@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2014/1/22 20:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 スタッフより

 この投稿は、
  大 口 光 威 様
 のご了承を得て転載させていただくものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    
 目  次

 はじめに

 一、軍都・村松から学都・村松へ

 二、村松少通校の教育
     村松と私、思い出す値に    
        教官 渡部 善男

 三、関係者から寄せられた村松の思い出
    
     追   憶             
        十一期四中隊一区隊 石綿 光   

     少年兵の回想          
        十二期七中隊二区隊 山本 内良二

         
     コウリャン飯と米の飯      
        十三期二中隊三区隊 北原 秀信

     私の三月十日           
        十一期三中隊二区隊  北川 武男

     終戦前後の村松少通校     
        十二期五中隊三区隊 橋本 雅吉

     少通校における思い出      
        十二期五中隊一区隊 佐藤嘉道

     父から息子へ、姉から弟へ    
        十二期六中隊四区隊 大口 光威

     サヨナラ電車・私の青春      
        村松町  小島 ヒサイ

     生徒日誌               
        十二期八中隊四区隊 芦田 慶作(旧姓中村)

     日誌から               
        十三期三中隊三区隊 高 橋  誠

  四、悲惨だった十一期生の運命
    多感なる少年期の過大な代償   
        十一期二中隊四区隊 高市 正一

  五、慰霊碑の建立

     宿願を達成して           
        教官 本川 葉書

     十年祭                
        遺族 松谷千代

  六、高齢化による慰霊祭の中断、とその復活(「守る会」の誕生)

  七、結びに代えて

  (付録) 村松少通校校舎の配置図と、その解説
    校舎配置図について 

  (誘われるままの思い出)       
        十二第五中筐一区艦 大牧 富士夫

   あとがき

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/23 8:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 は じ め に

 村松の、そして 「戦没陸軍少年通信兵の慰霊碑を守る会」 会員の皆様、お元気でいらっしゃいますか。先ず以て、日頃、皆様が私共の戦没先輩が眠る 「村松碑」 にお寄せ下さる温かいお気持ちに対し、心からの敬意を捧げ、感謝を申し上げます。

 さて、今回、本誌に収めましたのは、題名からもご推察頂けますように、先の大戦末期の昭和十八年末から翌々年の終戦まで、ご当地に置かれていた村松陸軍少年通信兵学校の関係者が綴った「心のふるさと・村松」に寄せるエッセイの類です。

 歳月の経つのは早く、戦後も六十八年ともなりますと、当時のことをご存知の方々は、そう多くは居られません。しかし、今日、私達が当然のように亭受しておりますこの平和な生活も、その蔭には犠牲になって亡くなられた多くの方々があり、それらの悲惨な足跡は、絶対に風化させてはならない、戦争の悲惨さと平和の尊さ有難さを伝える貴重な史実だと思います。

 この点、私共二人は、これまでに「村松の庭訓を胸に」、「西海の狼、穏やかに」、「鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ」の三誌を刊行することによって、「村松碑」 に眠る戦没先輩の足跡の顕彰に努めてきました。

 而して、本誌は、これまでのものとは少し観点を変え、当時、村松少通校に学んだ生徒達が、どの様な気持ちで少年兵を志願し、どの様な教育を受けたか、また、それらを通じて彼らが戦後もどのような思いをこの学校や村松町に対して抱いて生きてきたか等を、当時の町の様子も含めて明らかにしたものです。

 何せ、古い文献からの抽出が主であり、私共の気持ちが何処まで盛り込めたか判りませんが、本誌によって、「守る会」 の皆様をはじめ現地にお住いの多くの方々の「村松碑」 に寄せて下さるお気持ちを更に深めて頂ければ、これに過ぎる喜びはありません。

 平成二十五年十月秋

 元・村松陸軍少年通信兵学校
     第十二期生徒 大口 光威
     第十二期生徒 佐藤 嘉道
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/24 8:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 一、軍都・村松から学都・村松へ

