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『肉声史』 戦争を語る (72)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (72)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/27 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「日本が生きるための戦争だった」

 湯河原町 福井 三七夫(大正6《1917》年)

 (あらすじ)

 昭和15年24歳で召集令状が来た。18歳で肋膜《ろくまく》を患ったので第2乙種合格で衛生要員として千葉の気球連隊に入隊。1ケ月本科教育を受けて3ケ月千葉の陸軍病院へ通った。
 同年秋に南京部隊へ。そこはハルビンの731部隊と同じ様な部隊で、防疫給水部に配属された。昭和16年11月転属で上海へ行き、寧波で1年。昭和17年5月金華作戦に参加して上海に帰った。当時ガダルカナルが作戦に失敗していたので、そこへ九州6師団が投入されることになっていた。私もそこへ転属となり、17《1942》年12月21日に上海を出発、パラオに上陸した。ところが31日の御前会議《=天皇の出席のもとに開かれた最高会議》で「ガダルカナル《=ソロモン諸島》はあきらめよう」との陛下の言葉で急遽《きゅうきょ》変更。翌1月にブーゲンビル上陸。2月にガダルカナル撤退作戦が行われ、約1万人の生き残りを収容した。ソロモン群島に隊が分散して入り、敵をけん制したが、昭和19年4月に惨敗。司令部幹部は経理や防疫給水部隊を口減らしの為、付近のヤシ林で自活させた。
 私は脚気《かっけ》だったから機材管理係として残された。だから助かった。皆ヤシを食べて下痢をして、半年で6割死んだ。そのうち部隊が成り立たなくなり、私は軍医部の兵隊として働くことに。そこで終戦を迎えた。すでに畑では色いろ物が作れて自活は完壁だった。その後無人島に送られ、豪州《=オーストラリア》軍の使役として強制労働。ムチで追い立てられた。昭和20年9月から翌3月までそこにいて、佐世保に帰ってきた。日本も生きるための戦争だったと思っている。

 (お話を聞いて)

 福井三七夫さんに戦争中のお話を聞きました。福井さんは現在89歳(平成17年)でお一人暮らしをしています。お元気に60年以上も前のお話をしていただきました。
 福井さんのお話を聞くと、人間の生と死について色々考えさせられました。運命といってしまえばそれだけ終わってしまいそうなことでも、その状況、状況によって生と死の分かれ道があり、そこで右に行くか、左に行くか、それも自分の判断ではなく、命令であったり、戦況などの周囲の状況であったり。
 いま平和の中で生きている私達にとっては、確かに色々な場面で岐路《きろ=分かれ道》はあるにしても、福井さん達が経験してきたような極限的な岐路に立っことはそうそうないと思うし、日々生死の岐路に立っていたことを考えると、本当に今の平和のありがたみを感じるとともに、今生きる自分達だけではなく、これからもずっと多くの人たちの悲劇や苦悩ありとあらゆる犠牲の上に成り立った平和をいっまでも守り続けたいと思いました。

 (聞き手 匿名 昭和31《1956》年生)

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編集者 (代理投稿)

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