引き上げ(1) (LIPTONE)
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戦争の思い出をのこす (LIPTONE) <一部英訳あり> (編集者, 2007/3/4 20:50)
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- 『ジャゴン』 (LIPTONE) (編集者, 2007/3/17 8:12)
- 敗戦の技師(1) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/18 9:29)
- 敗戦の技師(2) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/19 8:35)
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- 敗戦の技師(5) (LIPTONE) (編集者, 2007/3/22 8:11)
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- ただ今帰りました! (LIPTONE) (編集者, 2007/3/25 8:42)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
引き上げ(1)93/08/11 13:31
『紀州・田辺港へ引き揚げ』
「あの稜線《りょうせん=山の尾根》と、燈台の様子では、今四国沖から紀伊半島へ向かって進行中らしい」海軍将校の服装に草履ばきの終戦中佐が私の方へ向き直って説明してくれた。
我々を乗せた引き揚げ船は夜が明けたばかりの本土近海を、サアッと言う波音を立てながら、一ケ月を越える長い退屈な航海を終へ様としている事が分かった。
まだ完全に夜が明けていないので時々見える灯火が民家の灯か或は漁船の灯火か見分けがつかないがこのLST船が作る波の白さは鮮やかである。
ニューギニア島のマノクワリから傷病兵を乗せ、セレベス島のマカッサルから最後の敗戦国将兵を積んで日本へ引き揚げて来た船で、間もなく夢に見た母国の港に入って行く。
軍医中将と船長の指揮の元、戦に負けたとは言え、又ぼろ服を纏《まと》っているとは言え、一糸乱れぬ統制ある長い船旅を終えようとしているのだ。
起床の笛がまだない。しかし、蚕棚《かいこだな=蚕の棚のように幾段にもベットを設置すること》の〈あちこち〉で小声がする。
船窓付近では数名の兵達が交互に窓から外を覗いている。
引き揚げ船内では、非軍人・非軍属の「一般邦人」は私たった一人で、陸軍軍医大佐、海軍主計少佐(澄田)、陸軍大尉(二俣)の特班に加えて貰っていた。
囲碁は大佐、オークションブリッジ(トランプ)は澄田少佐、将棋は二俣大尉がつよく私はいつも負役だった。
8~10名で1班を編成していたが、特(別)班は4名で一つの班になっていた。
お汁粉や風呂水は夫々《それぞれ》他の班の2人分を胡麻化《ごまか》し通せた。
起床の笛には関係無く、好きな時起きい出て甲板を散歩出来た。
私の記憶では、澄田少佐は福島県の「吾妻村」出身で英語が達者な大柄なハンサム・ボーイ。
二俣大尉は陸軍仕官学校卒のごつごつした顔つきと手足の大きな、通信隊(?)の「心優しい」将校で神奈川県人。
帰国後、横浜の電気店に居られた筈。
澄田少佐は、外務省か大蔵省勤務になられた…との風の便り。
軍医大佐は某帝国大学の医学部の学部長(?)で、博士さん。
この博士さんの名前がどうしても思い出せないが、もし存命なら、80才か85才になって居られる筈。囲碁は初段とか・・・
来る日も、来る日も蒸し暑くて気違いになりそうな毎日を囲碁や将棋のトーナメントでまぎらわしたり、身の上話しや自慢話しで長い長い時間を稼いだり、石鹸《せっけん》無しの、海水だけで洗濯をしたり、レコード音楽の盆踊りに参加したり、餅つき(と)汁粉大会に飛び入りして「時」を忘れる事に勤めた毎日だった。
起床の笛の音がスピーカーから流れた。
船内はにわかに騒々しくなった。甲板も人の行き来で、次第に忙しくなる。
小型掃海艇が接舷《せつげん=船べりを着ける》した。いつの間にか、降ろされたタラップを駆け足で誰かが登ってきた。
