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敗戦の技師(2) (LIPTONE)

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通常 敗戦の技師(2) (LIPTONE)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/19 8:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 戦の技師(2)93/08/11 13:21
   
 『従来より(インド)本国からの通信はトラブル無しに受信出来たが、マカッサルからの送信メッセージはどうしても直接先方へ届かないので、シンガポール中継で送信して居た。 
 司令部方針として今しがた、本国との通信を、も早中継無しで直接交信する事に決定したばかりである。
 この喜びを君に伝え度くて今迄待たせた。
 これは高級な鶏肉の缶詰めである。君のキャンプに居る人たちにも食べさせて上げなさい。』と言うのが中尉の用件だった。

 大きな重い缶詰め(1斗缶)を当番兵が持って、私の車まで送ってくれた。 
 車が動き出すと当番兵は私に敬礼してくれた。彼の目は誠実真剣であった。 
 私は矯《た》めらわず答礼した。

 キヤンプに帰り着くと早速賄い《まかない》当番を呼んで、誇らしげに御土産を渡した。 
 終戦連絡事務所長(陸軍中佐)が草履ばきで私の部屋にやって来て、『お前の帰りが遅れる事の電話をうけた。』、『ご苦労っ!』とだけ。 
 鶏肉缶の事は、まだ知らないらしい。

   ………………………………………………………………

 『技師殿。起床時刻でありますっ!』と言う不寝番の大声で目を覚ました。 
 山の収容所から来て所長の指揮下にある陸軍25名と海軍25名の短期派遣作業班は既に中庭へ集まってラジオ体操の隊形を作っている。 
 今日も焼け付く様な熱帯の朝である。

 連絡簿に所要事項を記入して、朝の食事をとる。衝い立《ついたて》の向う側には50名強の兵が朝からチキンの豪華食事をしている。
 『おぉーい! うまいだろう! その鶏肉はこの俺《おれ》が取って来たのだぞー!』と恩に着せ、自慢したい気持ちだった。
 『おい! お前の戦利品か?・・・』と所長もご機嫌である。

 車を裏庭に回して久しぶりの洗車をした。 
 アッと言う間に乾いてしまう。
 愛車とまでは行かないが、豪州軍から貸与された車で、左右両ドアーに2cmX2.5cmの日の丸が画がいてある。
 初めはもう少し大きな日の丸だったが、原住民の子供達から石を投げつけられるので、目立たぬ様に小さくした。 
 御蔭《おかげ》で投石される事が無くなった。 
 金属スポークの付いた細身のタイヤーが特徴で、前進4段の軽快車。 
 フィアット製で当時はニュールック。

 午前8時、本日の作業予定表が回って来た。 
 カーボン複写で手書きの一枚もの。
 回覧形式で、見終わったら捺印《なついん》することになっている。 
 捺印しながら念を入れて、もう一度見直したが私は何もする事が無い。 
 占めたっ、海水浴と洗濯と昼寝と読書が出来る!

 正午ジャストに英印軍司令部から、「出て来て昼食をせよ」と電話が入った。 
 大急ぎで服装を整え、洗い立ての車で司令部へ急行した。 
 電話の主通信准尉が待って居た。すぐ、床が鳴る食堂へ案内された。 
 この准尉よりもっと位が上の将校が10名近くも食事していた。 
 昨日出会った通信の責任者の中尉は居なかった。

 『これが第1号の新聞だ。 君の事も出ている。』 
 こう言いながら准尉が1枚の紙を渡してくれた。 
 A4版より少し縦長の紙の片面にタイプライターで記したガリ版の新聞(様)のもので、准尉が指さした所に、私の事がちょっと出ていた。
   
 《戦争捕虜の指示でアンテナが完成す》の記事。
 一日本人が英印軍(クマオン部隊)の命令を受け、戦勝兵に技術上の指示を与えて遠距離アンテナを完成する・・・と言う意味の記事だった。
 気を付けて探したが私の名前は見当たらなかった。
 私の胸には司令部がくれた葉書半分大の名札がいつも下がっているのに・・・名前が出ていないので心の内では少々不満であったが、准尉の手前、大変珍しい事件ですネ・・良く出来た記事です。。。と褒《ほ》めておいた。

 中佐はじめ連絡事務所の面々に見せて自慢話しが出来るのでこのガリ版新聞が欲しくなったので、思い切って『一部下さい』と言ってみた。 
 准尉は『どうぞ』と、すんなり応じた。

