『肉声史』 戦争を語る (74)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「行軍 激戦 今も浮かぶ友の顔」
城山町 設楽 恒三郎(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和12年12月に現役志願兵として大兵《たいひょう》。翌年5月に移動部隊として朝鮮の仁川港から出港した。その際、日本人の家に3泊4日宿泊して、そこの奥さんから鮫除け《さめよけ》になると赤い裡(ふんどし)をもらった。撃沈した時に使うのかと納得した。輸送船に乗って揚子江に到着。さらに揚子江をさかのぼっていくと、敵の砲台から砲弾が命中、船は傾きながら鎮江に着いた。南京攻略直後のことだった。上陸したのは大別山脈という山岳地帯で、兵器は散弾で遠くまで弾が飛ばず、目標は敵の機関銃だった。山また山の細い道を進軍。人馬もろとも崖《がけ》から落ちることもあった。体力がなくなり歩けなくなる歩兵が方々に、銃を抱いて目だけギョロギョロと伏せているのを横目に前進した。
私と友人が前線で歩哨に立った時、笹薮に伏せている私の左足に電撃が走った。と同時に隣で伏せていた友が「やられた!」。彼の右足に弾が命中していた。私の左足と彼の右足が触れていたので、私にも響いたのだ。肩車して隊に引き返した。その戦いで大隊は全滅、「雷鳴高地」での戦いだった。2ケ月の激戦の後脱出して駐屯地《=軍隊がある土地にとどまっている》に戻った。
それから航空要員に応募して、昭和15年内地の各務原《かかみがはら=岐阜県南部》に転属。宇都宮陸軍士官学校に入校し、満州やハルビンにも行ったが学校に戻って助教として、17、8歳の少年飛行兵を教育した。特攻隊の訓練をした頃は終戦間際だった。自分の人生は愛国、教育勅語、御真影《ごしんえい=天皇・皇后のお写真》参拝等々がしみついて、少年兵の顔や戦友との思い出が今も胸をよぎる。お国の為だと潔《いさぎよ》く戦ってきた。
現在もまだ世界中で戦争が起きているがあまりにも戦争は悲しい。やっぱり戦争はしてはいけない。
「今際の際《いまわのきわ=死に際》 呼ぶは母の名」
城山町 金子 益三(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和13年徴兵検査で甲種合格。翌1月10日に北海道旭川の歩兵第26連隊に入る。4月10日に1等兵進級と同時に、北シナに向かって小樽港を出発。日本海を5日間渡り、中国の塘活に上陸。そこで真っ白な塩の山を見て驚いた。貨車に人馬共に乗って新郷に向かった。新郷付近を転々と作戦、掃討《=完全に除き去る》、討伐、警備など3年半程して任務が遂行され、昭和17年7月に帰ってきた。
国境を通過し、塘活に1泊して内地へ。東京・赤坂連隊に到着し、3日程で故郷に帰ってきた。感無量だった。その後、相模陸軍造幣省へ就職。村長から青年学校の教官をと乞われて就任。
しかし昭和19年5月に召集令状がきたので長く務められず、山梨県甲府連隊へ。ニューギニアへの要員だったが、編成過剰員だったので内地で経理事務を担当した。戦況悪化で部隊の物資を疎開させて転々とした。私も部隊を離れて昭和村という所で自炊したことがある。地元では農家が供出に困っていた。小麦の供出に俵を作る人がいないというので、私が作ったこともあった。その後終戦。
中国にいた時、軍で戦友が敵の銃弾に腹部を貫通されて「妹を頼むよ」と言って息を引き取った。
戦死の時は母の名前を呼ぶ人が多かった。甲府で敗戦知った時は誰一人口をきく人がいなかった。幾日か経ってから負けたと実感した。怖かった思い出は、鉄道線路や車道に地雷が置いてある中国ゲリラ戦。砲弾は45度の角度で飛んでくるから、伏せていれば当たらなかった。もう戦争は嫌だ。2度とゴメンだ。平和が一番。