気が付いたら船足がおちている。船が作る波は小さくなって波の音も殆ど《ほとんど》しなくなっている。
傷病の将兵を除き全員が上甲板に整列した。
各人に「身上調査書(英文と日本文併書)」が配られ、其の場で記入が始まった。
乗船に先駆けて、手渡されている「引き揚げ者証明書」の人定番号を調査書に転記する。・・・・・私には引き揚げ者証明書は無いのだ・・・・調査書の番号欄に〈none〉と書き入れて置く。
朝食が少し遅れた。
船の両舷《りょうげん=両方のふなべり》に陸地が見える。
水路の先に同型のLST船が岸壁から遠く一隻停泊している。バリバリッと爆音がしてヘリコプターが頭上でゆっくり旋回して立ち去った。
停泊しているLSTが汽笛をならした。我々の船も応答した。
再び全員の半数が甲板に集合した。今度は各自私物袋持参だ。
船内全部に上陸に関する説明と注意、輸送指揮官(軍医中将)の訓辞と船長の短い挨拶がスピーカーで流された。
船長の挨拶は『全乗員の統制ある行動に感謝する。船は和歌山県の「田辺」と言う港につく。
すべての持ち物と身体の消毒が、アメリカの進駐軍《しんちゅうぐん=日本占領のための軍隊》監視のもとに行われる。
消毒プールを通過したら船長の管轄《かんかつ=支配》から田辺町長の管轄になる。長生きして日本復興に尽くそう。』と言うものだった。
暫く聞かなかった「君ケ世」と「蛍の光」のメロデイーだけが繰り返して船内放送された。
「ばんざ~い」の声や、戦死した友の名をアリッタケの大声で陸に向かって叫んでいる将校もいる。
私が乗船して経験した初めての、騒然とした〈音の世界〉となっていた。
誰もが〈黙って居られない〉気持なのだろう。
船員に脱帽敬礼して、お礼を述べる者が居た。
しかし、キビキビした動作の船員たちは無口だった。
我々の引き揚げ船は、見事に岸壁にピタリと接岸した。
船に上がってくる者は居るが、未だ下船する者はいない。
アメリカ黒人兵が沢山軍用トラックで岸壁に到着した。
ジープでやって来たのは日本人で、多分通訳だろう。3~4名だった。
もう一本のタラップが船の後部近くに架けられる(船から降ろしたのではない)と岸壁に赤十字の腕章をつけた一群が現れた。
担架で数名が下船をはじめた。航海中、無念の病死をした者の遺品をもった衛生兵もタラップを降りていった。
十数名の戦友らしい者達が「遺品」に敬礼していた。
肩を借りて下船する白衣の勇士の列が暫らく続いた。
無限に広い海原だけを見馴れた目には、岸壁の風景が余りにもザワ付き混雑している様に感じられた。
安堵感も手伝ってボンヤリ地上の動きを眺めていたら、残る半分の兵員が甲板に上がって来て整列、点呼が始まった。
同時に前部と中央のタラップから荷物を持った引揚兵士達が下船を開始した。
重そうな荷物を一つか二つ下げたり担いだりして、用心深く一歩一歩降りて行く。
私達特班グループは、どんな都合でそのまま別れ離れになるか知れないので、一応お世話になった御礼と日本再建の言葉を交わして解散した。
私の持ち物は皆無に近い。
乗船直前に素っ裸にされ何も持たないで最後の乗船者としてタラップを駆け上がったのだ。
船に乗ってから、随分お粗末な、手拭《てぬぐい》、「ふんどし」、歯ブラシ、ランニングシャツ、ねずみ色のちり紙等を支給された。
荷物はこれだけで、片方の手の平に乗ってしまう身の軽さだ!
船内では唯一人の「非軍人非軍属」の「一般邦人」なので班と無関係な「ひとりポッチ」の私は、他班の継ぎ目に割り込んで好きな時に下船が出来るのだ。
マカッサルから乗船した人々や、終戦連絡事務所の要員の列に続いてタラップを降りた。先ほどまで、甲板であれほど騒いでいたのに、一言も喋《しゃべ》らず黙々と降りて行く。
万感胸に迫って来るものが有るのだろう。
タラップを降り切ると、清潔な服を着た日本人の通訳と米兵が待ち受けて、一人一人から記入済みの「身上書」を取り上げ、代わりに紐の付いたセルロイドの様なカードを手渡している。
通訳と私の顔を見比べながら、米兵が『荷物はこれだけか?』とあざ笑う。「イエース。ザッツ・オール アンド ノーモアー」なかば焼けくそで、反射的に出た返事だった。
私の身上書には引き揚げ者の人定番号の代わりに「none」しか書いてない。
