面と校舎の配列を見比べて、休憩室、便所、身の上相談室、医務室、寝所、事務室などの有り場所を確認する。
帰郷の切符を貰うには、申請書に必要事項を書き込まなければならないが、切符と見舞金の支給を受ける時に、戦地で貰った引き揚げ者証明書を田辺町役場にわたし、引き替えに日本政府機関発行の「引き揚げ者証明」を受ける事になっている。が、引き揚げ船に乗る時点で一切の書類をNICA(蘭領インド民政府)に取り上げられた自分である。
早速「身の上相談」室を訪れた。 お茶を戴《いただ》きながら事情を説明した。
引き揚げ援護局の係り官と、田辺町の事務員が応接して来れた結果、処理決定は早くて明日午前中に、遅くて同夜になるとの返事を貰って室を出た。
校庭のテントに電灯がともり、か~ん・か~んと鐘が鳴って全員が早い夕食に集まる。
拡声器を通じて「大切な諸注意がある」との予告が有ったので比較的静かな食事であった。
食事半ばで、スピーカーからゆっくり落ち着いた声で「日本国内人心の様子。衣食住の現状。交通機関の話し。インフレと物価の現況説明。電報電話の話し・・・など約2時間に亙《わた》って分かり易く説明があった。
話が進むに連れて、静寂さが募り、やがて咳《せき》一つ聞こえなくなった。
時々薮蚊《やぶか》を叩く《たたく》く音がするだけになった。
食糧の買いだし、強盗殺人の急増など、敗戦の実感が強烈に襲いかかる。
明朝このテント食堂で、帰郷先との連絡方法などの詳細説明があり、その後で、追加支給品を渡す・・・とのアナウンスがあって、やっと我にかえった。
帰国第一夜だ。陸軍毛布を1枚づつ与えられて、吊す《つるす》「蚊や」無しで教室の床の上にゴロ寝だ。私物が紛失したり、営内盗難にかからぬ様各自の責任管理の元で眠る事になった。
電灯は廊下の裸電球が燈《とも》っているだけ。
猛烈な「いびき」と「放ひ」の初夜だ。
烏《からす》と鴎《かもめ》の鳴き声で眼を覚ます。
すでに、畳《たた》んだ毛布に正座している男もいた。
朝食迄の時間がとても長く感じられた。食券の枚数を数えたり、荷物を縛り直したり。
しかし相互の会話は殆どない。
鐘が鳴って校庭のテントに集まる。
薩摩芋《さつまいも》の味噌汁は素晴らしく、塩梅やあを海苔《のり》が美味しかった。
北海道(カラフトなし)東北、関東・・・九州及び「その他」地区別に帰省先を分けて故郷と連絡する手段の解説が昼まで続いた。
話の途中でテントをでて、「身の上相談」室へ行く。
書類はまだであったが、「今回の輸送指揮官と、船長と、田辺町長3名の連名で、引き揚げ者である旨の証明書を作成中・・・」とのこと。
「正午に受領に来い」と言う返事を貰って再びテントへ入る。
帰郷要領の説明が正午直前で終了した。
婦人会(?)の厚意による洗濯ものが出来上がってきた。午前中に(アイロン無しの)出来上がっていたらしいが正午から順次引き渡しを行うそうだ。
私は身の上相談へいって、証明書をおし戴ただいて来た。
これが無いと切符もお金もタバコも(私は吸わないが)追加支給品も貰らえないのだ。
寝室に当てた教室に敷き詰めていた「畳」《たたみ》は我々の船が入港する前に取り払われて、小屋に保管してあったが「不潔」との理由で焼き捨てる様米軍衛生隊から指令がでた。
我々引き揚げ者が応援して、田辺町職員と一緒に、テントから一番離れた校庭の隅で燃やした。
畳みには白い薬粉が懸かっていたことを思い出す。
飛び入り作業等で遅れたが、追加支給品の受領が始まった。
軍靴、方向の無い木綿靴下、軍用毛布、水筒、革帯《=ベルト》、タバコ、マッチ、蝋燭《ろうそく》、仁丹《じんたん=薬》、ちり紙、縫針、縫糸、甘味品、征露丸《せいろがん=薬》 など多数の品々の配給があって、夕方の電灯が点燈するまで続いた。
押し戴いた「証明書」のお蔭で、無事全部貰う事が出来た。
午後2時過ぎに(無料で)打った電報の返事はどんなに早くても明日の昼過ぎになる事が分かったので、頭を空白にして2枚の毛布を敷いて人より早く眠ってしまった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
すっかり熟睡した夜が明けた。
娯楽室を覗いたが朝早いのでだれもいない。大きい日本の地図 (戦前の物)が掲示されていたが地図の諸所方々《しょしょほうぼう》に鉛筆や釘《くぎ》(?)で印(しるし)が付いている。多分引き揚げの先輩達が付けたマークだろう。
子供の漫画本が4~5冊チャンと重ねて置いてある。
夏草花の「いけばな」も枯れずにならべてあった。
午後4時、心配していたら、援護局事務所から呼び出しのアナウンスがあった。「電報着信あり、受け取りに来い」と言うもの。
『ホンセキチ ニ カエリ ハハ ト デアエ」 カイシャ』万歳。母は東京を離れて京都府の本籍にいるのだ!涙が・・・
早速事務所にスッ飛んで郷里までの片道切符の申請をした。
切符と現金200円が交付された。増えた荷物を再度まとめ直した。
明日は、大変お世話になった此所も『引き揚げ』だ!
