東村山 ふるさと昔語り その7
投稿ツリー
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東村山 ふるさと昔語り はじめに (編集者, 2007/6/23 7:36)
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東村山 ふるさと昔語り その1 (編集者, 2007/6/23 7:40)
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東村山 ふるさと昔語り その2 (編集者, 2007/6/24 8:02)
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東村山 ふるさと昔語り その3 (編集者, 2007/6/25 7:28)
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東村山 ふるさと昔語り その4 (編集者, 2007/6/26 8:01)
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東村山 ふるさと昔語り その5 (編集者, 2007/6/27 6:52)
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東村山 ふるさと昔語り その6 (編集者, 2007/6/28 7:31)
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東村山 ふるさと昔語り その7 (編集者, 2007/6/29 7:45)
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東村山 ふるさと昔語り その7 (編集者, 2007/7/2 7:29)
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東村山 ふるさと昔語り その8 (編集者, 2007/7/3 8:55)
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東村山 ふるさと昔語り その9 (編集者, 2007/7/4 7:42)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

多磨全生園(1)
川島盛昇氏に聞く
川島氏は大正七年(1918)~昭和三十三年(1958)まで全生園に勤務、看護科長などを務められた。
全生病院設置反対騒擾事件
昔かららい病として恐れられ、最近はハンセン病《注》と呼ばれ、全国十三か所ある病院の草分け的存在となったのが多磨全生園である。
明治四十年にできた「らい予防法」に基づき、療養所が東京府荏原郡目黒村に建設されようとしたが、村民の反対に遭い、田無、清瀬と三転し、ついにはこの東村山に飛び火してきた。その時に起きたのがこの事件であった。
土地は大岱原と呼ばれ、家は一軒もなく、土地はやせており、追い剥ぎの出るようなこの地、東村山村大字南秋津字開発に白羽の矢が立ったのが、明治四十二年二月。
土地は坪当たり(一坪=3.3平方メートル)一円八十銭で買い上げられたと言われ、一部地主の巨額の利益が風評にさらされる結果となった。
周りの農民は、一銭の得にもならず、それどころか、恐ろしい病気が隣に引っ越してくる。移ったら(伝染したら)大変だ。農作物は売れなくなるだろう……ということで騒ぎ始めた。久米川宇野行(現久米川町一町目)の住人だけでなく、久留米村字下里の住民もこれに加わり、寺などに集まり、対策を練ること幾十回。死活をかけたこれだけの反対があるのに、何故か村議会は療養所の位置変更の請願《こい願う》を無視し、それどころか「病院設置を全会一致で喜んで可決」してしまった。久留米村では全会一致で設置に反対の決議をしているのに。この違いはたぶん多額の金が動いたのではないか……と想像されるが、詳しいことは定かでない。今もって、この件に関しては「野行」の人は黙して語らずという。
そういう農民の反対運動が起きている中の、二月二十七日に東京府内務部長堀伝次氏・慰廃園代表(※)和田秀豊氏などが、立川伊兵衛村長に案内されて来た。その一行に鍬・天秤・梶棒などを持って襲いかかったのである。堀内務部長は血まみれになり、高橋庶務課長は倒れて人事不省に、立川村長は腕を折られたという。和田園主は当時の金で十五円あげるから助けてくれと言ったところ、「俺たちは金のためにやっているのではない」と一蹴されたという。そして空堀の中を逃げぬき、所沢警察に通報。急を聞き、駆けつけた所沢及び田無の警察によって、今で言う公務執行妨害で逮捕されたのは八十数人に上ったという。
(※)和田秀豊氏・:目黒村に開園した好善社の慰廃園病院理事長、宣教師。
そして、即八王子刑務所に送られ、その反対派の人々のいなくなったところで突貫工事に入り、事件から七ケ月後の九月二十八日には全生園の開院式まで行われたという。何という早業か。
「参考」
判決言い渡しのあとの裁判長の訓戒…「被告人一同は何れも立派な農民なり。偶々療養所問題起こり、之に反対せしは犯罪ならねど、官吏に抗議し傷害を加へたるため法律上の責任を免れざるに至れり。今無罪となった者及び刑の執行猶予を受けた者は将来農業に励んで、再び法律に触れぬようにすると共に、入獄と定まった者の家事を助けられたし」(第二沢『東村山市史』、昭和四十六年刊)731ページ参照。
注.
