ただ今帰りました! (LIPTONE)
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編集者
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ただ今帰りました! 93/08/11 13:35
『ただ今帰りました、お母ぁさん!』
やっとの思いで大阪駅に着いた。何時に発車するか分からぬが福知山行きの汽車に乗り換えなければならない。
福知山から先は比較的順調に行けるらしい。
爆撃に遭った大阪駅は悪臭に満ちている。
壊された大きなセメントの塊の中を縫って、次ぎにレールを跨《また》いで福知山行きの列車に乗り込んだ。
乗降口は先客のリュックや大風呂敷の包みの山で通れない。
列車に乗るにはガラスの無い窓からしか方法が無い。
しかしホームから窓は背が高過ぎる。
どうにか形を残しているごみ箱を引き摺《ひきず》って来て、それを足場に窓から列車に出入りする。
こんな無作法な事はし度くなかったが、みんなが窓から出入する。
中に居る先客も慣れたもので、「ソレ来た!」と手を引いて中へいれてくれる。
私に近い進行方向右座席の男は自称「満州国」から朝鮮を経て引き揚げてきた兵隊で、右の「耳たぶ」が半分しかない。彼は、私に荷物の監視を頼んで、窓から出て行った。
暫らくして、窓から入り乍《なが》ら『便所で麦をもった奴が捕まっている』『あの便所には(新聞)紙が沢山あったぞ!』と良く喋る。
この車内は汗と糞尿《ふんにょう》の臭気が漂っている。
私が乗り込んでから4時間経過した事が駅の掛け時計で分かった。
便所で逮捕されたのは、闇《やみ=法に違反して売買する》麦運搬の廉《かど》で‥‥とのこと。
また新聞紙は貴重品だ‥‥と言うことも初めて教わった。
田辺の引き揚げ援護局が用意してくれた日の丸弁当は、夏場を考慮して、麦が少なく、塩を効かせた米飯だったが、これを取り出して食べる私をみて『大将、ぜいたくな弁当だ!』と周りの者が感心している。
田辺から持参した4食分の最後の弁当だ。
水筒の最後の一滴を飲んで、遅い昼飯を終わる。
早速窓から出かけて水筒に水を満タンにして窓から戻る。
ガタンと列車が揺れて、機関車が接続されたらしい。それから30分もして、発車となった。メガホンの駅員が列車の屋根にいる連中に「トンネル危険」の説明をしたが遂に誰も降りなかった。
途中何回も停車を繰り返し、提灯《ていとう=ちょうちん》の光りが2~3行き交《か》う……丁度真夜中に福知山へ到着した。ここから私はレールにそって10ないし15キロメートルを、荷物を担いで、綾部駅まで歩いた。
綾部から引き揚げ港の舞鶴までは、やや清潔な列車で余り混雑していなかった。西舞鶴で海を見ていると夜が明けた。
夕食抜きなのでかなり空腹を感じた。
正規(?)の乗降口から降りて水筒の水を補充する。
ついでにトイレのご用も済ませる。目的地の丹後宮津までは、歩いて30キロ、楽な1日の行軍行程だ。
ここまで帰えり着いている事を母に知らせて上げたい。
明朝6時頃、舞鶴発豊岡行きがある。それまで汽車はない。
西舞鶴駅には、半ば公認の「闇市《やみいち》食堂」があった。 〆《しめ》たっ!
芋雑炊を3回、パンを2食、刺身一皿・・・たった此《こ》れだけで100円近く払った。
援護局で貰った現金は200円、多額なのでびっくりした程だったが・・・これがインフレと言うものか・・・
セレベス島では現地手当を除き月給が120円だったのだ!
付近に時計が無いので、向こう側のプラットホームまで時刻を見に何回となく散歩した。
夏の海の夜明けは早い。明るくなってからも辛抱強く豊岡行きの列車を待った。
車輌の中が少し騒がしくなった‥‥オヤッ?
日の丸の小旗を持った女性がホームに集まって来た。母に似た女の人も混じっていた。
本国の女性は珍しい(?)ので良く観察すると、軍艦旗をもった年頃の娘さん(?)も居る。折り箱や竹の皮に包んだ物を別の手に持っている。うん、エプロン姿はいいものだ!
