特攻インタビュー(第8回)・その15
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特攻インタビュー(第8回) (編集者, 2013/5/17 6:31)
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編集者
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◆特攻隊の解散
--------8月10日の出撃中止命令から終戦までのことをお聞かせ下さい。
粕井‥終戦の日は何か発表があるということで、士官は士官官舎で分散してラジオを聞いていました。聞きにくかったですが、どうやら負けたらしいというわけ……。何か、うつろになりましたね。張り切ってというか、死を覚悟して毎日待機していたのに、目標というか、生きがいというか、そういうのがパッとなくなったような……。
それから、いろいろな噂が出てくる。朝鮮半島の元山航空隊では、「搭乗員全部集まれ」というので集まったら、飛行場へ整列させて機銃で全員撃たれてしまったとか。あるいは、ソ連が皆を拉致したとか……。それから厚木航空隊ではビラを刷って、「われわれは絶対徹底抗戦する」というようなことをやったとか。それから、どこかの司令長官は沖縄へ彗星艦爆で突っ込んだとか。いろんな情報が入ってくるわけですが、どれを信用していいのやら。それからアメリカがやってきて特攻狩りをやるとかやらんとか……。
そのうちに、確か昭和20年8月18日だったと思います。「乾龍」特攻隊は解散になって、「各自命あるまで自宅待機せよ」ということになりました。とにかく、搭乗員は先に帰れというので、私は特攻機となっていた九三中練機で大分基地まで飛ぶことにしました。後席に出撃時のペアだった野地二飛曹を乗せ、他に2機も同行して3機編隊で司令部があった大分まで飛んだんです。そこで燃料補給と一晩泊まるぐらいしてくれると思っていたら、大分の方が先に解散していて誰もいないんです。大分では小学校に分散して宿舎にしていたから、そこへ行ったら、「兵隊さんが残してくれた米が少しあります。おむすびでもっくりましょう」と言ってくれて、一緒に来た連中に持って帰りました。翌日、同行した2機と別れて、私は岩国に飛んで陸軍航空隊に燃料補給を頼んで、その後、広島の方に行こうと思ったんです。ところが、広島はひどいことになっているらしいし、飛行機の整備も頼りないから、呉市の南を通って大阪へ帰ることにしました。
ところが、呉あたりまで飛んだら、エンジンがプスプスいって回転が落ちてきました。野地二飛曹に「手動ポンプを押せ」と言いましたが駄目で、ちょうど、空き地が見えましたので、その空き地に「不時着するぞ」と言って、着陸しました。そこは、陸軍か海軍の飛行場だったようで、ドライバーが見つかりましたのでエンジンカバーをこじ開けたんです。そしたら、燃料濾器(ねんりょうこしき)がペシヤンコに歪んでエンジンに燃料が注入しないわけです。
それで、「もう、濾器なんか放っておけ」と、そのまま離陸して、西明石あたりの飛行場らしい空地に着陸しました。そこで飛行機を捨てて、落下傘など身回品りを大八車に積んで駅まで行って、上りの列車に乗って大阪駅に帰りました。野地二飛曹とは大阪駅で別れて、私は梅田から市電に乗って実家のある上本町まで来たら、周りは焼け野原なのに上本町だけ残ってますやん!それで、「ああ」と思って家の方に歩いたら、家のある一角が焼け残っておりました。もう夕暮れ近くになっていました。家に着いたら祖母が出て……私、改名する前の名前は「完(たもつ)」と言うんです。今は戸籍名も貫次に変えていますけど……「おう、たもつか、たもつか」と。
--------飛行機で実家の近くまで帰ってきたというのは珍しいのではないですか?
粕井‥いや、いろいろいます。例えば和歌山の連中なんか、紀ノ川の川原に不時着して、そこから家帰ったとか。大分では司令部が解散していましたけれど、南九州などの各基地から降りてくる飛行機が後を絶ちませんでした。そして、「あんた、どこまで帰んのん」、「ここから家帰る」、「飛行機いりませんな」、「いらない」、「じゃ、私にください」と言って操縦したこともない飛行機を、「これ離陸何ノットですか」、「着陸何ノットですか」、「巡航は何ノットですか」、「ガソリンはどれぐらいありますか」と聞いて飛んで帰った者もいました。当時、国鉄も復員と言ったら、もうノーパスで乗せてくれたり、あるいは、イモ判を押して、「帰郷につき、便宜よろしく頼む」と書いたガリ版刷りの証明書みたいなものを持って行ったら、全国どこでも通用したというような時代です。日本国中、混乱していましたから。
--------ある予科練出身の方のお話では、終戦で生きて帰ってきたことが恥ずかしく、親戚の家にいて、実家や知人の目をしばらく避けていたということですが。
粕井‥そういう人はいたでしょう。予科練生は若いだけに非常にまじめでしたから……。中には、昔の中学校や母校へ復帰した予科練生かいばって、「気合入れたる」と言って下級生をぶん殴ったりしたような者もいましたから、人それぞれでしょうが。