 昼食が済んで、准尉と二人でアンテナ・ヤードへ来てみた。
 『お前は日本の何処から来たのか? 私は子供のころ、神戸に6ケ月いた。そのころ父は・・・』などと話し出した。
 なんでも父は洋服生地を売る商売をしていたらしい。母の話は出なかった。
 『国には妻が2年近く私の帰還をまっている・・・早く国へ帰り度い。 
 お前はいつ日本へ帰ることが出来る見込みか?』と。

 『引き揚げ船が来たら一番船で日本へ帰れる様にしてやると説得されている。 既に5番船が日本へ向かったが、豪軍司令部が自分を英印軍に引き渡し、英印軍が私を拘束している・・・』

 思い切ってハッキリ返事をした。 
 英印軍が自分を拘束している‥‥と言い切ったが、言い過ぎでは無かったか?

 6番目の引き揚げ船が近く入港する・・との情報が入った。
 山(全日本人が収容され、農園などを作り自活している所)にはもう婦女子は居ないし、私の様な「民間人」も既に引き揚げて軍属と軍人しか居ない。 
 例によって、第6次帰還人員計画書作りで暫く連絡事務所が忙しくなる。
 戦争犯罪(とは思わなかったが)容疑者の(裁判の)予審で「白」と決定した者や、前回病気で乗船出来なかったが快復して、長期の船旅に耐える様になった者を優先帰国させる事にした。第7次は、ニューギニャのマノクワリから1ケ月後にマカッサル港へ来るが、多分この第7番船が当地最後の便となる見込みであり、第7番の船は、病院船なので、今回の6次便に一人でも多く乗船させるべく、英印軍情報部と連絡が更に活発になった。 
 乗船者全員の指揮者の決定、小隊、分隊、班の編成など名簿が次々に完成する。ローマ字で、名前や生年月日を深夜までタイプする。 
 いくら探しても自分の名前がない。半泣きの気持ち。
 望郷の気持ちで胸が一杯になる。 
 あと1ケ月待てば、最終船なので、その病院船で帰国出来る事は確実なのだが・・・1ケ月はとても長く思えた。 
 事務が手に付かない・・男の気持ちなのだ。
 
 そもそも上司が『ご苦労だが、市内に留まって、連絡所に勤務して貰いたい。其の代わり、第1番船で日本へ帰れる様になる。』と言った言葉を信じてマカッサル市の終戦連絡事務所に最初から勤務しているのだ。 
 こんな事を言った上司は自分に何も言わないで第2番船で引き揚げている。
 彼はそれまで山でのんびり暮らしていたのだ。
 私が日本へ帰ったら、出会って「いや味」を言ってやろう!

 いつしか第6次の引き揚げ船を見送ってほぼ1ケ月経過した或日、蘭印《らんいん》(オランダ領インド)政府機関のNICAがマカッサルへ上陸して来た。
 NICAとは蘭印民政府とでも言うものである。
 国際電気通信株式会社が現地に設立した無線受信所、同送信所、電報電話局、修理工場、通信機材倉庫等などを英印軍からこのNICAへ引き渡しを行う事が始まったので私の躯《からだ》が幾つあっても足りない程忙しくなった。 
 測定器の取り扱い説明書が日本語なので「英文に翻訳せよ」とNICAから要求がでた。十数冊の説明書なので、7次の最終引き揚げ船に乗れなくなると大変だと感じた。とにかく、1日に1冊をやっつけても船に乗れなくなる。

 NICAの作業が忙しくなったので、英印軍の呼び出しに応じられない事がしばしば生じ始めた。 
 軍事優先なのか英印軍の仕事はNICAに優先する・・ことの通知を英印軍情報部から受けた。
 山からの短期派遣作業班はNICAの仕事を始めていたが、これも、英印軍の為の作業だけに限定された旨の通知も受けた。

