捕虜と通訳 (小林 一雄)
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第三章 贈られた友情の「身分保証文」・その3
このほかにも、あの捕虜収容所時代に知り合ったアメリカ将兵の幾人かからも同じょうな私信を受け取った。結局、彼らは敗戦後の日本が連合軍の統治下となり、いままでの日本の体制下生きてきたものには、あらゆる面で苦しく辛い生活を強いられざるを得ないことを予測していた。このためその渦中に生きざるをえない私のことを案じ、就職についても有利であるようにとしたためてくれた手紙だった。また万一、捕虜収容所に勤務していたとの理由で私が連合軍総司令部から戦犯容疑者として呼び出しがあった場合に、当時の証言として私に有利な材料になることを祈っての手紙だった。
このほか通訳としての特技があるため連合軍キャンプに就職した場合には、私個人が経済的に有利になるようにと、具体的な業務をあげて専用業者になる権利を与えるよう訴える推薦書を添付してくれた手紙もあった。例えばアメリカ軍占領軍のキャンプ建設の請負権とか、旧日本軍から接収した物件の払い下げを受ける優先権などを具体的に列挙してくれていた。もちろん、若僧の私には当時、それを利用する考えはまったくなく、単なる精神的な感謝以外、なす術もなく、この種の推薦書はホゴと化してしまった。「もったいないことをしたものだ」と、いまとなっては友人によくからかわれるが…。
何はともあれ、いま思い出すと、あの収容所時代の捕虜たちが、私をこんなに熱い眼で観察していたことに驚くと同時に、過分な評価に一面では心恥ずかしく、他面では心から感激している。くどいけれども、私自身、あの収容所で彼らが評価してくれたような行為を意識して、何かを期待して行ったことは一度もない。無意識、無欲の行為だっただけに、彼らの胸を打ったのかも知れない。
当時の事情をもう一つの面から触れ、私のあのころの心情の側面を記しておこう。一億一心、大東亜共栄圏、鬼畜米英、国を挙げてこんなスローガンの下に老若男女をとわず戦闘体制にあった〝軍国日本〃の環境だった。学窓から戦地へ直行した学徒出陣組と同窓の私も、同じ日本の若人として、敵国に対する戦闘精神は誰にも負けないものを持っていた。軍国教育を受けた私は日本の軍人経験こそなかったものの、大義に殉ずる愛国魂を持ち、当然、敵国捕虜に積極的な協力をする心はなく、またそんな環境にはなかった。
そんなある日、中学時代の友が陸軍特別特攻隊長として敵地に突っ込み、戦死したニュースを知った。私の心情は〝敵憎し〟と高まるばかりだった。恐らく私だけでなく、あの時代に生きた日本人なら誰も同じ感情を抱いたことだろう。だから捕虜収容所内で、些細(ささい)な捕虜のことばや行為にも神経が高ぶり、つい捕虜の一人を平手打ちにしたこともあった。いま思うと冷静さを欠いた無思慮な過ちだった。終戦直後、彼がこんどは占領軍の一員として進駐してきた時、再会したが、招待されて食事をともにした際、私の方からその話を持ち出した。彼は収容所で起きたその件をとっくに忘れていたが「それぞれの立ち場、お互いの環境で起きた過去の悪夢に過ぎない。私の記憶にはまったくなかったが、いまそれを何とも思っていない。お互いはあの時から変わらぬ友人だ」といって笑って私に手を差しのべ、固い握手を交わしたことを思い出す。
いま考えると、戦時中のあの環境とはいえ、日本人、私の生一本な行為にくらべ、戦後、私に示してくれたアメリカ人、彼の態度に心の広さ、ゆとりを感じ、恥づかしい。彼我ともに、多くの人びとのなかには必ずしも同じ規範を保たず、さまざまな感情を持ち、いろいろな違った行動をする者もいるわけだが、いつの時代でも、どこでも1人間としての存在価値」を認め合うことの大切さを、いまひしひしと考えずにはおれない。
このほかにも、あの捕虜収容所時代に知り合ったアメリカ将兵の幾人かからも同じょうな私信を受け取った。結局、彼らは敗戦後の日本が連合軍の統治下となり、いままでの日本の体制下生きてきたものには、あらゆる面で苦しく辛い生活を強いられざるを得ないことを予測していた。このためその渦中に生きざるをえない私のことを案じ、就職についても有利であるようにとしたためてくれた手紙だった。また万一、捕虜収容所に勤務していたとの理由で私が連合軍総司令部から戦犯容疑者として呼び出しがあった場合に、当時の証言として私に有利な材料になることを祈っての手紙だった。