 
  「浜田か、鰯江か、村松か、飛ばされそうで気にかかる」---皆様は、かってご当地・村松が、その地理的、気象的条件から、島根の浜田や福井の鯖江と並んで、陸軍士官候補生達の赴任先として怖れられ、敬遠された土地柄であったことをご存知でしょうか。
 村松は、明治二十九年九月に新発田から歩兵三十聯隊が移駐して以来終戦まで略半世紀に亘って軍都としての歩みを続けましたが、その掉尾を飾ったのが村松陸軍少年通信兵学校(村松少通校)でした。

 当時、戦局は、既に開戦当初の勢いは消え、十七年六月のミッドウェー海戦の敗退を契機に、ガダルカナル島からの撤退、アッツ島守備隊の玉砕等々、既に末期的な症状を呈し始めていたのですが、国民はこれを一切知らされることなく、反対に軍当局は負け戦によって不足した兵員の補充に躍起になり、このためには、学校、新聞、雑誌、ラジオ、映画など、あらゆる手段が動員されました。そして、多くの少年達は、祖国存亡の危機を前にして、幼くはあっても「今、自分達が身を捨てて国を護らなければ」の一心で、競って各種の少年兵を志願し、少年通信兵もその一つでした。

 而して、戦局の急迫に伴い、それまで東京東村山にあった少通校は更に一校増設することになり、昭和十八年十月、此処・村松に誕生したのが村松少通校です。以後、同校は終戦までに少年生徒を迎えること三回、十一期から十三期まで夫々八百名ずつの延二千四百名を数えました。そして、後で述べますように、このうち、最も悲惨な運命を辿ったのが十一期生でした。思えば、その時、彼らは十六、七歳。今時なら春秋の甲子園で青春を謳歌している球児と同じ年頃です。それなのに、彼らは国の為と思えばこそ、その短か過ぎた青春の総てを犠牲にして村松少通校で学んだ庭訓を胸に勇躍出陣して行ったのです。

 二、村松少通校の教育

 ついては、これらの話を進めるに当たって、私は冒頭に、同校では彼らに対しどの様な教育が、どの様な仕組みや考え方の下に行われていたかについて、先ず、当時教官(区隊長)として十一期生と十三期生の指導に当たられた渡部善男氏の文章を掲載します。
 
 本稿は、生徒を教えた側、即ち、学校当局側の考え方や姿勢を明らかにした数少ない貴重な資料であり、また、其処には、生徒とは違った目で見た当時の村松町の様子も描かれていて、これを読む私共にも一層懐かしい思い出が建ってきます。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/25 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  村松と私、思い出す健に
    ―――「回想・私の昭和」より抜粋
              教官 渡部 善男

 一.東京少通校から村松少通校へ その1

 昭和十八年九月下旬になり「村松陸軍少年通信兵学校生徒隊勤務を命ずる」 の辞令を受けた。新潟県村松町に在る、新しく出来る村松陸軍少年通信兵学校に行けと言うのである。少通校からは将校では生徒隊長の渡辺利興中佐と私だけだった。渡辺中佐は新しい学校の生徒隊の基礎を作るために赴任することは判るが、私は六月一日に来たばかりで漸やく生徒の顔も覚えたのに転任とは残念だった。それに村松とはどんな町であるか、学校施設はどうなっているのか何も知らないので不安だった。
 然し、南方では戦争をしているのに内地での転任に不平が言えるものではなかった。

 発令されたからには早く出発しなければならぬと思い準備にかかった。
 家財道具と言っでも将校行李と布団と衣類の他は小さな食卓と食器ぐらいであった。妻は近くに住む叔父に荷造りを頼むから先に出発するよう言うので、私は単身武蔵野を後にした。

 上野駅から上越線で加茂駅に降り、蒲原鉄道に乗り替えて村松駅に着いた。駅から少し歩いて左に曲り、住民に聞いて兵営の方に三十分も歩いて突き当りが、旧歩兵連隊の正門だった。正門を入ると左側に衛兵所が在り衛兵の敬礼を受けた。私の前に拓けた営庭(校庭)は青森の電信第四連隊と似ていたがそれよりも広いと思った。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/26 6:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 一.東京少通校から村松少通校へ その2

