『肉声史』 戦争を語る (77)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「収容所 草食べつくし やっと生き」
藤野町 楢島 正(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和18年12月に白紙召集《=徴用令状は白紙だったので「白紙召集」と呼ばれた》で川崎の東芝に入った。翌年赤紙がきて11月25日相模原に通信兵として入隊、3日後には満州に出兵。出発の日は横浜が初空襲に遭《あ》い、電車が動かず町田から横浜駅まで歩いた。門司で乗船の予定だったが、他の部隊に譲って九州で1泊した。が、前日の船は玄界灘で撃沈されたと聞いた。命拾いした。12月1日に新彊に着いた。
新兵の教育係だったが新兵が入ってこないので、6月末に関東へ集結。通信兵が少なかったので奉天へ。満州の幹部候補生が教育を受ける有名な所だった。その教育中にソ連が攻めてきた。
8月15日に停戦だが命令を受けたのは翌日の午後4時だった。もう少しで敵の戦車がくるというところだった。1班に1、2丁の兵器という状態だった。あの時は恐ろしかった。殺される覚悟決めた。収容所に入って鉛筆まで何もかも取られた。食糧が少なく、場内の草を食べつくした。9月半ばにウラジオから内地へ帰すと言われ、1週間行軍した。私は赤痢にかかって出発の時から血便が出たが、飲まず食わずでポシェットという軍港に着いて、隔離された。服を脱いだらガリガリに痩《や》せて、我ながらよく生きていたなとビックリした。
それからハバロフスク郊外のコルホーズ農場で約1ケ月じゃが芋拾い。その後はスタレトラストという囚人村で伐採作業。寒かった。昭和22年4月に帰国。日本に着いて国から300円貰った。こりゃ大金だと嬉しかったが物価が高騰していて1週間で使い果たした。
「山中を逃げて逃げて 命永う」
藤野町 武内 武蔵(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
召集は21歳の時で、前年から立川の陸軍航空技術研究所へ勤め、そこへ弟が家に届いた赤紙を持ってきた。明後日入営だとのこと。昭和19年6月にフィリピンへ。サイパンが陥落《かんらく=攻め落とされ》し台湾で一日情勢見て、マニラへ向かう。9隻の船団中1隻沈んだだけで到着した。
ミンダナオ島の端で陣地ばかり作っていた。ヤシの木から澱粉をとって食べた。夕飯だけ米飯。昭和20年3月にアメリカ軍が上陸。2週間の戦闘で、たくさん戦死者が出た。以降10月までずっと山の中を逃げ回り終戦も知らず、敵軍のビラを見ても謀略だと信じなかった。着るものもなく、靴下1本分の米しかなかった。無人の部落に残っていたとうもろこしの粉などで生き延びた。鉄砲の弾ひとつ、一握りの米も補給がなかった。一日食べないことは常で、さつま芋の葉で食いつないだことも。
移動しないと敵が偵察に来るので、雨露をしのげる程度の小屋をて、長くて一週間滞在、ほぼ毎日移動した。湿度の高いところを歩き回るから靴がダメになり、裸足《はだし》だった。気をつけても夜なんか足にケガをする。すると傷口からウジがわくが、薬も包帯もない。亡くなった人は戦死半分、マラリヤなど病気半分でデング熱《=ウイルスによる感染症》や赤痢なども多く、痩せてるうちはまだよく、むくみだすと1日位で死ぬ。移動中動けなくなる兵には、隊長から手相弾を持ってるかと確認され、捕虜にならずに自決することを促される。フィリピンは50万人弱の戦死者を出した。その後、米軍キャンプで草刈などの労働をした。戦争の囚人という意味のPWと背中にペンキで書かれた。
昭和21《1946》年10月に帰国。富士山がきれいだった。
藤野町 楢島 正(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和18年12月に白紙召集《=徴用令状は白紙だったので「白紙召集」と呼ばれた》で川崎の東芝に入った。翌年赤紙がきて11月25日相模原に通信兵として入隊、3日後には満州に出兵。出発の日は横浜が初空襲に遭《あ》い、電車が動かず町田から横浜駅まで歩いた。門司で乗船の予定だったが、他の部隊に譲って九州で1泊した。が、前日の船は玄界灘で撃沈されたと聞いた。命拾いした。12月1日に新彊に着いた。
新兵の教育係だったが新兵が入ってこないので、6月末に関東へ集結。通信兵が少なかったので奉天へ。満州の幹部候補生が教育を受ける有名な所だった。その教育中にソ連が攻めてきた。
8月15日に停戦だが命令を受けたのは翌日の午後4時だった。もう少しで敵の戦車がくるというところだった。1班に1、2丁の兵器という状態だった。あの時は恐ろしかった。殺される覚悟決めた。収容所に入って鉛筆まで何もかも取られた。食糧が少なく、場内の草を食べつくした。9月半ばにウラジオから内地へ帰すと言われ、1週間行軍した。私は赤痢にかかって出発の時から血便が出たが、飲まず食わずでポシェットという軍港に着いて、隔離された。服を脱いだらガリガリに痩《や》せて、我ながらよく生きていたなとビックリした。
それからハバロフスク郊外のコルホーズ農場で約1ケ月じゃが芋拾い。その後はスタレトラストという囚人村で伐採作業。寒かった。昭和22年4月に帰国。日本に着いて国から300円貰った。こりゃ大金だと嬉しかったが物価が高騰していて1週間で使い果たした。
「山中を逃げて逃げて 命永う」
藤野町 武内 武蔵(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
召集は21歳の時で、前年から立川の陸軍航空技術研究所へ勤め、そこへ弟が家に届いた赤紙を持ってきた。明後日入営だとのこと。昭和19年6月にフィリピンへ。サイパンが陥落《かんらく=攻め落とされ》し台湾で一日情勢見て、マニラへ向かう。9隻の船団中1隻沈んだだけで到着した。
ミンダナオ島の端で陣地ばかり作っていた。ヤシの木から澱粉をとって食べた。夕飯だけ米飯。昭和20年3月にアメリカ軍が上陸。2週間の戦闘で、たくさん戦死者が出た。以降10月までずっと山の中を逃げ回り終戦も知らず、敵軍のビラを見ても謀略だと信じなかった。着るものもなく、靴下1本分の米しかなかった。無人の部落に残っていたとうもろこしの粉などで生き延びた。鉄砲の弾ひとつ、一握りの米も補給がなかった。一日食べないことは常で、さつま芋の葉で食いつないだことも。
移動しないと敵が偵察に来るので、雨露をしのげる程度の小屋をて、長くて一週間滞在、ほぼ毎日移動した。湿度の高いところを歩き回るから靴がダメになり、裸足《はだし》だった。気をつけても夜なんか足にケガをする。すると傷口からウジがわくが、薬も包帯もない。亡くなった人は戦死半分、マラリヤなど病気半分でデング熱《=ウイルスによる感染症》や赤痢なども多く、痩せてるうちはまだよく、むくみだすと1日位で死ぬ。移動中動けなくなる兵には、隊長から手相弾を持ってるかと確認され、捕虜にならずに自決することを促される。フィリピンは50万人弱の戦死者を出した。その後、米軍キャンプで草刈などの労働をした。戦争の囚人という意味のPWと背中にペンキで書かれた。
昭和21《1946》年10月に帰国。富士山がきれいだった。
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編集者 (代理投稿)