『肉声史』 戦争を語る (78)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(お話を聞いて)(楢島、武内さん)
今回、二人の方にお話を伺いました。私の想像をはるかに超えたご苦労の数数‥・ただただ聞き入るばかりでした。いつ命落とすかも知れぬ恐怖、空腹を満たすことのないわずかな食料、病気やケガをしてもつける薬もない状況の中で、懸命に生きるお話に返す言葉が見つかりませんでした。お話の途中、「私が生きて家族の元に帰れたのは本当に幸運でした。しかし亡くなられたたくさんの人やその家族の方々の悲しみを思うと。…・」と肩を落として話される姿に、胸が詰まる思いでした。
これまで、テレビドラマやドキュメンタリー番組で見聞きしたときとは又違い、直接「生の声」で聞くことは、私にとって大変貴重な体験となり、お二人と同様に平和への思いが尚一層強いものとなりました。そして、この平和がいつまでも続くようにと願わずにはいられません。大変なご苦労をされた多くの方々の礎《いしずえ》があってのことと心に刻み、感謝を忘れてはいけないとの思いをあらたにしました。
(聞き手 萌出優子 昭40《1965》年生)
「内地も外地も戦は続く」
藤野町 天野 一雄(大正9《1920》年生)
(あらすじ)
昭和16年に入隊し、習志野の騎兵隊に1年間いた。兵隊に行くのは誇り高く、嬉しかった。世の中がそうだった。開戦して満州へ。どんな所かと喜んで行った。満州は内地と同じで戦闘がなく、日曜には外出もできた。
その後、北満へ渡った。釜山から列車で移動、降りたらマイナス20度の世界。その日一日トラックに乗せられて、駐屯地へ行ったが一生忘れられない辛い経験だった。19年正月に帰国したが、3月には南方の島へ。今度は生きて帰れないと覚悟をした。まだ寒かったが夏服で中国の南京へ行った。揚子江を船で渡り、蘇州《=中国、江蘇省南部》、上海を経て中隊本部のある南通へ。そこは兵が7人しかおらず、昼間はのんびりだが夜になると共産軍が手相弾で襲ってくる。私は1週間で転属したが、残った6人は何百という敵に囲まれて全滅したと後で聞いた。当時、中国には南京政府と共産軍があった。日本は南京政府と手を組んでいて、中国兵と日本兵がそこにあった竹矢来《たけやらい=竹を粗く組み合わせて作った囲い》を通る人を検閲していた。中国兵はみんな純朴でいい奴だった。子供が何人いるとか話してくれた。
その後内地へ帰り、松山から浜松へ。昭和20年春のことで、毎日空襲があった。ある日、空襲警報で空を見たら小さくいっぱいグラマンが飛んでくる。6、7人で屋根の無い壕に逃げ込むと、グラマンが銃を撃ってきて隣の兵とのすき間に弾が当たった。刺さった。よく助かった。その晩に退避命令が出たが、外地より怖い思いをした。そして最後は東京。
焼け野原で何もなかった。終戦になって若い兵隊は「家に帰れる」と喜んだ。25日に解散したら、みんなあっという間にいなくなった。教育ほど恐ろしいものはない。「天皇のために」と疑うことなく、死も恐ろしくなかった。
(お話を聞いて)
天野さんから戦争を知らない世代へ、「教育ほど恐ろしいものはない」というメッセージをいただきました。国を挙げて戦争に向かうためには、教育が大きな役割を果たしたのだということを忘れてはならないと改めて感じました。
天野さんは徴兵検査に合格した時、「とても嬉しかった。兵隊さんを崇める《あがめる》世の中で、国の役にたっならば死ぬのも怖くなかった。」と語りました。私はそれを聞いてとても驚いてしまいました。自分の命、離れ離れになる家族がどうなるかと、不安と恐怖で泣く泣く戦地へ向かったに違いないと思っていたからです。
「国の政治に国民が疑いを持つなどありえないことだった」と当時の状況を教えていただき、天野さんの「兵隊に行けて嬉しい」という気持ちが正直な気持ちだったのだと理解しました。同時に、国を挙げての教育で人間の意志を操ることができてしまう恐ろしさを再認識しました。
天野さんはさらに、現代社会の良いところは「何においても自由があることだ」と話してくれました。今私たちは、自由にものを考えることができます。自分の頭で考え、ものごとを決められる自由があるという幸せは、あまりに当たり前で、実感がわかないものです。しかし、この当たり前の幸せを実現するまでに多くの命が犠牲になってきたのだという事実を前に、今自分の人生を自分の意思や選択で切り開くことができる環境がどれほどありがたいものなのか私は改めて自分に問い直し、気付くことができました。
私たちは今、一人ひとりの頭で考えることが出来るのですから、なぜ「戦争はいけないのか」ということについて、単に「いけない」と教えるのではなく、一人ひとりが歴史から学び、考える姿勢が大切だと思います。歴史から未来へ考えをめぐらせる力をつけることが、過ちを繰り返さない次の社会を担う世代に必要なことではないかと、天野さんのお話を聞いて感じました。
(聞き手 千代由美子 昭和52《1977》年生)