 次の日から中隊に通ったことになるが、将校では私が内地からなので一番早く、中隊長の久保友雄大尉(陸士五十一期)はフィリピンの歩兵中隊長から、中隊附将校の森山正蔵中尉(陸士五十四期)は北支の師団通信隊から、第一区隊長の押目先一中尉(陸士五十五期)はフィリピンの電信連隊から、第二区隊長の瀬崎栄之助中尉(幹候五期)は中支の歩兵連隊から、私は第三区隊長で、第四区隊長の小川延男少尉(幹侯六期で私と同期)は満州佳本斯の歩兵連隊から、夫々数日中に着任した。

 人事係准尉を始め、曹長以下の下士官や衛生兵なども逐次着任して第四中隊幹部は出揃った。
 将校集会所で毎昼食をしたが一日毎に将校が着任した様子など記憶に無い。校長の高木正實大佐は国立病院から着任したのだし、生徒隊長の渡辺利興中佐は東京少通校からだから早く着任した筈である。昼食の席は階級順に並ぶのであるが、私はいつも末席であるので少尉が十数人居ても同期が誰であるか通信兵以外は初対面であるので判らなかった。

 宿舎は学校から三十分、駅から歩いて十分の町役場に近い大手町の伊藤重吉と言う銀行支店長の二階八畳間二室が準備してあった。
 二~三日後、妻が荷物を纏めて送ったあと来た。妻は町の様子を見て買物には便利だと喜んだ。それに二階の八畳二間は二人だけの生活に充分だった。

 後で判ったのだが、村松町は連隊の在る町では最も小さい方で将校仲間では「浜田か鯖江か村松か飛ばされそうで気にかかる」と言われていた。青森の電信第四連隊の様な官舎も無く校長や生徒隊長は町立住宅が用意されていたが、中隊長以下の将校は民家の借家か間借りであった。独身将校は戦時下で閉店した料亭に四~五人宛下宿することになった。芸者が女中になって食事の世話をするのでむしろ羨ましいと笑ったりした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/27 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 二.十一期生、八百名が入校 その1

 一週間ばかり経って、校長以下将校、軍属(教授)下士官、兵、地元雇用人が整って、十二月一日の入校式に向けて諸準備をすることになった。

 兵営と練兵場は旧歩兵連隊であるから、そのまま使えるし、兵器、機材等も通信兵監部の動員室あたりで予め準備してあると見えて整っていた。将校は差し当って教育訓練も無いので練兵場の芝生に寝転んで戦場帰りの休養と言う人なども居た。

 将校集会所では毎日昼食を共にするので少尉は十人も居たが、その中で通信学校幹部候補生時代の同期に本間恭司と木下沢行が居た。その他は歩兵連隊出身者だと思った。

 中隊は第一中隊から第四中隊までで、各中隊は四ケ区隊編成であったが各中隊の第三、第四区隊長は少尉で幹候六期であることが後で判った。幹候五期は瀬崎中尉のように去る九月一日に中尉に進級したばかりだった事も後で判った。

 昭和十八年十二月一日、村松陸軍少年通信兵学校に生徒八百名が入校した。生徒は全国から数倍の試験を突破して合格した十五歳から十七歳の少年であった。
 村松少通校は歩兵連隊の跡に十月に開校したばかりなので生徒は同校の一期生であるが、少年通信兵生徒は昭和八年から始まっているので第十一期生となる。

 第九期生までは陸軍通信学校の生徒隊で教育したが昭和十七年十二月一日入校の第十期生からは新設の陸軍少年通信兵学校 (現在の東京都東村山市)で教育を行なうことになった。ところが、昭和十八年十月一日に新たに村松少通校が開校したので、今迄の少通校を東京少通校と称し、両校の新入生は第十一期生となす、十二月一日には両校に各八百名が入校した。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/28 7:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 二.十一期生、八百名が入校 その2