このほか通訳としての特技があるため連合軍キャンプに就職した場合には、私個人が経済的に有利になるようにと、具体的な業務をあげて専用業者になる権利を与えるよう訴える推薦書を添付してくれた手紙もあった。例えばアメリカ軍占領軍のキャンプ建設の請負権とか、旧日本軍から接収した物件の払い下げを受ける優先権などを具体的に列挙してくれていた。もちろん、若僧の私には当時、それを利用する考えはまったくなく、単なる精神的な感謝以外、なす術もなく、この種の推薦書はホゴと化してしまった。「もったいないことをしたものだ」と、いまとなっては友人によくからかわれるが…。
何はともあれ、いま思い出すと、あの収容所時代の捕虜たちが、私をこんなに熱い眼で観察していたことに驚くと同時に、過分な評価に一面では心恥ずかしく、他面では心から感激している。くどいけれども、私自身、あの収容所で彼らが評価してくれたような行為を意識して、何かを期待して行ったことは一度もない。無意識、無欲の行為だっただけに、彼らの胸を打ったのかも知れない。
当時の事情をもう一つの面から触れ、私のあのころの心情の側面を記しておこう。一億一心、大東亜共栄圏、鬼畜米英、国を挙げてこんなスローガンの下に老若男女をとわず戦闘体制にあった〝軍国日本〃の環境だった。学窓から戦地へ直行した学徒出陣組と同窓の私も、同じ日本の若人として、敵国に対する戦闘精神は誰にも負けないものを持っていた。軍国教育を受けた私は日本の軍人経験こそなかったものの、大義に殉ずる愛国魂を持ち、当然、敵国捕虜に積極的な協力をする心はなく、またそんな環境にはなかった。
そんなある日、中学時代の友が陸軍特別特攻隊長として敵地に突っ込み、戦死したニュースを知った。私の心情は〝敵憎し〟と高まるばかりだった。恐らく私だけでなく、あの時代に生きた日本人なら誰も同じ感情を抱いたことだろう。だから捕虜収容所内で、些細(ささい)な捕虜のことばや行為にも神経が高ぶり、つい捕虜の一人を平手打ちにしたこともあった。いま思うと冷静さを欠いた無思慮な過ちだった。終戦直後、彼がこんどは占領軍の一員として進駐してきた時、再会したが、招待されて食事をともにした際、私の方からその話を持ち出した。彼は収容所で起きたその件をとっくに忘れていたが「それぞれの立ち場、お互いの環境で起きた過去の悪夢に過ぎない。私の記憶にはまったくなかったが、いまそれを何とも思っていない。お互いはあの時から変わらぬ友人だ」といって笑って私に手を差しのべ、固い握手を交わしたことを思い出す。
いま考えると、戦時中のあの環境とはいえ、日本人、私の生一本な行為にくらべ、戦後、私に示してくれたアメリカ人、彼の態度に心の広さ、ゆとりを感じ、恥づかしい。彼我ともに、多くの人びとのなかには必ずしも同じ規範を保たず、さまざまな感情を持ち、いろいろな違った行動をする者もいるわけだが、いつの時代でも、どこでも1人間としての存在価値」を認め合うことの大切さを、いまひしひしと考えずにはおれない。
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第四章
間一髪まぬがれた巣鴨プリズン入り 威力ある異国の友情・その1
私の捕虜収容所での通訳としての業務も、二十年秋に捕虜たちが帰国したことで一応、終わった。所属する三菱鉱業生野・明延鉱業所で収容所関連の残務整理をして同鉱業所を退職、同年十一月中旬、大阪・堺市へ帰った。帰ったといっても、とくに就職のあてがあったわけではなく、戦災の大阪で一家が暮らすことは容易でない。むしろ田舎の兵庫県・生野町の方が戦災の影響も直接なくまだ多少、生活し易かった。だから当面、堺市の家の事情や自分の働き口がハッキリするまで家族は生野に残し、唯一人、帰阪した。
大阪市内から堺にかけては、かつての空爆で、ほとんど焼け野原といってよいほどの惨状だった。焼け跡のそこかしこで廃木を積み重ねただけの粗末な小屋に仮り住まいする人びと。焼けただれた土地を耕やして畑にする人。どこからか運んできた鍋《なべ》で炊とん《小麦粉の団子を浮かべた汁》をつくり、野天で立ち食いする一家。ヤミ市らしい場所で物売りする人、物欲し顔でうろつく人。うつろな眼で路傍にたたずむ母子…三か月前まで日の丸の旗の下、聖戦という名で一億決戦を誓っていた日本の、この変わりよう。生まれ、育ったわが郷土の荒廃ぶりに、悲しみと同時に情けない気持ちが先き立った。
幸いわが家周辺は直接の空爆被害もなく残っていた。わが家は借家ですでに他人が住みついていたので、無事だった妻の実家で唯一人、寝起きすることにした。「そのうち、どこかで働けるやろ」と運を天にまかせる気持ちで日を送らざるをえなかった。こちらの事情を、残した家族に知らせようにも、電話はまだ不通、郵便もいつ着くかわからない。気ばかりあせって悶々(もんもん) のうちに明け暮れていた。
