東村山 ふるさと昔語り その1
投稿ツリー
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東村山 ふるさと昔語り はじめに (編集者, 2007/6/23 7:36)
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東村山 ふるさと昔語り その1 (編集者, 2007/6/23 7:40)
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東村山 ふるさと昔語り その2 (編集者, 2007/6/24 8:02)
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東村山 ふるさと昔語り その3 (編集者, 2007/6/25 7:28)
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東村山 ふるさと昔語り その4 (編集者, 2007/6/26 8:01)
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東村山 ふるさと昔語り その5 (編集者, 2007/6/27 6:52)
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東村山 ふるさと昔語り その6 (編集者, 2007/6/28 7:31)
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東村山 ふるさと昔語り その7 (編集者, 2007/6/29 7:45)
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東村山 ふるさと昔語り その7 (編集者, 2007/7/2 7:29)
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東村山 ふるさと昔語り その8 (編集者, 2007/7/3 8:55)
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東村山 ふるさと昔語り その9 (編集者, 2007/7/4 7:42)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

空襲 (1)
秋津の古老に聞く
『南秋津への空襲』
○戦争の時の話になるが、昭和二十年四月二日、下組 (しもぐみ) にB29《米国ボーイング社の大型爆撃機》が落ちてな。B29は一機撃墜されたがその時、民家が一軒焼け、二十三戸が破壊され三名亡くなった。本当にひどかった。
○いま平和観音(※)があるあたりにB29が落ち、翌日、骨を拾いに行って、薦《こも=荒く織った蓆》にくるんで花見堂にいけて(埋めて)おいたが、終戦になってから、アメリカからきた人に喜んでもらった。
※供養の観音様…B29は小俣家(秋津町1-4)の畑に墜落。三十五年に亡くなられた権次郎氏が「敵兵でも丁重に葬らねば」と十一人の米兵を供養し、遺品はアメリカに渡した。
この地には戦没供養と人類の永久平和を願って平和観音様が建立されている。除幕式には、アメリカ側の遺族や関係者が多数参列。日米間外交にも貢献したことになった。
○今、地蔵堂の墓地に供養塔が建ててあって、戦災でなくなった方のお名前があります。
○防空訓練《空襲に備える訓練》もずいぶんやりましたね。群長さんが焼夷弾《高熱 発火で総てを焼き払う爆弾》が落ちてきたら掴み出せなんて言っていたが、本物を見たらそんなことじゃないね。本当に恐ろしいものだ。竹槍を組織したりして、全くの笑い話みたいだね。
戦没者供養のために建てられた平和観音(立河充子氏 提供)

西宿の古老に聞く
『B29の来襲』
○あの戦争のときの空襲のことだが。爆弾は西宿辺りとしては、保生園の前の田んぼに一発落ち
たね。二十年の一月九日昼過ぎだった。保生園のあの川(後川)のとこだけんど、爆弾が東村山
に一番最初に落ちたのがこの空襲じゃないのかね。その後は四月かな。久米川地区に。これは何軒かが爆破され、南秋津にはB29が落っこちた。
○その一月の時だね。向こうからB29が二機来たんだよ。見ているうちに目本の小型機が続いて落ちたんだ。突っこんだんだね。あれは小平あたりの上空じゃなかったかな。それで小平の前の原に落ちたんだ。もう一機のB29は真上を通ったんだ。その時に撃った機関銃のケースが裏の畑に落ちててね。俺、拾ってきて記念にしておいたけど、どこかへいっちゃたね。
○小平に落ちた時、向こうの兵隊がばらばらに落ちてきてね。十何人と言われているね。方々の畑なんかに落ちたんだから。機体もばらばらにね。
○体あたりした小型機の飛行士は立川の航空隊にいたんだってね。まあ、とにかく空襲は嫌だっ
た。空襲警報なんてぞっとしたね。東村山で空襲警報のサイレンが鳴ったのは昭和十七年の四月
が最初だってね。終戦まで随分とあったけどな。
まあ、空襲は嫌たった。
※空襲警報…敵の爆撃機が発見されると警戒警報を発令し、更に接近すると空襲警報を発令して爆撃に備えた。東京に初めて空襲警報が発令されたのは昭和十九年十一月一目であった。
(『東村山市史』通史編下)
秋津の古老に聞く
『南秋津への空襲』
○戦争の時の話になるが、昭和二十年四月二日、下組 (しもぐみ) にB29《米国ボーイング社の大型爆撃機》が落ちてな。B29は一機撃墜されたがその時、民家が一軒焼け、二十三戸が破壊され三名亡くなった。本当にひどかった。
○いま平和観音(※)があるあたりにB29が落ち、翌日、骨を拾いに行って、薦《こも=荒く織った蓆》にくるんで花見堂にいけて(埋めて)おいたが、終戦になってから、アメリカからきた人に喜んでもらった。
※供養の観音様…B29は小俣家(秋津町1-4)の畑に墜落。三十五年に亡くなられた権次郎氏が「敵兵でも丁重に葬らねば」と十一人の米兵を供養し、遺品はアメリカに渡した。
この地には戦没供養と人類の永久平和を願って平和観音様が建立されている。除幕式には、アメリカ側の遺族や関係者が多数参列。日米間外交にも貢献したことになった。
○今、地蔵堂の墓地に供養塔が建ててあって、戦災でなくなった方のお名前があります。
○防空訓練《空襲に備える訓練》もずいぶんやりましたね。群長さんが焼夷弾《高熱 発火で総てを焼き払う爆弾》が落ちてきたら掴み出せなんて言っていたが、本物を見たらそんなことじゃないね。本当に恐ろしいものだ。竹槍を組織したりして、全くの笑い話みたいだね。
戦没者供養のために建てられた平和観音(立河充子氏 提供)

西宿の古老に聞く
『B29の来襲』
○あの戦争のときの空襲のことだが。爆弾は西宿辺りとしては、保生園の前の田んぼに一発落ち
たね。二十年の一月九日昼過ぎだった。保生園のあの川(後川)のとこだけんど、爆弾が東村山
に一番最初に落ちたのがこの空襲じゃないのかね。その後は四月かな。久米川地区に。これは何軒かが爆破され、南秋津にはB29が落っこちた。
○その一月の時だね。向こうからB29が二機来たんだよ。見ているうちに目本の小型機が続いて落ちたんだ。突っこんだんだね。あれは小平あたりの上空じゃなかったかな。それで小平の前の原に落ちたんだ。もう一機のB29は真上を通ったんだ。その時に撃った機関銃のケースが裏の畑に落ちててね。俺、拾ってきて記念にしておいたけど、どこかへいっちゃたね。
○小平に落ちた時、向こうの兵隊がばらばらに落ちてきてね。十何人と言われているね。方々の畑なんかに落ちたんだから。機体もばらばらにね。
○体あたりした小型機の飛行士は立川の航空隊にいたんだってね。まあ、とにかく空襲は嫌だっ
た。空襲警報なんてぞっとしたね。東村山で空襲警報のサイレンが鳴ったのは昭和十七年の四月
が最初だってね。終戦まで随分とあったけどな。
まあ、空襲は嫌たった。
※空襲警報…敵の爆撃機が発見されると警戒警報を発令し、更に接近すると空襲警報を発令して爆撃に備えた。東京に初めて空襲警報が発令されたのは昭和十九年十一月一目であった。
(『東村山市史』通史編下)