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『肉声史』 戦争を語る (71)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (71)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/26 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「技(運転)は身を助く」

 湯河原町 柏木 孝平(大正10《1921》年)

 (あらすじ)

 昭和16年5月徴兵検査。17年1月9日に小田原駅集合、大阪へ。宇品港《広島港の通称》から釜山港へ行き、釜山から包頭へ到着。騎兵14連隊へ入る。内務班に入り、初年兵教育を受けた。
 自動車中隊だったので自動車の操縦教練が主だった。私は内地で運転手をしていたので助かった。18年2月には初年兵教育係となった。初年兵の落ち度は私の責任となり、3年兵からビンタされた。「今に見ておれ。貴様より早く昇格してやる」と軍務に励んだ。
 19年3月に兵長に進級。3月下旬、自動車等を貨物に乗せて包頭を出発し石家荘へ。そこで「もう生還できないかも」と爪と髪を切って提出しろと言われたが、私は出さなかった。4月中頃、石門を出発し黄河《=水が黄濁しているのでいう中国第2の大河》を渡り、洛陽へ。第2次洛陽攻撃の準備にかかり、総攻撃をかけた。戦闘は勝利をおさめた。ある時、敵状情視察に行った同年兵について行ったら、スモモを食べながら待っている敵が見えた。次の瞬間、別の兵がひざを撃たれて、ものすごい出血。ゲートルを切って鉢巻で止血したが、1升位血が溜まっていた。戦車に乗せて野戦病院に送ったが死亡した。その兵は、朝から中国の強い酒、アルコール度45度もあるのを飲んでいたから出血が止まらなかった。その酒で車が動かせる位だった。
 その時も「とにかく下がろう」と30m先の一軒家へ逃げ込んだ。敵は1列に並んでスモモ食べながら待っている。射手を呼んで機関銃を撃った。日本の機関銃は30連発だが、突っ込みといって10発位で弾が詰まることがある。その時も撃てなくなった。でも後でそこへ行ったら3人位死んでいて、私達はそこに落ちていたスモモを頬張った。

 (お話を聞いて)

 柏木さんは現役兵で騎兵として出兵されたそうです。柏木さんのお話の中で、自動車免許証がすごく人生を運命付けているように感じました。入隊する数年前に気軽な気持ちで受けた運転免許試験に合格し、入隊後配属されたのが騎兵で馬に乗るものだとばかり思っていたら、自動車の運転だったのこと、すごく助かったといっておられました。芸は身を助けるといいますが、まさにこれだと思いました。
 新兵教育の話し、隊での話し、いろいろな話の中で、軍隊というのは、なんと理不尽な組織あるなと感じました。何かあれば殴る、制裁をする、それに反発すればそれ以上の制裁を科す。柏木さんもよく殴られたよと笑いながらお話くださいました。
 戦闘に参加された話しもお聞きしました、戦車を操縦していて地雷を踏んで飛び上がったとか危ない目に何度か会われたそうです。また同郷の知り合いと戦地で行軍中に合い一寸言葉を交わしたがその後、その方は戦死されたとのことで、はかなさを感じました。
 終戦になって家に戻って仕事を探し始めた時に、また運転免許証が役に立ち運送の仕事に就くようになり、ご自身で運送会社を興すまでになられました。
 柏木さんの戦争体験から現在にいたるまで、一枚の自動車免許証が常に御守札のようについてこられたように思いました。苦しい体験の中、自分の持つ特技や技能を生かし賢明に現状と対峙され乗り越えられてきた生き方に共感しました。

 (聞き手 匿名 昭和3《1928》年生)

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編集者 (代理投稿)

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