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『肉声史』 戦争を語る (73)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (73)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/28 17:22
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
北ブロック

 「炎天下の重労働 汗なめ うまい!」

 城山町 川島 穂(昭和3《1928》年生)

 (あらすじ)

 昭和19年4月、16才で鎌倉の神奈川師範学校に入学。寄宿舎で軍隊のような厳しい集団生活だった。7月から9月には学徒動員《注》で今の厚木基地、当時の綾瀬飛行場で整地作業を行った。真夏の炎天下、日陰もなく水もなく上半身裸で作業した。汗をなめてその塩気の味が「うまいな-」と思った。
 心身共に鍛《きた》えられていたからか、倒れる人はいなかった。食事は腹一杯食べられた。麦入り飯にタクワン2、3切れとダシなしの大根の味噌汁。召集されてきた30才位の兵隊が20才ほどの上官にひどく怒られているのを見て「あの兵隊の妻や親は悲しむだろう。私は嫌だ。早く上官にならねば」と暇《ひま》さえあれば軍人になる勉強していた。
 この頃から帰らない飛行兵の話をチラホラ聞くようになった。後に特攻の前身だったと知った。その後藤沢の東京螺子《ねじ》という軍需工場へ勤務した。楽しかった思い出は食事のこと。ご飯には麦やタン麺、さつま芋が入っていたが、カレーや鯨肉《げいにく》などがあった。軍事物資が回ってきたのだと思う。工場で何を作っていたかは一切秘密。今思えば鉄砲の弾を作っていたのかも知れぬ。昭和20年の3月頃から同級生が召集され始め、7月には人が少なくなって休憩もとらず「戦地の兵隊よりは楽だ」と無我夢中で働いた。 私が軍隊に入りたいと母に言ったら「お前を軍人にする為に育てたんじゃない。どうしても行きたいなら私を殺してから行け」と。その言葉がなければ今の私はいない。戦地の兵隊も「天皇万歳」じゃなく「お母さんごめんなさい」と言って死んだのだと思う。
 
注 学徒動員=労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させた


 「陸で、海で、前線で」

 城山町  高橋 潔 (大正10《1921》年生)

 (あらすじ)

 分家の叔父のところで体を鍛えて《きたえて》いた。兵隊検査は甲種合格。 昭和17年佐倉57連隊に入隊。能登丸に乗り砲台の側で寝るという生活。朝鮮の済州島へ。そこで大砲の操作を習い実弾演習を。そして朝鮮から中国へ上陸。中国内では、新兵の基礎訓練を行い、揚子江から川舟でバンカオへ。さらに訓練を行う。そして最前線へ。幹部候補となり更に訓練。部隊に合流する予定であったが、部隊の所在が不明。軍司令部で所在を確認するが、戦地を彷徨う《さまよう》状態であった。・・・
 人としての誇りとは何なのか、改めて考えてみたいと思った。

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編集者 (代理投稿)

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