そんな十二月も終わりに近づいたある日の午後だった。玄関に古びた国民服姿と巡査の制服を着た二人の男がやってきて 「小林一雄さんですね」とジロリと私をにらみつける。おっかぶせるように 「警察の者ですが、あす大阪府警察部 (現大阪府警本部) に出頭してください」 という。私には寝耳に水。何のことかわからず「一体、何があったんでっか? 私とかかわりのある事件でも起きたんでっか?」と戸惑い気味に尋ねた。「大したことじゃないんですが、あなたが捕虜収容所に勤務したことがあるので、戦争犯罪容疑の参考人として連合国占領軍総司令部(GHQ) の指示で聞きたいことがあるそうです。協力しないと大変なことになるのでぜひ出頭してください」 二人の男は語尾を強め、私のことばをさえぎるようにいって立ち去った。
「どうしてこの俺が戦争犯罪と関係があるのか?」 どうしても思い当たるフシがない。「人違いではないか? しかし捕虜収容所に勤めていた小林といっていたなあ」 ぁれこれ考えながら焼けた市内をうろついているうちに夜となり、帰宅して床についたものの、なかなか寝つかれなかった。
その翌朝。思い当たるフシがなくても、出頭してありのままをしゃべれば参考人としての役割りも果たせると、意外にサッパリした気分になれたのは不思議だった。家を出る直前になって「そうだ〝あれ〟を忘れてはダメだ。こんな時、何かの役に立つハズだ」 私はその〝あれ″を懐にして家を出た。
大阪府警察部に出頭すると、何の調べもなく「これから東京の連合軍総司令部に行ってもらいます。私ら二人が付き添いますのでよろしく」と、すぐ私服刑事二人が私の両脇にぴったりくっついて国鉄(JR)大阪駅へ。私の心臓はドキドキ。とにかく何のことかわからないまま、戦犯容疑調べのためのタイム・スケジュールはどんどん進んでいく。私の話すスキもない。それだけに不安はつのる一方だ。手錠こそかけられていないが、生まれてはじめての経験にモノいう力も出なかった。列車の中では、二人の刑事が私の気をまぎらわせるように、相談をしかけてきたが相手にする気も起きない。占領軍専用列車の急行便で東京に着いたのはその日夕方。市ヶ谷近くの河田町会館という戦犯証人関係者用の指定宿舎に泊った。
GHQの法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちは、この人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。
間一髪まぬがれた巣鴨プリズン入り 威力ある異国の友情・その1
私の捕虜収容所での通訳としての業務も、二十年秋に捕虜たちが帰国したことで一応、終わった。所属する三菱鉱業生野・明延鉱業所で収容所関連の残務整理をして同鉱業所を退職、同年十一月中旬、大阪・堺市へ帰った。帰ったといっても、とくに就職のあてがあったわけではなく、戦災の大阪で一家が暮らすことは容易でない。むしろ田舎の兵庫県・生野町の方が戦災の影響も直接なくまだ多少、生活し易かった。だから当面、堺市の家の事情や自分の働き口がハッキリするまで家族は生野に残し、唯一人、帰阪した。
大阪市内から堺にかけては、かつての空爆で、ほとんど焼け野原といってよいほどの惨状だった。焼け跡のそこかしこで廃木を積み重ねただけの粗末な小屋に仮り住まいする人びと。焼けただれた土地を耕やして畑にする人。どこからか運んできた鍋《なべ》で炊とん《小麦粉の団子を浮かべた汁》をつくり、野天で立ち食いする一家。ヤミ市らしい場所で物売りする人、物欲し顔でうろつく人。うつろな眼で路傍にたたずむ母子…三か月前まで日の丸の旗の下、聖戦という名で一億決戦を誓っていた日本の、この変わりよう。生まれ、育ったわが郷土の荒廃ぶりに、悲しみと同時に情けない気持ちが先き立った。
幸いわが家周辺は直接の空爆被害もなく残っていた。わが家は借家ですでに他人が住みついていたので、無事だった妻の実家で唯一人、寝起きすることにした。「そのうち、どこかで働けるやろ」と運を天にまかせる気持ちで日を送らざるをえなかった。こちらの事情を、残した家族に知らせようにも、電話はまだ不通、郵便もいつ着くかわからない。気ばかりあせって悶々(もんもん) のうちに明け暮れていた。