 [アレッ! 英・蘭が仲たがいしている・・・]と直ぐ気がついた。
 英印軍のジープによるパトロールが激しくなった。

 英印軍を経てNICAから私の乗っているフィアットを返還する様要求が有った。何でも、この車は元オランダ人の個人所有のものだったと言う訳で私から取り上げる事になったのである。
 フィアットを自分に貸してくれたのは英印軍の情報司令部で車に日の丸を付ける事を認めたのも英印軍だった。NICAと英印軍とのあいだで、オランダ人財産の扱いに関して、どの様な話合いが出来ているのか分からないが、即刻返還しなければならなくなって、日の丸のマークを削り落として英印軍の情報部まで、この車の最後のドライブをした。 
 情報部のパーキンク・ロットに到着すると、2~3人の兵が居て、「車を此所《ここ》へ・・・」と相図している。
 言われた場所にゆっくり止まって、フィアットから降り立った。 
 兵士達はただちに、車体番号や機関番号などを確認したが、足回りとかエンジンの調子、車体の傷等には一切無頓着《むとんちゃく》。 
 工具やスペアタイヤの不足にも全然関係ない様子。 
 暫く待っていると、3階の情報部入口の受け付け(と言うよりも監視)へ案内された。
 当司令部の将校のサイン入り「受渡し証明書」の領収書に私のサインをさせられた。フィアットの返還に関係が無い書類が有ったので、良く読んでみると《豪州軍が使用していた米国製ジープを貸し出す》意味のものであった。 

 パーキング・ロットに戻るとフィアットは良く手入れされたジープと入れ替わっていた。
 洗い立てで、シートが濡《ぬ》れていた。
   
 豪州軍が沢山陸揚げした軍用車の中で見つけた小型の自動車だったが、実際に運転したのはテニスコートの整備作業をした時だ。
 豪州軍の将兵が使うので、荒れ果てたテニスコートの手入れをするために、重い石製のローラーに綱をつけて10名ほどの日本兵が「わっしょ、わっしょ」と引き回して地均し《じならし》をしていたが、この石ローラーをジープで牽引《けんいん》する仕事を命令された時である。

 数名の日本作業兵を「重り」の代わりにジープに満載して、ギヤーを「ローのロー」に入れ、コートを(のろのろ)走り回ったことを思い出す。
 『技師殿、これはなかなか宜しいでありますっ!』と胡麻《ごま》を摺《す》る兵が居て、いや~な感じがした事も思い出される。
 彼はただ、車に乗っていればいいので、疲れないし汗も余り出なくて済む。
 この様な兵は、車から降ろして、草刈などをさせてやろうかと言う気持ちがした。
 結局作業後この兵にジープの水洗をさせた。

 さて、新たに貸与されたジープに乗ってキャンプに帰り着くと、非番の兵が車を取り巻いて、「何と言う名前の車か?」とか、この「転把(てんぱ、ハンドルの事)が左側に有る」などと珍しがっている。 
 2~3人づつ交代に乗せて、キャンプの中庭を走って「物知り」である事を示す。 
 これも私の「虚栄の行為」か?

 ジープで引っ張るトレーラーはいらないか、必要なら情報部へ来いと親切な電話が掛かってきた。 
 特に必要とも思わぬので、丁寧に断わった。 
入れ替わり又電話が入り、「豪州軍が残して行ったラジオ受信機が2ダースほどある。
 電池をつないで見たが全部故障らしい。何とかして、数台を聞こえる様にして欲しい」と例の通信中尉が私の腕を過剰評価して依頼して来た。
   
 通信室の一角にラジオと乾電池がキチッと積み上げられていて、側には英印軍が使う通信機補修用の工具箱が置いてあった。
 『お前のキャンプへ持ち帰って修理しても宜しい』と言うことなので、若干の屑線《くずせん》を含めて工具箱もラジオも電池も全部持帰ることにした。 
 一度に運ぶには荷物が多い過ぎたので2回に分けて運ぼうとしたら『誰かトレーラー付きジープで運んでやれ』と中尉が言うと、数人の兵士が我を争って運びたい・・・と手を挙げた。

 キャンプに運び込まれたラジオを調べてみると、4球式2バンドの短波受信機だった。
 既に誰かがいらい回して、あちこち故障している厄介《やっかい》なものばかり。 
 回路試験器や信号発振器が必要なので、英印軍からNICAへ掛け合って、元我々が運営して居た受信所に有る筈の測定器を借り出す様中尉に頼んだ。 
 使い慣れた日本製の測定器でこれらの取り扱い説明書の英訳を頼まれた事がある。
 『NICAが承諾した。お前達が一番良く知っている所だから、このスリップを持って受信所でいるものを借り受けると良い』『機材が大きいか重たければ通信兵を付けてやろう』と非常に親切に言ってくれた。 
 壊れ安いが、余り大きくないし、目方も大した事は無いから、自分で借りて運ぶ事にして、スリップだけ貰つて行った。

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