これが見つかって、米軍と通訳と私の3人で暫らく言い合いが続いたが結局カードをくれないで此所を通過する。
この辺から列の順番は乱れて(?)、早い者が先…になった。汗くさい黒人兵の人垣に添って進む。
間もなく行くと学校の雨天体操場らしい所に入ってハッとする。
モンペ《袴の形に似た衣服、戦時中の女性の服装》にエプロン姿の「大和撫子《やまとなでしこ=日本の女性のこと》」多数が我々を待ち受けているのだ。
我々の持ち物にセルロイド・カードと同じ番号の荷札を付けて一時預かってくれるのだ。彼女たちは笑顔で迎えてくれたが「ご苦労様でした」以外はなにも話さない。
我々は順番が来ると、撫子《なでしこ》の面前で着ている物を全部脱いで消毒薬の風呂場へ進む。
ほぼ20名単位で入浴する。
湯舟の傍らにはカービン銃《=自動小銃》を脇にした米兵がニャニャしながら裸の群れを眺めている。
ブザーが鳴ると次の浴槽に移る。
次のブザーで最後の浴槽を出ると、消火ホースからの水を前後左右から浴びせられた。
濡《ぬ》れた躯《からだ》を拭《ぬぐ》うタオルなんて気の効いた物は無い。
真夏の潮風で天然乾燥(?)するしかない。
消毒釜《しょうどくがま》から取り出した我々の衣服や持ち物を、広げて冷ましたり、同じ番号の衣服と持ち物を一緒にする作業で彼女達は多忙だ。
運の良い男は、まだ躯が濡れているのに自分の番号の山を発見しているが、付きの悪い男は(私も…)天然乾燥完了後も未だ撫子の立ち働いて居る中を物色する始末。
それでも私の衣服は見つかったが、惜しいとも思わぬが荷物が見あたらない。
私が預けた「おば様」が熱い衣服や荷物に囲まれた中を汗ダク になって番号無しの小荷物を探し出してくれた。
折角要領良く入浴の順番を早めたのに、これで大分遅れた。
衣服を纏い、荷物を持って、「矢印」に従って体操場を出ると赤十字のシャツを着た米兵と日本人が居て、セルロイドのカードにスタンプを捺《お》してくれる。
『消毒完了・上陸許可』のスタンプだ。
誰もが入浴の最中でも紐輪《ひもわ》を首に架けて大切に持ち歩いたカードなのだ。
処《ところ》が私にはこのカードが無い。下船した時タラップ下でくれなかったのだ。
「何? カードを貰わなかった?」「そんなことは無い。必ず(身上書と)交換に受け取った筈だ!」「無ければ証明印が押せない」「えぇ? 引き揚げ者の証明書が無い?」押し問答が続く。
とうとうこの日本人は私を列外に押し出した。困った。
私は遂に「カードをくれないで、行けッと言ったのはタラップ下の米兵なのだ。
嘘《うそ》か本当か確認してくれ!」と英語で叫んだ。
赤十字の腕章を付けた米兵がニコッと笑って、傍らの日本人を宥《なだ》める様に「OK!其のスタンプを貸せ」と。
次に私に向かって「オデコをだせ!」と命令するや否や、私の前額部に問題の捺印《なついん》をして、「それ行け・・・」と顎《あご》で教えてくれた。
慌てた日本人はその後どうしたか知らない。
これで立派に帰国出来た事になる。
廊下を通って破れたガラス窓の教室(汚い黒板がある)では、便せん数枚、封筒2本、郵便切手、はがき5枚が貰えた。
私の指さすオデコのスタンプを確認して渡してくれた。
「まだ数ケ所で物品が支給されるから・・・」これでは汗をかいても額を拭く訳にはいかない。
この部屋を出た廊下で「たすき」をかけた女性が、切手付きの絵葉書と削った消しゴム付き鉛筆を渡してくれた。
次の教室で食器(日本陸軍の飯ごうとフオーク)をくれた。貰うものを貰ってこの教室を出ると、長い廊下を通って別棟の校舎へ行く。
忘れものか落し物で廊下を逆行する者もいて若干混雑
している。
初めての教室で食券や汽車・電車乗車券の請求書、寝る場所を図示したものや、色々な説明や注意書きのガリ版印刷物を貰い受けけて、校庭に出る。
食券は10食分、汽車電車は2目的地まで。
これだけ貰ったので、もう額のスタンプを拭っても良い事になったのでヤレヤレと言う気持ちになった。
大きなテントを張っているとは言え、夏の昼の校庭は非常に暑い。
しかしどうした訳か、南方から引き揚げて来た我々にはそれ程に感じない。
日本へ「着いた」と言う喜びと、「帰郷」への期待で気持が張り切っているからか・・ それとも熱帯馴れの果てか?