--完--
今回、二人の方にお話を伺いました。私の想像をはるかに超えたご苦労の数数‥・ただただ聞き入るばかりでした。いつ命落とすかも知れぬ恐怖、空腹を満たすことのないわずかな食料、病気やケガをしてもつける薬もない状況の中で、懸命に生きるお話に返す言葉が見つかりませんでした。お話の途中、「私が生きて家族の元に帰れたのは本当に幸運でした。しかし亡くなられたたくさんの人やその家族の方々の悲しみを思うと。…・」と肩を落として話される姿に、胸が詰まる思いでした。
これまで、テレビドラマやドキュメンタリー番組で見聞きしたときとは又違い、直接「生の声」で聞くことは、私にとって大変貴重な体験となり、お二人と同様に平和への思いが尚一層強いものとなりました。そして、この平和がいつまでも続くようにと願わずにはいられません。大変なご苦労をされた多くの方々の礎《いしずえ》があってのことと心に刻み、感謝を忘れてはいけないとの思いをあらたにしました。
(聞き手 萌出優子 昭40《1965》年生)
「内地も外地も戦は続く」
藤野町 天野 一雄(大正9《1920》年生)
(あらすじ)
昭和16年に入隊し、習志野の騎兵隊に1年間いた。兵隊に行くのは誇り高く、嬉しかった。世の中がそうだった。開戦して満州へ。どんな所かと喜んで行った。満州は内地と同じで戦闘がなく、日曜には外出もできた。
その後、北満へ渡った。釜山から列車で移動、降りたらマイナス20度の世界。その日一日トラックに乗せられて、駐屯地へ行ったが一生忘れられない辛い経験だった。19年正月に帰国したが、3月には南方の島へ。今度は生きて帰れないと覚悟をした。まだ寒かったが夏服で中国の南京へ行った。揚子江を船で渡り、蘇州《=中国、江蘇省南部》、上海を経て中隊本部のある南通へ。そこは兵が7人しかおらず、昼間はのんびりだが夜になると共産軍が手相弾で襲ってくる。私は1週間で転属したが、残った6人は何百という敵に囲まれて全滅したと後で聞いた。当時、中国には南京政府と共産軍があった。日本は南京政府と手を組んでいて、中国兵と日本兵がそこにあった竹矢来《たけやらい=竹を粗く組み合わせて作った囲い》を通る人を検閲していた。中国兵はみんな純朴でいい奴だった。子供が何人いるとか話してくれた。
その後内地へ帰り、松山から浜松へ。昭和20年春のことで、毎日空襲があった。ある日、空襲警報で空を見たら小さくいっぱいグラマンが飛んでくる。6、7人で屋根の無い壕に逃げ込むと、グラマンが銃を撃ってきて隣の兵とのすき間に弾が当たった。刺さった。よく助かった。その晩に退避命令が出たが、外地より怖い思いをした。そして最後は東京。
焼け野原で何もなかった。終戦になって若い兵隊は「家に帰れる」と喜んだ。25日に解散したら、みんなあっという間にいなくなった。教育ほど恐ろしいものはない。「天皇のために」と疑うことなく、死も恐ろしくなかった。
(お話を聞いて)
天野さんから戦争を知らない世代へ、「教育ほど恐ろしいものはない」というメッセージをいただきました。国を挙げて戦争に向かうためには、教育が大きな役割を果たしたのだということを忘れてはならないと改めて感じました。
天野さんは徴兵検査に合格した時、「とても嬉しかった。兵隊さんを崇める《あがめる》世の中で、国の役にたっならば死ぬのも怖くなかった。」と語りました。私はそれを聞いてとても驚いてしまいました。自分の命、離れ離れになる家族がどうなるかと、不安と恐怖で泣く泣く戦地へ向かったに違いないと思っていたからです。
「国の政治に国民が疑いを持つなどありえないことだった」と当時の状況を教えていただき、天野さんの「兵隊に行けて嬉しい」という気持ちが正直な気持ちだったのだと理解しました。同時に、国を挙げての教育で人間の意志を操ることができてしまう恐ろしさを再認識しました。
天野さんはさらに、現代社会の良いところは「何においても自由があることだ」と話してくれました。今私たちは、自由にものを考えることができます。自分の頭で考え、ものごとを決められる自由があるという幸せは、あまりに当たり前で、実感がわかないものです。しかし、この当たり前の幸せを実現するまでに多くの命が犠牲になってきたのだという事実を前に、今自分の人生を自分の意思や選択で切り開くことができる環境がどれほどありがたいものなのか私は改めて自分に問い直し、気付くことができました。
私たちは今、一人ひとりの頭で考えることが出来るのですから、なぜ「戦争はいけないのか」ということについて、単に「いけない」と教えるのではなく、一人ひとりが歴史から学び、考える姿勢が大切だと思います。歴史から未来へ考えをめぐらせる力をつけることが、過ちを繰り返さない次の社会を担う世代に必要なことではないかと、天野さんのお話を聞いて感じました。
(聞き手 千代由美子 昭和52《1977》年生)
--完--
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編集者 (代理投稿)