 村松少通校では午前十時から同校の校庭で入校式が行われた。生徒は前日に予行演習を行っていたので、第一中隊から第四中隊まで整然と並んだ。生徒は入校前に中学校か青年学校で軍事教練を受けているので昨日軍服を着たばかりの生徒とは思われない程立派であった。                                                         
 当時、海軍では予科練と言われて少年飛行兵が国民に広く知られていたが、陸軍では少年通信兵が十年前から発足しており他に少年戦車兵もあった。太平洋戦争が始まり国内は軍事色が強くなり、少年達は親に隠れても志願し、合格により親の反対を押し切ってでも入校した。

 校庭の東側に並んだ各中隊の中央前に渡辺生徒隊長と鈴木副官が位置し高木校長の入校命令下達と訓示を受けた。
 高木校長は「陸軍少年通信兵生徒八百名の入校を命じる」 と入校命令下達後 「諸君は本日より皇軍の一員である。責任を重んじ、実行を尊び、任務は捨て身で果せ、が本校の校訓である。この校訓を守り教育訓練に励まれよ」 と訓示した。

 続いて初度巡視で臨席していた川並密通信兵監が訓辞した。
 生徒に付添って来た父母達は、入校式の模様を校庭で見ていたが、立派になった我が子の軍服姿を見て、安心すると共に前途に一抹の不安を抱いたのではなかったろうか。

 中隊の舎前で中隊長が訓示をし、各区隊毎に記念写真を撮ったあと区隊長が生徒に対して挨拶をした。
 この目から区隊長と五十名の生徒は生涯忘れることの出来ない縁で結ばれたのであった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/29 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三.生徒の教育計画  その1

 生徒の教育計画は、生徒隊で作り、各中隊に示すのであるが、中隊では中隊附将校の森山中尉が細部計画を作って四人の区隊長に示した。教育内容は学科は教授による国語・歴史、数学・物理、電磁気学等と術科は通信修技、体操・武道と通信機の取扱い等があった。訓練は各個教練、分隊教練、通信所の建設と勤務、通信演習、行軍、遊泳演習、歩哨勤務等多岐に及んだ。

 また内務勤務は主として区隊附の二人の班長が行った。中隊長は毎週月曜日の朝一時間通信講堂に中隊全員を集めて講話を行った。

 生徒は毎日ノートに日誌を一頁づつ記し、十日に一度区隊長の点検を受けるのであるが、疲れて寝る前に日誌を記すことは大変だと思ったが、五十人の日誌を読んで、必要な感想や励ましの言葉を記入することは区隊長も大変だった。一日五人分を点検しても五十人分を読むには十日かかる。毎日当番生徒が五冊のノートを将校室の区隊長の机の上に置いて行く。区隊長は教育訓練の合間にそれを読んで、必要な所見や指導事項を朱筆で書くのである。この日誌は生徒も苦労したと思うが、区隊長も生徒の考え方、能力、実情を知る上に貴重な存在であると思った。


 通信修技

 陸軍少年通信兵学校は通信兵の下士官を養成する学校であるので、約二年間の教育を終了して卒業し、陸軍兵長となり各部隊に配属され、六カ月後には陸軍伍長に任官する。卒業直後から通信所の要員として通信連絡の軍務に就くのであるから通信技術が最も重要である。通信修技については既修者と言って電報電話局や郵便局ですでに通信の仕事をしてきた人と未修者と言って全然通信の技術を持っていない人が居ったが、少年兵は高二卒か中二終了の十五才から十七才ぐらいまでの人であるから殆ど通信技術の未経験者である。したがって最初から全員モールス符号を電鍵で打つ練習を反覆練習することによって一分間に相当数の文字を打てるようになり電報の送受信が出来るのである。実際の交信はモールス符号を暗号文にして送受信するのである。通信修技の教育は各中隊の下士官が区隊毎に行った。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/30 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三.生徒の教育計画 その2

