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敗戦の技師(3) (LIPTONE)

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通常 敗戦の技師(3) (LIPTONE)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/20 9:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 敗戦の技師(3)93/08/11 13:24

 受信所にはNICAから派遣されたオランダ人の技師が待っていた。いきなり『コンニチワ』と日本語で先方から挨拶《あいさつ》された。
 この技師は、捕虜として日本へ送られて、山口県か広島県の捕虜収容所に数カ月いた。 
 『その時の収容所長は、ショーゴ・アマリ(甘利・しょー吾)と呼ぶゼントルマンの技師だった。』と話してくれた。終戦後しばらくして、電波管理局長を勤めた方だ。

 英印軍の指示により日本の通信機材の取り扱い説明書の翻訳はしなくて宜しい・・・のだが、実はこのオランダ人技師に数頁のものを英語で要約《ようやく=文章などの要点を取りまとめる》する事を頼まれてしまった。 
 目的の測定器と共に、チョコレート1箱を貰って、まっすぐキャンプへ帰った。

 日本ひいきの英印軍兵士には好意を感じ、NICAは何だか陰険な気持ちがして嫌いだが、このオランダ人には友情らしきものを感じた。 
 多忙だが、2~3日で英文要約を届ける約束をした。

 チョコレートを貰った手前、遅れてはならぬ・・・と、翻訳を始めた。 
 取り扱い説明書は、太平洋戦争勃発《ぼっぱつ=突然起る》直後に編集されたものであるが、当時の言葉で言えば「敵国語」に当たる英語の技術専門用語が次から次ぎに出てきた。 
 使い慣れた単語が多く、辞書(和英辞典は所持出来たが、英和辞典は駄目)を引く頻度《ひんど=繰り返す度合い》はあまり多くなかった。
 遂に1台のラジオも修理しないで、終日英訳を行い、深夜音を立てながら、英印軍から借り受けのタイプライターとペーパーを使って内緒でNICAの仕事をした。 
 出来上がれば英印軍のジープで、英印軍支給のガソリンを使ってチョコレートをくれたオランダ人技師に翻訳したものを届けに行く訳だ。

 こんな行動は、人間関係の善意がさせたのか、チョコレートが贈収賄関係を起こさせたのか・・・  自分は悪いことをしているのか、自分は卑怯《ひきょう》な技術者なのだろうか・・・ それとも一般にありふれた極普通の人間のする自然な行いなのだろうか・・・?

 今はNICAの物となった受信所へ立ち寄って翻訳書類を手渡してから、英印軍の通信室へ何食わぬ顔をして入って入った。
 今朝早く通信室から連絡電話があって、戦時中「マカッサル研究所」があったフォート・ロッテルダムの倉庫(豪州軍が占拠していた)で、オーストラリア赤十字からの慰問品梱包《こんぽう=荷包み》が発見され、其の中に交換用のラジオ真空管や、スイッチ類の小物部品が沢山あった。 
 ラジオ修理に必要な物あれば、何でも勝手にこの箱から取りだしてよろしい・・・と言う内容の電話だった。
 『何か役に立つ物はないか?自由に持って行って宜しい。』と言われたが、実のところ、ラジオの方はまだしっかり調べていないのだ。  
 『修理に要する部品を予知することは難しい。共通の修理部品として、抵抗器やコンデンサーは良く使うから、取り敢えず、R・Cキットボックスを貰って行きたい・・・』と准尉に答えるのが精一杯だった。

 修理の出来たラジオ5台を重もそうな格好で通信室へ運び込んだ。
 『修理出来た分をその都度届ける。』と電話しておいたので通信の中尉や情報部の将校まで部屋へやってきた。
 通信室なので、アンテナやアースはお手のもの。新しい電池を接続し、他のスピーカーの音量をさげ、こちらのラジオの音を大にして ダイアルを極めて静かに回し進めると、音楽が飛び込んだ。
 英語が達者な下仕官が、親指で「日本の技術者はりっぱだ」と示し、無言でうなづいていた。  
 准尉や中尉や情報部の将校はなにも喋《しゃべ》らなかった。
 草緑色のラジオの箱に赤い赤十字のマークが誇らしげに艶光しているのが印象的だった。

