@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

東村山 ふるさと昔語り その6

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 東村山 ふるさと昔語り その6

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/28 7:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
○村山(貯水池)ができた時、境(武蔵野市関前)の浄水場ができて、村山の水は境に入った。大堀を通ったのは、一部は境に入って、あとは三鷹の駅を通って、和田堀浄水場(杉並区)の方へ入って、今埋め立てられた昔の淀橋の水道道路に入った。
○ここ(多摩湖町一1-17、消防詰所)の下を通っているのは、「伏せ越し」といって、山口から来た水が、一度山の上へ上がって、ここで下がって、田んぼのところで平らになって、また清水さんの所(多摩湖町2-12)で上がってというふうに追ってある(サイフォン方式という)。
○十二段の段の滝(下貯水池の放水路)はきれいだった。
O貯水地のできる前は、洪水《こうずい=河川から水が堤防を越え溢れ出す》の心配があった。堤防がないので、この辺の田んぼは、一面水になった。
○二瀬川も貯水池ができる前は、増水に悩まされた。柳瀬川と合流する所(久米川町5-19付近)で水があふれた。

○六月の田植えの時も、向こう(上宅部)も田でしょ、こっち(下宅部)も田でしょ。足袋がなんぼ流されてきたか、こっち(宅部川・北川)は石川の続きでしょ。
○こっち(多摩湖町三・四丁目)が川北で、こっち(多摩湖町一・二丁目)が川南で、この北川にかかっているのは木橋でしょ。私たちが子どものころは、橋がみんな流されてしまう。
O戦争中に、あの堤防をアメリカ軍に爆撃されては大変と、土手に見せかけるため強固にかさ上げした。

○強制ではないが、堰堤が切れたら大変と疎開の話も出た。私の家は一段高い所にあったが
今三幸タクシーに勤めている浅見さんだけが疎開しなくてよいと言われ、あとは疎開しろと言われた。
○今まで何十年と本家と言ってきたその本家が、「どこへ行って(疎開)しまうんだべえか」と思って、果てしもない苦労をしたものだ。
○二瀬川(久米川町五丁目)で一軒疎開した。役場に行っていた榎本さんという人だ。
○うちの方では、大事なものだけ一段高い所に穴を掘って、防空壕掘って、大事なものを埋めた。
○貯水池ができて恩恵というと、まあ、大水が出なくてよくなったことぐらいかな。それと工事中に働かしてもらって、お金をもらって生活したのが良かったというくらい。
○百姓としては、今この貯水池の水をみなもらい受けた。
○宅部(多摩湖町)の六町五反の田へ水を引くのは、今の宅部川(北川)の日向橋というのがあるが、そこへ堰《い=水量調節の為流れをせき止める堰》を作って、そこで水を溜めて、渇水の時には田へ水を引くようにした。田持ちの人は、みんなで人夫に出た。
 この堰を作ったら、貯水工事がやりにくいという話があって、これを払ってくれれば、替わりに今の宅部貯水池(やけちよ)を作ってやるからということで、それならよいということになって、この堰をオッパラっちゃった(取り払った)。
○門前池というのが、三光院の所(下の貯水塔あたり)にあった。
○堤防の所、その前には田と桑園で三反ぐらいあった。「今日は門前の所の桑を採ってくる」とか「今日は門前の草むしりをする」と言った。
○あの池は田んぼに使った。



  条件検索へ