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特攻インタビュー(第8回)・その14

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通常 特攻インタビュー(第8回)・その14

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/6/4 6:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ◆特攻出撃三十分前 3

 --------大阪のご家族の安否を確かめることは出来なかったのですか?

 粕井‥はい、確かめる術はありませんでした。終戦で帰ったら家があって、私の所のちょうど一角が焼け残っていました。

 --------同期である13期飛行予備学生の戦死者は多かったのですか?

 粕井‥相当、戦死しました。13期予備学生の戦死者は1616名……。航空隊のことですから、あちこちに飛んだりするでしょう。そうすると、T?あ、貴様、生きてたか」、「おう、まだ生きてるぞ」、「そういえばな、俺とこの分隊のあいつも死んだ、あいつも、あいつも死んだ」、「お前、あいつ知ってるか」、「知ってる、知ってる。あいつ、よう飲んでん」、「あいつも死んじゃった」とか。ポツリポツリと欠けていくわけです。

 --------特攻で亡くなった同期生も多かったそうですね。

 粕井‥相当おります。1616名の戦死者のうち特攻で戦死したのが448名で、その数は海軍士官特攻の56%に及びます。
 私が一番親しかった碓本守(うすもと まもる)は、私か詫間から人吉に転勤する時、詫間に残ることになりました。彼の実家は滋賀県でしたから、「たまに帰れるかもしれんわ。ええことしたな」というようなことを言いました。彼とは、日曜日によく一緒に高松まで飲みに行きました。汽車一本遅れたら走って帰らないと間に合わない。それで、飲んでから4キロ走ったりしましたが……昭和20年4月に、九四式水偵で特攻出撃しました。また、硫黄島で死んだ早瀬豊は拓殖大学柔道部の主将で、たまたま硫黄島に飛行機で行って、帰りの便がなくなってそこで死んだそうですが、真相はいまだにわかりません。

  --------「軍隊は運隊」と言いますが、今のお話しをうかがうと改めてそう思いますね。

 粕井‥そうです。本当に運です。だから、戦闘機に行ったから危ないとか一概に言えません。昭和19年に飛行要務士というのができました。搭乗員として採用されても、やはり、向いていないという連中が出たんです。ですが、せっかく採った連中をこのまま辞めさせるのはもったいないということで飛行要務士ができた。

 飛行要務士というのは、どういう仕事かというと、搭乗員というのは出撃したらすぐ死んでしまうから、継続した記録を残したり、準備や後始末ができないわけです。例えば、人事一つでも、その搭乗員が部下の人事を担当していても、そいつが飛んで行って亡くなってしまったら、彼のやった仕事が全然わからなくなってしまう。そういうわけで、戦闘記録や人事記録などといった仕事をするのが飛行要務士です。今のクラブ活動でいうマネージャーみたいなものです。一見すると飛行機に乗らないから、生命は助かるだろうと思っていたら、案外これが航空母艦に乗ったりして死んでしまっているんです。

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