 6台のラジオを潰《つぶ》して部品を回収し、これに赤十字の部品を加えて、合計18台の修理をおえた。余分、或は不用になった部品とか工具類一切を英印軍へ返納し、試験器や発振器は堂々とジープにのせてNICA受信所へかえしてきた。

 英印軍から新しい指令が来た。 山の収容所から、定期交代でやってくる陸・海軍の短期派遣作業班は、今後不要とのこと。
 防空壕の埋め戻し、連合軍の爆撃で壊れたままの構造物の撤去、道路や公園の清掃等を敗戦国兵士が毎日「進駐部隊の指令」で行っていた。今まで、トアン・ブッサール(御主人様)として、原住民にかしづかれて居たオーラン・ニッポン(日本の人)が、原住民が見守るなかで、バケッ、ほうき、スコップなどを使って無言の作業に従事していた。 
 作業現場まで、節度ある隊伍《たいご=隊列》堂々の行進と指揮者の命令一下、キビキビした行動などは、熱帯的怠惰のなかで育った原住民にとって、合点が行かぬ事で有ったろう。 
 逆に作業兵達は「負けても健在だぞ!」、「何が恥しいものか!」の気持ちを統制ある団体行動で訴えて居るのだろう。

 最早やホウキを担いだ作業日本兵の行進を見ることも無くなるのだ。 
 私の一番嫌いな仕事は、作業班へその日の作業予定を伝達したり、指示内容が不明瞭なものがあると、詳細説明を司令部に要求する事でまるで司令部の「犬」のような役目に見られていた。
 もうすぐ、こんな嫌な事も無くなるわけだ。
 後で聞いた話であるが日本の作業兵が居なくなって代わりにNICAの日雇い人夫が清掃を始めるそうだ。 
 入れ替わり立ち代わり、山から交代でマカッサルのキャンプに来た作業兵のみなさん肉体的にも精神的にも大変ご苦労さまでした。

 このころ、戦に負けた大本営から天皇陛下の使者(陸軍の中将だったとおぼえている)が海軍の102根拠地であった此のマカッサルに飛来した時の事である。 
 僅か《わずか》数時間の短い来島であったが、山やその他の捕虜収容キャンプから、日本へ帰らずに、残留中の陸海空の佐官以上の軍人と勅任官《ちょくにんかん=高等官の一つ、1等、2等高等官》以上の軍属が私の居る終戦連絡事務所に集められ、陛下《へいか=天皇》の御言葉と、日本政府の終戦への対処や、当面の方針などの訓辞と説明がなされた。
 丸腰の第一種軍装軍人達が直立して涙を流して静聴した。
 連絡所長から『たった一人の「一般邦人」だ。最前列の左端に立て』と言われ、とっさに我らの制服にはネクタイが要るので、なんとかしなければ・・・と思った。 
 木綿の白靴下を墨汁で染めてネクタイ代わりに締めた事や、汗のためネクタイの墨が衣服をよごして仕舞った事など、平和な現在すべて懐かしく思い出される。

 英印軍司令部から私個人に電話で出頭命令があった。 
 所長の補佐官兼通訳の有田小尉が受けた電話で、もしかすると君は第7便では、日本へ帰れないかも・・・と心配して出頭目的を明かしてくれた。いつもザックバランな電話指令が、今少し様子がちがう。
 「何かあるぞ・・・」、「いつもと様子がちがう・・・」色々な場合を考え乍ら《ながら》、ジープで司令部へでかけた。   

 間違って通信室へ行ったら、「ここではない」といわれ、3階の情報部へ連れていかれた。 
 軍服の初対面の英印軍将校と背広の背の高い白人の男が受け付けにやってきた。
 『この方はNICAの連絡将校だ。近く最終の日本向け船舶が入港し、PW(戦争捕虜)を全部送り出す。 
 船は直行しても、日本到着まで2週間かかる。 
 連合軍の人員輸送機なら、遅くても2日で東京へ着く。
 船をやめて飛行機で帰れ。 
 船が出航したら、NICAの事務所勤務となる。どちらにするかを考えたり、準備をする時間はあと2日間しかない。何か質問は・・・』と軍服のほうが一方的にしゃべる。
   