城山町 設楽 恒三郎(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和12年12月に現役志願兵として大兵《たいひょう》。翌年5月に移動部隊として朝鮮の仁川港から出港した。その際、日本人の家に3泊4日宿泊して、そこの奥さんから鮫除け《さめよけ》になると赤い裡(ふんどし)をもらった。撃沈した時に使うのかと納得した。輸送船に乗って揚子江に到着。さらに揚子江をさかのぼっていくと、敵の砲台から砲弾が命中、船は傾きながら鎮江に着いた。南京攻略直後のことだった。上陸したのは大別山脈という山岳地帯で、兵器は散弾で遠くまで弾が飛ばず、目標は敵の機関銃だった。山また山の細い道を進軍。人馬もろとも崖《がけ》から落ちることもあった。体力がなくなり歩けなくなる歩兵が方々に、銃を抱いて目だけギョロギョロと伏せているのを横目に前進した。
私と友人が前線で歩哨に立った時、笹薮に伏せている私の左足に電撃が走った。と同時に隣で伏せていた友が「やられた!」。彼の右足に弾が命中していた。私の左足と彼の右足が触れていたので、私にも響いたのだ。肩車して隊に引き返した。その戦いで大隊は全滅、「雷鳴高地」での戦いだった。2ケ月の激戦の後脱出して駐屯地《=軍隊がある土地にとどまっている》に戻った。
それから航空要員に応募して、昭和15年内地の各務原《かかみがはら=岐阜県南部》に転属。宇都宮陸軍士官学校に入校し、満州やハルビンにも行ったが学校に戻って助教として、17、8歳の少年飛行兵を教育した。特攻隊の訓練をした頃は終戦間際だった。自分の人生は愛国、教育勅語、御真影《ごしんえい=天皇・皇后のお写真》参拝等々がしみついて、少年兵の顔や戦友との思い出が今も胸をよぎる。お国の為だと潔《いさぎよ》く戦ってきた。
現在もまだ世界中で戦争が起きているがあまりにも戦争は悲しい。やっぱり戦争はしてはいけない。
「今際の際《いまわのきわ=死に際》 呼ぶは母の名」
城山町 金子 益三(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和13年徴兵検査で甲種合格。翌1月10日に北海道旭川の歩兵第26連隊に入る。4月10日に1等兵進級と同時に、北シナに向かって小樽港を出発。日本海を5日間渡り、中国の塘活に上陸。そこで真っ白な塩の山を見て驚いた。貨車に人馬共に乗って新郷に向かった。新郷付近を転々と作戦、掃討《=完全に除き去る》、討伐、警備など3年半程して任務が遂行され、昭和17年7月に帰ってきた。
国境を通過し、塘活に1泊して内地へ。東京・赤坂連隊に到着し、3日程で故郷に帰ってきた。感無量だった。その後、相模陸軍造幣省へ就職。村長から青年学校の教官をと乞われて就任。
しかし昭和19年5月に召集令状がきたので長く務められず、山梨県甲府連隊へ。ニューギニアへの要員だったが、編成過剰員だったので内地で経理事務を担当した。戦況悪化で部隊の物資を疎開させて転々とした。私も部隊を離れて昭和村という所で自炊したことがある。地元では農家が供出に困っていた。小麦の供出に俵を作る人がいないというので、私が作ったこともあった。その後終戦。
中国にいた時、軍で戦友が敵の銃弾に腹部を貫通されて「妹を頼むよ」と言って息を引き取った。
戦死の時は母の名前を呼ぶ人が多かった。甲府で敗戦知った時は誰一人口をきく人がいなかった。幾日か経ってから負けたと実感した。怖かった思い出は、鉄道線路や車道に地雷が置いてある中国ゲリラ戦。砲弾は45度の角度で飛んでくるから、伏せていれば当たらなかった。もう戦争は嫌だ。2度とゴメンだ。平和が一番。
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編集者 (代理投稿)