麦飯と小豆の赤飯、野菜の味噌汁、梅干しの煮物、沢庵《たくあん=漬物》など、日本上陸後初めての食事は実に旨かった。
しかし赤飯のお替わりはニッコリ笑った顔で優しく断わられた。其の代わり白い手で番茶を注いでくれた。
日本は食糧難だ・・・と知ってドキリとした。
『紀州・田辺港へ引き揚げ』
「あの稜線《りょうせん=山の尾根》と、燈台の様子では、今四国沖から紀伊半島へ向かって進行中らしい」海軍将校の服装に草履ばきの終戦中佐が私の方へ向き直って説明してくれた。
我々を乗せた引き揚げ船は夜が明けたばかりの本土近海を、サアッと言う波音を立てながら、一ケ月を越える長い退屈な航海を終へ様としている事が分かった。
まだ完全に夜が明けていないので時々見える灯火が民家の灯か或は漁船の灯火か見分けがつかないがこのLST船が作る波の白さは鮮やかである。
ニューギニア島のマノクワリから傷病兵を乗せ、セレベス島のマカッサルから最後の敗戦国将兵を積んで日本へ引き揚げて来た船で、間もなく夢に見た母国の港に入って行く。
軍医中将と船長の指揮の元、戦に負けたとは言え、又ぼろ服を纏《まと》っているとは言え、一糸乱れぬ統制ある長い船旅を終えようとしているのだ。
起床の笛がまだない。しかし、蚕棚《かいこだな=蚕の棚のように幾段にもベットを設置すること》の〈あちこち〉で小声がする。
船窓付近では数名の兵達が交互に窓から外を覗いている。
引き揚げ船内では、非軍人・非軍属の「一般邦人」は私たった一人で、陸軍軍医大佐、海軍主計少佐(澄田)、陸軍大尉(二俣)の特班に加えて貰っていた。
囲碁は大佐、オークションブリッジ(トランプ)は澄田少佐、将棋は二俣大尉がつよく私はいつも負役だった。
8~10名で1班を編成していたが、特(別)班は4名で一つの班になっていた。
お汁粉や風呂水は夫々《それぞれ》他の班の2人分を胡麻化《ごまか》し通せた。
起床の笛には関係無く、好きな時起きい出て甲板を散歩出来た。
私の記憶では、澄田少佐は福島県の「吾妻村」出身で英語が達者な大柄なハンサム・ボーイ。
二俣大尉は陸軍仕官学校卒のごつごつした顔つきと手足の大きな、通信隊(?)の「心優しい」将校で神奈川県人。
帰国後、横浜の電気店に居られた筈。
澄田少佐は、外務省か大蔵省勤務になられた…との風の便り。
軍医大佐は某帝国大学の医学部の学部長(?)で、博士さん。
この博士さんの名前がどうしても思い出せないが、もし存命なら、80才か85才になって居られる筈。囲碁は初段とか・・・
来る日も、来る日も蒸し暑くて気違いになりそうな毎日を囲碁や将棋のトーナメントでまぎらわしたり、身の上話しや自慢話しで長い長い時間を稼いだり、石鹸《せっけん》無しの、海水だけで洗濯をしたり、レコード音楽の盆踊りに参加したり、餅つき(と)汁粉大会に飛び入りして「時」を忘れる事に勤めた毎日だった。
起床の笛の音がスピーカーから流れた。
船内はにわかに騒々しくなった。甲板も人の行き来で、次第に忙しくなる。
小型掃海艇が接舷《せつげん=船べりを着ける》した。いつの間にか、降ろされたタラップを駆け足で誰かが登ってきた。
気が付いたら船足がおちている。船が作る波は小さくなって波の音も殆ど《ほとんど》しなくなっている。
傷病の将兵を除き全員が上甲板に整列した。
各人に「身上調査書(英文と日本文併書)」が配られ、其の場で記入が始まった。
乗船に先駆けて、手渡されている「引き揚げ者証明書」の人定番号を調査書に転記する。・・・・・私には引き揚げ者証明書は無いのだ・・・・調査書の番号欄に〈none〉と書き入れて置く。
朝食が少し遅れた。
船の両舷《りょうげん=両方のふなべり》に陸地が見える。
水路の先に同型のLST船が岸壁から遠く一隻停泊している。バリバリッと爆音がしてヘリコプターが頭上でゆっくり旋回して立ち去った。
停泊しているLSTが汽笛をならした。我々の船も応答した。
再び全員の半数が甲板に集合した。今度は各自私物袋持参だ。