汽笛を鳴らし、猛烈な黒煙を上げ、白い蒸気を吹き出しながら昨夜から待った列車が入ってきた。故郷までの最後の乗車だ。心を引き締めて自分の荷物を結び直す。列車はガガガと音を立てゝ止まった。
丁度私の前が昇降口になった。
西舞鶴で降りる人は殆どなくここから乗る人の数も少ない。
しかし私は無意識に急いで乗り込んで海側の座席に座った。
少しでも早く宮津湾を眺めたかった。
小旗を持ったご婦人連が、温かい日本茶のサービスを始めた。
別の女性達は、焼いて更に煮た魚を鍋からすくって、窓越しに希望者に渡す。
雑誌の紙を2~3枚重ねた物がお皿の代用品だ。
魚は引き揚げ者への無料給付食料だったのだ。
口ぐちに「凱旋《がいせん》おめでとうございます。」とか「どちらまで、御帰りですか」、「さぁ、どうぞ!」と彼女達は話し掛けてくる。
発車までの短い時間が楽しかった‥‥母の感じがして‥‥。
戦闘帽を被り脚伴《きゃはん=歩きやすくするために足に巻きつける布》を巻いた短靴の男が乗って来て私に言った、
『舞鶴の病院に5日間入院していた。船中でひどい下痢をして、船が着くと直ぐ海軍病院へ送られた。昨日の午後退院して、後ろ2両目(の車両)に乗って寝ていた。 空腹で眠れなかった。
先ほど窓から「魚」を貰って食べたが、もっと欲しいのでこの車両に移動して来たのだ』と。
結局この男は再度配給に有りつく為にやってきたのである。
要領を弁《わきま》えている奴だ、呆《あき》れた奴だ!
窓から身を乗り出して『いま何時ですか?』と若いご婦人に声をかけた。
彼女が腕時計をしていたからだ・・・。
「はい」と振り向いて、奇麗な手首を上向けて、「いま6時半です」「もう発車するはずですヨ」「ご苦労様でした」「お茶はいかが?」と親切だ。
「在郷軍人婦人部隊」(?)と書いた布片を腰の少し上に着けていたが、「たすき」はかけていなかった。
無闇や鱈《むやみやたら》に丁寧な言葉でお礼を述べていると、発車になって、彼女は丁寧にお辞儀をして、直ぐに背をのばして、黄色い声で、他の婦人達と「万歳」を叫んで用意していた小旗を打ち振って我々を見送ってくれた。
さあ、あと1時間もすれば、本当に「丹後宮津」へ到着するがこの列車で私が帰る事は母はまだ知らないのだ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ギーと車輪をきしませて、静かな駅に停車した。
荷物を持って降車し、10歩も行かぬ中に、雷鳴を聞いた。
『マ・サ・タ・カ !』・・・また同じ雷鳴が・・・。
私を気安く呼び捨てにしている。 母の声か? いや違う?
『ここょ!』と叫んで改札の外で、つまだつて居るのは母だ!
無言で、わざとゆったりプラットホームを歩き、姿の隠れるブリッヂ(跨線橋)では急いで渡って母のいる出口へ近付いた。
『電報ありがとう!』これが母子再会に際して発した母の最初の言葉だった。
田辺駅出発の日付と大体の予定時刻は郷里へ打電済みであったが、到着は丸1日遅れてしまったのだ・・・後で聞いた話しだが、東京の私の会社(国際電気通信株式会社)から『マサタカ ド ノ キシウ タナベ ニ ガ イセン」チカクソチラヘ カエル」カイシヤ』の電報が母当てに送られていた。
母は、昨日の下り1番列車から、汽車が着く度に迎えに来ていたことが後日分かった。
『よく…』後は小さな声になって『帰えって』更に涙声で『くれたね』とやっと言葉になった。これは聞き覚えのある母の声だ!
あのホームに降りたった時に聞いた雷鳴は、嬉《うれ》し泣きの喉《のど》からほとばしり出た必死の叫び声だったのだ。母はそんな声も出せるのだ。
母の他に数名の出迎えの人々が居たので、母の泣き顔が少し恥しく思えた。
そんな気持ちになる自分は親不幸かしら?
改札を出ると、肩に掛けた荷物を降ろすのに手を貸してくれた母は『手車を借りて来るから荷物を良く見張ってなさい』と言って駅前の看板だけが「みやげ物」となっている店の扉を開けて入って行った。
そして間もなく母は嬉しそうに二輪の手引車を引っ張って来た。
一人の中年のおばさんが、後ろ手で扉を閉めて、急ぎ足で母の後を追って来た。
母は荷物を手車に乗せながら、駆けつけた店の御ばさんに私を紹介した。
母は「一人息子で、すぐ嫁を貰う・・・」と嬉しそうに、余計なこと迄喋る……。
此のおばさんは、主人が召集された後、土産物の店を閉鎖して帰って来るのを待っている。
母は良くこの閉じた店で「汽車待ち」させて貰っていた・・・などと店のおばさんからの御話し。
荷車に乗せる程の荷物でも無いが、母の厚意が嬉しくて、水筒から帽子まで身の回りの物全部乗せ終えた。
一本の舵棒《かじぼう》を、二人では持ち難いのに、左右から二人で掴《つか》んで母の歩幅《ほはば》に合わせて家に向かう。
なんと幸せな「道行」なのか!
私は、引き棒を持ち直した時、母の手の上から握った。
「僕は此の通り元気で力もありますよ!」との気持ちをこめて力強く握った。
柔らかい母の手だった。
子供の様に甘えて見た。
母はチラッと私を見直した丈《だ》けで無口になって歩く。
真昼の夏の陽を浴びながら・・・。
私は・・・間が抜けた様に、しかし、沈黙を破って、思い切って言った、
『おかあさん、ただいま かえりました』
ーーー完ーーー