食事のテントを出ると次の者が入って食事を摂《と》る。貰った案内図面と校舎の配列を見比べて、休憩室、便所、身の上相談室、医務室、寝所、事務室などの有り場所を確認する。
帰郷の切符を貰うには、申請書に必要事項を書き込まなければならないが、切符と見舞金の支給を受ける時に、戦地で貰った引き揚げ者証明書を田辺町役場にわたし、引き替えに日本政府機関発行の「引き揚げ者証明」を受ける事になっている。が、引き揚げ船に乗る時点で一切の書類をNICA(蘭領インド民政府)に取り上げられた自分である。
早速「身の上相談」室を訪れた。 お茶を戴《いただ》きながら事情を説明した。
引き揚げ援護局の係り官と、田辺町の事務員が応接して来れた結果、処理決定は早くて明日午前中に、遅くて同夜になるとの返事を貰って室を出た。
校庭のテントに電灯がともり、か~ん・か~んと鐘が鳴って全員が早い夕食に集まる。
拡声器を通じて「大切な諸注意がある」との予告が有ったので比較的静かな食事であった。
食事半ばで、スピーカーからゆっくり落ち着いた声で「日本国内人心の様子。衣食住の現状。交通機関の話し。インフレと物価の現況説明。電報電話の話し・・・など約2時間に亙《わた》って分かり易く説明があった。
話が進むに連れて、静寂さが募り、やがて咳《せき》一つ聞こえなくなった。
時々薮蚊《やぶか》を叩く《たたく》く音がするだけになった。
食糧の買いだし、強盗殺人の急増など、敗戦の実感が強烈に襲いかかる。
明朝このテント食堂で、帰郷先との連絡方法などの詳細説明があり、その後で、追加支給品を渡す・・・とのアナウンスがあって、やっと我にかえった。
帰国第一夜だ。陸軍毛布を1枚づつ与えられて、吊す《つるす》「蚊や」無しで教室の床の上にゴロ寝だ。私物が紛失したり、営内盗難にかからぬ様各自の責任管理の元で眠る事になった。
電灯は廊下の裸電球が燈《とも》っているだけ。
猛烈な「いびき」と「放ひ」の初夜だ。
烏《からす》と鴎《かもめ》の鳴き声で眼を覚ます。
すでに、畳《たた》んだ毛布に正座している男もいた。
朝食迄の時間がとても長く感じられた。食券の枚数を数えたり、荷物を縛り直したり。
しかし相互の会話は殆どない。
鐘が鳴って校庭のテントに集まる。
薩摩芋《さつまいも》の味噌汁は素晴らしく、塩梅やあを海苔《のり》が美味しかった。
北海道(カラフトなし)東北、関東・・・九州及び「その他」地区別に帰省先を分けて故郷と連絡する手段の解説が昼まで続いた。
話の途中でテントをでて、「身の上相談」室へ行く。
書類はまだであったが、「今回の輸送指揮官と、船長と、田辺町長3名の連名で、引き揚げ者である旨の証明書を作成中・・・」とのこと。
「正午に受領に来い」と言う返事を貰って再びテントへ入る。
帰郷要領の説明が正午直前で終了した。
婦人会(?)の厚意による洗濯ものが出来上がってきた。午前中に(アイロン無しの)出来上がっていたらしいが正午から順次引き渡しを行うそうだ。
私は身の上相談へいって、証明書をおし戴ただいて来た。
これが無いと切符もお金もタバコも(私は吸わないが)追加支給品も貰らえないのだ。
寝室に当てた教室に敷き詰めていた「畳」《たたみ》は我々の船が入港する前に取り払われて、小屋に保管してあったが「不潔」との理由で焼き捨てる様米軍衛生隊から指令がでた。
我々引き揚げ者が応援して、田辺町職員と一緒に、テントから一番離れた校庭の隅で燃やした。
畳みには白い薬粉が懸かっていたことを思い出す。
飛び入り作業等で遅れたが、追加支給品の受領が始まった。
軍靴、方向の無い木綿靴下、軍用毛布、水筒、革帯《=ベルト》、タバコ、マッチ、蝋燭《ろうそく》、仁丹《じんたん=薬》、ちり紙、縫針、縫糸、甘味品、征露丸《せいろがん=薬》 など多数の品々の配給があって、夕方の電灯が点燈するまで続いた。
押し戴いた「証明書」のお蔭で、無事全部貰う事が出来た。
午後2時過ぎに(無料で)打った電報の返事はどんなに早くても明日の昼過ぎになる事が分かったので、頭を空白にして2枚の毛布を敷いて人より早く眠ってしまった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
すっかり熟睡した夜が明けた。
娯楽室を覗いたが朝早いのでだれもいない。大きい日本の地図 (戦前の物)が掲示されていたが地図の諸所方々《しょしょほうぼう》に鉛筆や釘《くぎ》(?)で印(しるし)が付いている。多分引き揚げの先輩達が付けたマークだろう。
子供の漫画本が4~5冊チャンと重ねて置いてある。
夏草花の「いけばな」も枯れずにならべてあった。
午後4時、心配していたら、援護局事務所から呼び出しのアナウンスがあった。「電報着信あり、受け取りに来い」と言うもの。
『ホンセキチ ニ カエリ ハハ ト デアエ」 カイシャ』万歳。母は東京を離れて京都府の本籍にいるのだ!涙が・・・
早速事務所にスッ飛んで郷里までの片道切符の申請をした。
切符と現金200円が交付された。増えた荷物を再度まとめ直した。
明日は、大変お世話になった此所も『引き揚げ』だ!