船内全部に上陸に関する説明と注意、輸送指揮官(軍医中将)の訓辞と船長の短い挨拶がスピーカーで流された。
船長の挨拶は『全乗員の統制ある行動に感謝する。船は和歌山県の「田辺」と言う港につく。
すべての持ち物と身体の消毒が、アメリカの進駐軍《しんちゅうぐん=日本占領のための軍隊》監視のもとに行われる。
消毒プールを通過したら船長の管轄《かんかつ=支配》から田辺町長の管轄になる。長生きして日本復興に尽くそう。』と言うものだった。
暫く聞かなかった「君ケ世」と「蛍の光」のメロデイーだけが繰り返して船内放送された。
「ばんざ~い」の声や、戦死した友の名をアリッタケの大声で陸に向かって叫んでいる将校もいる。
私が乗船して経験した初めての、騒然とした〈音の世界〉となっていた。
誰もが〈黙って居られない〉気持なのだろう。
船員に脱帽敬礼して、お礼を述べる者が居た。
しかし、キビキビした動作の船員たちは無口だった。
我々の引き揚げ船は、見事に岸壁にピタリと接岸した。
船に上がってくる者は居るが、未だ下船する者はいない。
アメリカ黒人兵が沢山軍用トラックで岸壁に到着した。
ジープでやって来たのは日本人で、多分通訳だろう。3~4名だった。
もう一本のタラップが船の後部近くに架けられる(船から降ろしたのではない)と岸壁に赤十字の腕章をつけた一群が現れた。
担架で数名が下船をはじめた。航海中、無念の病死をした者の遺品をもった衛生兵もタラップを降りていった。
十数名の戦友らしい者達が「遺品」に敬礼していた。
肩を借りて下船する白衣の勇士の列が暫らく続いた。
無限に広い海原だけを見馴れた目には、岸壁の風景が余りにもザワ付き混雑している様に感じられた。
安堵感も手伝ってボンヤリ地上の動きを眺めていたら、残る半分の兵員が甲板に上がって来て整列、点呼が始まった。
同時に前部と中央のタラップから荷物を持った引揚兵士達が下船を開始した。
重そうな荷物を一つか二つ下げたり担いだりして、用心深く一歩一歩降りて行く。
私達特班グループは、どんな都合でそのまま別れ離れになるか知れないので、一応お世話になった御礼と日本再建の言葉を交わして解散した。
私の持ち物は皆無に近い。
乗船直前に素っ裸にされ何も持たないで最後の乗船者としてタラップを駆け上がったのだ。
船に乗ってから、随分お粗末な、手拭《てぬぐい》、「ふんどし」、歯ブラシ、ランニングシャツ、ねずみ色のちり紙等を支給された。
荷物はこれだけで、片方の手の平に乗ってしまう身の軽さだ!
船内では唯一人の「非軍人非軍属」の「一般邦人」なので班と無関係な「ひとりポッチ」の私は、他班の継ぎ目に割り込んで好きな時に下船が出来るのだ。
マカッサルから乗船した人々や、終戦連絡事務所の要員の列に続いてタラップを降りた。先ほどまで、甲板であれほど騒いでいたのに、一言も喋《しゃべ》らず黙々と降りて行く。
万感胸に迫って来るものが有るのだろう。
タラップを降り切ると、清潔な服を着た日本人の通訳と米兵が待ち受けて、一人一人から記入済みの「身上書」を取り上げ、代わりに紐の付いたセルロイドの様なカードを手渡している。
通訳と私の顔を見比べながら、米兵が『荷物はこれだけか?』とあざ笑う。「イエース。ザッツ・オール アンド ノーモアー」なかば焼けくそで、反射的に出た返事だった。
私の身上書には引き揚げ者の人定番号の代わりに「none」しか書いてない。
これが見つかって、米軍と通訳と私の3人で暫らく言い合いが続いたが結局カードをくれないで此所を通過する。
この辺から列の順番は乱れて(?)、早い者が先…になった。汗くさい黒人兵の人垣に添って進む。
間もなく行くと学校の雨天体操場らしい所に入ってハッとする。
モンペ《袴の形に似た衣服、戦時中の女性の服装》にエプロン姿の「大和撫子《やまとなでしこ=日本の女性のこと》」多数が我々を待ち受けているのだ。
我々の持ち物にセルロイド・カードと同じ番号の荷札を付けて一時預かってくれるのだ。彼女たちは笑顔で迎えてくれたが「ご苦労様でした」以外はなにも話さない。
