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東村山 ふるさと昔語り その7

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通常 東村山 ふるさと昔語り その7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/2 7:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 開院後いろいろ

 できた当時は、東京府・埼玉・千葉∴御奈川・新潟・群馬・茨城・栃木・愛知・静岡・山梨・長野各県の(十三府県の)経費負担で経営される病院であったが、昭和十七年に国立病院となった。
 当初は、強制収容に近い状態で入院させており。中には浮浪者・麻薬中毒患者等も含まれていた。
 土地の人でも正月・盆でないと米の飯は食べられなかった時代であり、面会人はあまりなかった。
 近所には東京見物と言いながら、身内の患者に食べさせてくれと、はるばる新潟から米を背負って来た面会人もあったという。東京見物とは表向きで、らい病院の面会は、家人にも内緒であったのであろう。
 戦争中はI日にらっきょう二個、梅干くらいのおかずしかなく、また包帯もなく着物を裂いてその代わりとし、医者もいず、薬もなくて毎日のように川島さんは医者の代理をしたこともあったという。

 全生国病院事務所と治療所 (明治42年ごろ)  (市川家提供、ふるさと歴史館蔵)

 時代の流れと共に、忌み嫌われていた全生園も、医者のあまりないころに周りの人々の面倒までみた院長光田医師の努力や、大正十五年から始まった農産物品評会に昭和二年に近村からも出品を募り、交流し、開院三ケ月から始まった「二輪加」《にわか=即興的な(俄)》芝居上演が発展し、全生座歌舞伎などによって上地の人々にも親しまれるように変わっていった。

 娯楽のなかった大正当時、年二回ほど東村山に来る旅回りの芝居は、木戸銭が五銭もしたが、人院していた歌舞伎役者が指導した全生歌舞伎は、春秋二回無料であったので、二日間で二千から三千人の観客が外部から押し寄せたという。特に実の親子が名乗れない「阿波の鳴門」の「どんどろ大師前の場」では、患者さんたちは我が子、我が母を思い出し、号泣し、いつも大当たりをとった演題であったと言われる。
 変わった話では、柳瀬村の城(現所沢市内)の「へんじょう大尽」の活か伝わっている。
 らい病の乞食を物置においてやり、面倒を見てやった、へんじょうさんの嫁さんに、乞食が死ぬ間際に「何か食べたいものはないか」ときかれ、「何も食べたいものはないが、あねさんのチチが飲みたい」と言ったところ、「チチを飲むなんて、わけないじゃないか」といって飲ませてやったという。すると、その乞食は「実は自分は大阪の鴻池(財閥) の若旦那だが……」と言って、寝床の下に置いてあった当時(大正?)の金で何万円もの全をくれて死んだという。この金て土地を買ったりして、へんじょうさんは、大尽と言われるようになった。今でも所沢にいると言われる。
 嘘か真か知らないが、心温まる話である。

 「参考」 全生園のことは、全生園で発行されている「多磨」 1967年七月号に川島氏が「多磨全生園創立前後の思い出」を書かれている他、多磨全生園患者自治会編の「倶会一処」、全国ハンセン病患者協議会編の「全患協運動史」(共に一光社から出版)に詳しい。


 野行・野際の古老に聞く

 多磨全生園

 東村山の歴史の中で大事なものに多磨全生園のことがある。今年創立七十周年を迎えた。同園の誘致は明治四十二年である。当時村会の有力者が坪九十銭で用地を買収し、東京府には一円八十銭で売ったという。久米川の農家は全生園の方に土地を持っている人が多く、そのやり方に憤慨して「病院が設置されると、大量の病菌で付近の農作物は売れなくなり、百姓はだめになる」という理由で反対した。東京府の役人が現地に来た時、暴動化して怪我をさせてしまったという。


 野口・本町の古老に聞く

 本 町

○明治から昭和初期までは、大部分が農耕地であり、商店としては拓銀前の現在の東原商店(本町2-17)の場所にヘイキさんという団子屋がただ一軒ありました。
○駅の東側には、患者専用のプラットホームと家があり、全生園に入院のための特別列車で輸送されてきた人が下車。家は小休止のために使い、そこから人力車で病院に運ばれました。


西宿の古老に聞く

○多磨全生園ができたとき、みんな一揆《いっき=徒党を組んで武装蜂起する》というか大騒ぎだったんでね。立川伊兵衛さんが村長の時ね。癩、ハンセン病というか。あの時分は大分、反対があってね。近くの山のくず掃きの、くず葉の中に村長さんが隠れたりしてね。あれ、川村らが親父をかくまったとか。「そういうのが来なかったか」ときかれ、「見なかった、そんなのはいねえよ」とかくまったという話だね。
O村長さんの家やなんか石が投げこまれたらしいね。筵旗《むしろばた》をおっ立って反対派の連中なんかが警察へね。野行の人なんかね。
○ありゃ、合同して設けたじゃないのかね。まあ、反対もあったけどやはり、病院ができちゃってね。それで東村山駅近くの仲さんの家の向こうに患者さんの一時収容舎があって、専用車で降りて一旦休んですぐ人力車で入院したんでね。もう、何年も前の遠い過去だね。



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