 わたしをNICAに引き渡して英印軍はシンガポール経由でインド本国へ凱旋《がいせん》する。最終船は、あと2~3日したら入港する。
私を、後日飛行機で日本へ送り届ける。 
 いつ飛行機に乗れるのかは今ここでは分からない。 10分ぐらいの会話で得られた内容である。

 階段を1階まで降りた所で通信准尉に出会った。 彼の部隊は近日中に引き上げる・・君達の(引き揚げ)船は早ければ明後日午後マカッサルにやって来る。君の方が先に(セレベス島を)離島する訳だョ・・・と、語りかけてきた。 
 「飛行機の便よりも、島を出て日本へ向かうのは一日でも早い方が良い」と決心したのはこの直後で、ジープに乗った時は早くも下船して懐かしい故国の大地に立った姿を想像していた。 
 決心したら、気分壮快になった。

 有田小尉と終戦連絡事務所長が何か相談して居る所へ入って情報部で分かった事項を報告した。 我らの中佐と小尉が英印軍から知らされた内容は極限られたもので、私の方がも少し詳しい情報だった。 
 何れ《いずれ》にしろ最終船への乗船者名簿提出の命令はまだ英印軍から来ていない。 
 しかし事務所では第6次船が出航すると直ちに乗船予定者の名簿を作り始めていたので、いつ名簿の提出命令がきても短時間で対応出来る態勢にあった。       

 私はNICAのために最終船をも見送るのは嫌だった。この最終船に乗って、とにかく一日も早く日本へ帰りたい。こんな気持になると、も早や一切の仕事が手につかない。男が望郷の気持を抑へ切れないでイライラしだした。 
 しかし、なにはともあれ、英印軍に、自分の(最終便で帰る)決心を報告しなければならない。

 連絡所長の了解を得て、有田小尉が私の帰国希望を情報部へ伝えた。 
 その返事は『それは良い。この旨NICAへ通知する』『司令部でも、そう有って欲しいと思っていた。』..であった。
 
 自分が最終船で帰国したい事に就いて、現地では最高の力を持つ英印軍が了解してくれたので、安心と望郷の交錯《こうさく=入り混じる》した気持ちでぐっすり眠った。 
 作業班はすべて山のキャンプへ引き揚げたので連絡事務所の人員は最小限になり、不寝番は廃止され、当番兵を含めて7人になってしまった。
 事務所内に時計は1個だけ。 振子式柱時計が事務室の壁に引っかけてある。 
 個人の腕時計は、万年筆等と共に一番はじめに上陸して来た豪州軍のならず者達に巻き上げられてしまっている。

 毎日、定時ならびに臨時に司令部通信室へ電話してポンポン時計の時刻を合わせている。
 寝坊しない様に、フト目が覚める度に事務室の時計を見に来る事になったのは、不寝番を廃止してからである。 
 起床時刻が近付いた事を知った者が、まだ眠っている人を起こすようになった。
 賄い《まかない》当番が起床するのもこの時になってしまった。

 歯ブラシをくわえたまま、まだ良く寝ている者を起こして回った。午前3時ごろ目があいて、その後眠れなかった。 
 起床時刻になるのを待ちかまえて、皆を起こして回った訳である。

 今朝一番の入電は、乗船者名簿とその隊の編成表などを今夕情報部へ提出すること、山の戦争捕虜収容所に居る病人を下山させて、連絡所に収容すること。この移動は明後日に完了すること。
 山の日本軍医は病人と一緒に行動し、医者及び病人のリストを用意しておくこと。 
 私物荷物は一人2個までゞ、自分で持ち運ぶことができること。 
 移動人員の概算数を今夕までに報告せよ。
 病院車1両と十分な台数のトラックを派遣してやる・・など

 昼前に、所長が司令部へ呼び出されたので、ジープで送り込んだ時、通信の中尉が私を見つけてジープまでやって来た。足でタイヤを蹴《け》りながら『引き揚げるンだってネ。 
 もう一度食事する時間はあるか?』と誘ってくれたが・・・とてもそんな時間は無い。

 午後5時山から事務応援の一団が到着。其の中に軍医も一人下見に来ていた。 
 応援要員は所長の指揮下に入り作業分担の設定が終わると遅い夕食になる。 
 作業班が居なくなってから久しぶりに賑《にぎ》やかな連絡所に戻った。 
 軍医の話しでは、明日午前中に衛生班が到着するとのこと。


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