我々は順番が来ると、撫子《なでしこ》の面前で着ている物を全部脱いで消毒薬の風呂場へ進む。
ほぼ20名単位で入浴する。
湯舟の傍らにはカービン銃《=自動小銃》を脇にした米兵がニャニャしながら裸の群れを眺めている。
ブザーが鳴ると次の浴槽に移る。
次のブザーで最後の浴槽を出ると、消火ホースからの水を前後左右から浴びせられた。
濡《ぬ》れた躯《からだ》を拭《ぬぐ》うタオルなんて気の効いた物は無い。
真夏の潮風で天然乾燥(?)するしかない。
消毒釜《しょうどくがま》から取り出した我々の衣服や持ち物を、広げて冷ましたり、同じ番号の衣服と持ち物を一緒にする作業で彼女達は多忙だ。
運の良い男は、まだ躯が濡れているのに自分の番号の山を発見しているが、付きの悪い男は(私も…)天然乾燥完了後も未だ撫子の立ち働いて居る中を物色する始末。
それでも私の衣服は見つかったが、惜しいとも思わぬが荷物が見あたらない。
私が預けた「おば様」が熱い衣服や荷物に囲まれた中を汗ダク になって番号無しの小荷物を探し出してくれた。
折角要領良く入浴の順番を早めたのに、これで大分遅れた。
衣服を纏い、荷物を持って、「矢印」に従って体操場を出ると赤十字のシャツを着た米兵と日本人が居て、セルロイドのカードにスタンプを捺《お》してくれる。
『消毒完了・上陸許可』のスタンプだ。
誰もが入浴の最中でも紐輪《ひもわ》を首に架けて大切に持ち歩いたカードなのだ。
処《ところ》が私にはこのカードが無い。下船した時タラップ下でくれなかったのだ。
「何? カードを貰わなかった?」「そんなことは無い。必ず(身上書と)交換に受け取った筈だ!」「無ければ証明印が押せない」「えぇ? 引き揚げ者の証明書が無い?」押し問答が続く。
とうとうこの日本人は私を列外に押し出した。困った。
私は遂に「カードをくれないで、行けッと言ったのはタラップ下の米兵なのだ。
嘘《うそ》か本当か確認してくれ!」と英語で叫んだ。
赤十字の腕章を付けた米兵がニコッと笑って、傍らの日本人を宥《なだ》める様に「OK!其のスタンプを貸せ」と。
次に私に向かって「オデコをだせ!」と命令するや否や、私の前額部に問題の捺印《なついん》をして、「それ行け・・・」と顎《あご》で教えてくれた。
慌てた日本人はその後どうしたか知らない。
これで立派に帰国出来た事になる。
廊下を通って破れたガラス窓の教室(汚い黒板がある)では、便せん数枚、封筒2本、郵便切手、はがき5枚が貰えた。
私の指さすオデコのスタンプを確認して渡してくれた。
「まだ数ケ所で物品が支給されるから・・・」これでは汗をかいても額を拭く訳にはいかない。
この部屋を出た廊下で「たすき」をかけた女性が、切手付きの絵葉書と削った消しゴム付き鉛筆を渡してくれた。
次の教室で食器(日本陸軍の飯ごうとフオーク)をくれた。貰うものを貰ってこの教室を出ると、長い廊下を通って別棟の校舎へ行く。
忘れものか落し物で廊下を逆行する者もいて若干混雑
している。
初めての教室で食券や汽車・電車乗車券の請求書、寝る場所を図示したものや、色々な説明や注意書きのガリ版印刷物を貰い受けけて、校庭に出る。
食券は10食分、汽車電車は2目的地まで。
これだけ貰ったので、もう額のスタンプを拭っても良い事になったのでヤレヤレと言う気持ちになった。
大きなテントを張っているとは言え、夏の昼の校庭は非常に暑い。
しかしどうした訳か、南方から引き揚げて来た我々にはそれ程に感じない。
日本へ「着いた」と言う喜びと、「帰郷」への期待で気持が張り切っているからか・・ それとも熱帯馴れの果てか?
麦飯と小豆の赤飯、野菜の味噌汁、梅干しの煮物、沢庵《たくあん=漬物》など、日本上陸後初めての食事は実に旨かった。
しかし赤飯のお替わりはニッコリ笑った顔で優しく断わられた。其の代わり白い手で番茶を注いでくれた。
日本は食糧難だ・・・と知ってドキリとした。