癩菌の感染により起こる 慢性伝染病
川島盛昇氏に聞く
川島氏は大正七年(1918)~昭和三十三年(1958)まで全生園に勤務、看護科長などを務められた。
全生病院設置反対騒擾事件
昔かららい病として恐れられ、最近はハンセン病《注》と呼ばれ、全国十三か所ある病院の草分け的存在となったのが多磨全生園である。
明治四十年にできた「らい予防法」に基づき、療養所が東京府荏原郡目黒村に建設されようとしたが、村民の反対に遭い、田無、清瀬と三転し、ついにはこの東村山に飛び火してきた。その時に起きたのがこの事件であった。
土地は大岱原と呼ばれ、家は一軒もなく、土地はやせており、追い剥ぎの出るようなこの地、東村山村大字南秋津字開発に白羽の矢が立ったのが、明治四十二年二月。
土地は坪当たり(一坪=3.3平方メートル)一円八十銭で買い上げられたと言われ、一部地主の巨額の利益が風評にさらされる結果となった。
周りの農民は、一銭の得にもならず、それどころか、恐ろしい病気が隣に引っ越してくる。移ったら(伝染したら)大変だ。農作物は売れなくなるだろう……ということで騒ぎ始めた。久米川宇野行(現久米川町一町目)の住人だけでなく、久留米村字下里の住民もこれに加わり、寺などに集まり、対策を練ること幾十回。死活をかけたこれだけの反対があるのに、何故か村議会は療養所の位置変更の請願《こい願う》を無視し、それどころか「病院設置を全会一致で喜んで可決」してしまった。久留米村では全会一致で設置に反対の決議をしているのに。この違いはたぶん多額の金が動いたのではないか……と想像されるが、詳しいことは定かでない。今もって、この件に関しては「野行」の人は黙して語らずという。
そういう農民の反対運動が起きている中の、二月二十七日に東京府内務部長堀伝次氏・慰廃園代表(※)和田秀豊氏などが、立川伊兵衛村長に案内されて来た。その一行に鍬・天秤・梶棒などを持って襲いかかったのである。堀内務部長は血まみれになり、高橋庶務課長は倒れて人事不省に、立川村長は腕を折られたという。和田園主は当時の金で十五円あげるから助けてくれと言ったところ、「俺たちは金のためにやっているのではない」と一蹴されたという。そして空堀の中を逃げぬき、所沢警察に通報。急を聞き、駆けつけた所沢及び田無の警察によって、今で言う公務執行妨害で逮捕されたのは八十数人に上ったという。
(※)和田秀豊氏・:目黒村に開園した好善社の慰廃園病院理事長、宣教師。
そして、即八王子刑務所に送られ、その反対派の人々のいなくなったところで突貫工事に入り、事件から七ケ月後の九月二十八日には全生園の開院式まで行われたという。何という早業か。
「参考」
判決言い渡しのあとの裁判長の訓戒…「被告人一同は何れも立派な農民なり。偶々療養所問題起こり、之に反対せしは犯罪ならねど、官吏に抗議し傷害を加へたるため法律上の責任を免れざるに至れり。今無罪となった者及び刑の執行猶予を受けた者は将来農業に励んで、再び法律に触れぬようにすると共に、入獄と定まった者の家事を助けられたし」(第二沢『東村山市史』、昭和四十六年刊)731ページ参照。
注.
癩菌の感染により起こる 慢性伝染病