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東村山 ふるさと昔語り その5

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通常 東村山 ふるさと昔語り その5

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/27 6:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 多摩湖の古老に聞く

 貯水池

○貯水池は、村山と山口の両方で、昭和九年までかかった。
 上山口と上地と下地と三つで、村山の上堰堤《えんてい=堤防》と下堰堤とが、大正三年起工式があったと記憶している。完成は、大正十四年であった。(注)

 「参考」 
 貯水池工事…大正五年(1916)五月二十三日着工、六月四日地鎮祭、大正十二年七月上貯水池が完成、昭和二年(一九二七)三月下貯水池完成(『東村山市史』通史下)。

○私は、大正七年の八月から工事に従事した。起工式は、大正五年であった。大正七年八月、その時の日給は、四十五銭だった。
O貯水池を造るのに、一番思い出すのは補助道七号線で、ここが砂利道であった時、粘土を今の第三保育園(多摩湖町1-23)、野口町のこっちに粘土が出て、馬にトロッコをつけた「馬トロ」といって、馬が二台ずつトロッコを連結して、その粘土を線路道を歩いて引っ張った。それでこの道を広くした。

 ○ 廻田境(注)の所、学校(第四中学校)のある所、田口喜十郎さんのとこの向こう側(多摩湖町1-23あたりから東側)は、みんな掘った。

 ※ 廻田境・・・野口町と多摩湖町・廻田町の境。

○ミキといって、一番土の下のところの粘土つちは、非常に良い、その粘土に砂利を混ぜて、これを巻き上げて、今の堤防の芯に入れて、これをローラーで積み上げて、一尺(一尺は約三〇センチ)厚めに積み上げたものだ。俗に粘土コンクリー卜と言った。
○日当、四十五銭がほとんどで、五十銭はよく働く人。
○当時、景気が悪くて、農家の人も仕事が少なかった。久米川の人にきくと貯水池の仕事は賃金がよいものだから人があふれてしまうので、五時には起きて出かけたと。
○そのころ、酒は一升、二十銭ぐらいだった。
○私は、大正九年(1920)、日給一円六十銭、十一年には一円八十銭となった(注)

 ※ 話した人は現場で責任を持だされて仕事をしていた。

  軽便鉄道は、東村山の駅からどこまであったのですか。
○駅から出て、鷹の道を通って、清水のトンネルを通って、堤防の下に取水塔があるでしょ、そこを出て、上堰堤の所まで。
 今は清水(東大和市)に移転したが、宅部(ここでは下宅部のこと)と同じ米川神社があって、軽便鉄道はその前を通って、ずうっと田んぼの南側を通り、セメント倉庫があり、そこで、その先の上堰堤を築きあげた。次に下となった。

○「ワッセン」の所で、今でも「ワッセン」と言っている。
O堰堤の土を運ぶのに、下の方には、北側の方の土を取って運び、南側から土を運ぶのには、堰堤の高みの方から運ぶ線が高いので、「上っ線」と言ったのが、いつか「ウワセン」「ワッセン」になったようだ。
○淀橋の(注)浄水場は、東村山に移された。

 ※浄水場跡地・・・新宿西口のビル街と新宿中央公園になった。

 村山貯水池堤防工事 切り崩した土をトロッコに盛る。(細淵源治氏 提供)





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