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心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 3

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通常 心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/1/24 8:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 一、軍都・村松から学都・村松へ

 
  「浜田か、鰯江か、村松か、飛ばされそうで気にかかる」---皆様は、かってご当地・村松が、その地理的、気象的条件から、島根の浜田や福井の鯖江と並んで、陸軍士官候補生達の赴任先として怖れられ、敬遠された土地柄であったことをご存知でしょうか。
 村松は、明治二十九年九月に新発田から歩兵三十聯隊が移駐して以来終戦まで略半世紀に亘って軍都としての歩みを続けましたが、その掉尾を飾ったのが村松陸軍少年通信兵学校(村松少通校)でした。

 当時、戦局は、既に開戦当初の勢いは消え、十七年六月のミッドウェー海戦の敗退を契機に、ガダルカナル島からの撤退、アッツ島守備隊の玉砕等々、既に末期的な症状を呈し始めていたのですが、国民はこれを一切知らされることなく、反対に軍当局は負け戦によって不足した兵員の補充に躍起になり、このためには、学校、新聞、雑誌、ラジオ、映画など、あらゆる手段が動員されました。そして、多くの少年達は、祖国存亡の危機を前にして、幼くはあっても「今、自分達が身を捨てて国を護らなければ」の一心で、競って各種の少年兵を志願し、少年通信兵もその一つでした。

 而して、戦局の急迫に伴い、それまで東京東村山にあった少通校は更に一校増設することになり、昭和十八年十月、此処・村松に誕生したのが村松少通校です。以後、同校は終戦までに少年生徒を迎えること三回、十一期から十三期まで夫々八百名ずつの延二千四百名を数えました。そして、後で述べますように、このうち、最も悲惨な運命を辿ったのが十一期生でした。思えば、その時、彼らは十六、七歳。今時なら春秋の甲子園で青春を謳歌している球児と同じ年頃です。それなのに、彼らは国の為と思えばこそ、その短か過ぎた青春の総てを犠牲にして村松少通校で学んだ庭訓を胸に勇躍出陣して行ったのです。

 二、村松少通校の教育

 ついては、これらの話を進めるに当たって、私は冒頭に、同校では彼らに対しどの様な教育が、どの様な仕組みや考え方の下に行われていたかについて、先ず、当時教官(区隊長)として十一期生と十三期生の指導に当たられた渡部善男氏の文章を掲載します。
 
 本稿は、生徒を教えた側、即ち、学校当局側の考え方や姿勢を明らかにした数少ない貴重な資料であり、また、其処には、生徒とは違った目で見た当時の村松町の様子も描かれていて、これを読む私共にも一層懐かしい思い出が建ってきます。

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