 体操 

 十五才から十七才ぐらいの少年の体格、体力は未完成であるから体操は重視する。体操は徒手体操から、駈け足、鉄棒、騎馬戦、棒倒し、など中学生時代と同じような内容ではあるが選ばれた少年兵という意識もあり騎馬戦、棒倒しなど勇ましい。また駈け足は体操の時間以外に、週番士官が非常呼集をかけて中隊全員を校外の路上を隣りの町まで往復八粁ぐらいを走らせた中隊もあったそうだが、私の第四中隊は一度もそんなことは無かった。ただ、私の区隊の班長が、私の退校後に生徒を校庭何周などの鍛え方をしていたことが後で判って、私が注意したことがあった。生徒の教育訓練は、軍隊の悪弊である私的制裁的なことをしてはいけないと東京の少通校時代から校長に厳しく言われていた。

 体操の中に入るがスキーの教育も行った。村松町は雪の多い所であるからスキーには適していた。私は鶴岡工業学校在学中にスキー行軍、スキー競走の選手などの経験があるので、当時のスキーとスキー靴などを取り寄せて復習し、生徒を教育した。雪の降らない関西や四国、九州出身生徒は苦労したが、また楽しんでもいた。

 武道

 武道は銃剣術を行った。私は鶴工時代剣道部で五年間剣道を習い五年生の時は剣道二段大将(首将)であり、陸軍通信学校幹部候補生隊では銃剣術の試合で区隊で優勝し、幹候隊で優勝(二百人中一位)していたので銃剣術の教育には自信があった。

 因みに、村松少通校の将校団剣道試合で優勝した。決勝戦は同期の区隊長柴田行夫と小野寺良夫の両君とリーグ戦を行い私が優勝した。両君とも中学時代は剣道部の主将であったようだった。

 一般教養

 生徒は将来下士官として通信兵の幹部となるので一般教養を重視した。中隊長の訓話を始め、普通学科の教育があった。国語、歴史、数学、物理は陸軍教授が教育し、電磁気学等の専門学科は幹侯出身の将校が担当した。東大卒の須藤中尉、高等工業卒の小林中尉などが居た。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/31 6:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 四.生徒の外出  その1

 入校以後二カ月ぐらいで生徒の外出が許された。入校以来、父母などとの面会は休日には所定の時間内に生徒集会所で行われていたが、校外に単独で外出できたのは二カ月後であった。

 生徒は外出用の服装に着替え、帯剣して校舎前で週番士官の注意の話を聞いたあと守衛所を出て道路を歩いて町に出、真っ先に写真屋に行って写真を撮った。父母始め郷里の人々に送るのである。そのあとは村松町には映画館は無かったので、どこに行ったかは今でも判らないが、私の家に来たのは四月になってからだった。今でも覚えているが、区隊の生徒が数人来て、野原で摘んだ土筆(つくし)を両掌いっぱいぐらいを土産に差し出した。私の妻が菓子と果物を出したら「区隊長殿頂きます」と言って如何にもうまそうに食べたのが今でもありありと思い出される。出した菓子と果物は皆生徒の家から私宛てに送って来た物だった。

 生徒の家からは、私宛てに色々の物を送って来た。それは全国各地の名産であった。生徒が世話になっているから、よろしくお願いしますという親心と、外出した時は食べさせてくださいとの言外に意味があると私は察した。菓子や果物などは折角のお心を素直に受けて頂戴し外出した時の生徒にも食べさせたが、時として京都の高価な織物などが送らて来た時は、手紙を添えて送り返した。

 面会に来た父母が私の宿舎に届けた高価な物は、私が家に帰るなり、父母の旅館を訪ねて丁重にお返しした。村松町内の旅館は若松屋ともう一軒しか学校関係の人が泊る旅館が無かったので、二軒訪ねればすぐ判った。父母の気持は良く判るが何も送って来ない生徒と教育上差別などがあっては大変なことになると、東京の少通校の当初からそう考えていた。然し、今考えてみると東京の少通校時代は父母から送り物があった記憶が無い。それは私が生徒の入校後の途中から区隊長になり、住所が変わったりしたせいかも知れない。また村松少通校に来てからも送って来るのは北海道や京都、関西など遠方の方で然も社交に馴れた父母と思われる一部の方だった。

  条件検索へ