そんな十二月も終わりに近づいたある日の午後だった。玄関に古びた国民服姿と巡査の制服を着た二人の男がやってきて 「小林一雄さんですね」とジロリと私をにらみつける。おっかぶせるように 「警察の者ですが、あす大阪府警察部 (現大阪府警本部) に出頭してください」 という。私には寝耳に水。何のことかわからず「一体、何があったんでっか? 私とかかわりのある事件でも起きたんでっか?」と戸惑い気味に尋ねた。「大したことじゃないんですが、あなたが捕虜収容所に勤務したことがあるので、戦争犯罪容疑の参考人として連合国占領軍総司令部(GHQ) の指示で聞きたいことがあるそうです。協力しないと大変なことになるのでぜひ出頭してください」 二人の男は語尾を強め、私のことばをさえぎるようにいって立ち去った。
「どうしてこの俺が戦争犯罪と関係があるのか?」 どうしても思い当たるフシがない。「人違いではないか? しかし捕虜収容所に勤めていた小林といっていたなあ」 ぁれこれ考えながら焼けた市内をうろついているうちに夜となり、帰宅して床についたものの、なかなか寝つかれなかった。
その翌朝。思い当たるフシがなくても、出頭してありのままをしゃべれば参考人としての役割りも果たせると、意外にサッパリした気分になれたのは不思議だった。家を出る直前になって「そうだ〝あれ〟を忘れてはダメだ。こんな時、何かの役に立つハズだ」 私はその〝あれ″を懐にして家を出た。
大阪府警察部に出頭すると、何の調べもなく「これから東京の連合軍総司令部に行ってもらいます。私ら二人が付き添いますのでよろしく」と、すぐ私服刑事二人が私の両脇にぴったりくっついて国鉄(JR)大阪駅へ。私の心臓はドキドキ。とにかく何のことかわからないまま、戦犯容疑調べのためのタイム・スケジュールはどんどん進んでいく。私の話すスキもない。それだけに不安はつのる一方だ。手錠こそかけられていないが、生まれてはじめての経験にモノいう力も出なかった。列車の中では、二人の刑事が私の気をまぎらわせるように、相談をしかけてきたが相手にする気も起きない。占領軍専用列車の急行便で東京に着いたのはその日夕方。市ヶ谷近くの河田町会館という戦犯証人関係者用の指定宿舎に泊った。
GHQの法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちは、この人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。
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間一髪まぬがれた巣鴨プリズン入り 威力ある異国の友情・その2
その時だった。「コバヤシさーん、ファイヤー・ボール(収容時代に捕虜がつけた私のあだな)」英語なまりの日本語で私に話しかけるアメリカ陸軍の将校。顔をあげて驚いた。本当にびっくりした。あの生野の捕虜収容所で最高責任者だったフリニオ中佐(FLANKIN・M・FLINIAU)ではないか。しかもいまは「大佐」の肩章をつけている。「何の用でここにいる?」「いやー、戦争犯罪の容疑参考人として大阪から日本の警察官に連れてこられた」「君が戦争犯罪容疑?」「私にも理由がわからないが、総司令部の指示で出頭せよと警察官はいっていた。参考人というが、戦犯容疑と認められるとすぐ巣鴨拘置所に護送されるということだ。とにかく、何のことか、私にはサッパリわからないことばかりだ」私の声は滅入るようにか細かったと思う。
こんなヤリトリをしたが、フリニオ〝大佐″は「君がそんなことでここに来るのは当たらない。ちょっと待っておれ。ところで〝あれ〃を持っているか? 私が収容所で渡した私の手紙を」「あなたのいった通り、いつも忘れずに持っている」「出しなさい。私が出てくるまでここで待っていてくれ」私は、待ってましたとばかりに、家を出るとき懐にした彼の手紙とガルブレイス大尉(JOHN・M・GALBRAITH)が書いてくれた〝友情の手紙〟を手渡した。
フリニオ〝大佐"はそれをひったくるように受け取って小走りに法務部のある部屋に入っていった。
三十分も待っただろうか。フリニオ"大佐″は廊下でしょんぽりしている私のそばにやってきて「もう巣鴨へ行かなくていいよ。すぐ大阪へ帰ってもよい。君と戦争犯罪はまったく無関係だ。いや、むしろ私らの本当の友人だ」とニコニコしながらいう。そして彼の手紙だけはまた返してくれた。半信半疑の私は「本当にすぐ大阪へ帰ってよいのか?」「そうだ」「ありがとぅ。あなたのおかげで私のドキドキする心臓が鎮まった」 彼は具体的なことは何もいわなかったが恐らく、あの〝友情の手紙〃を証言として私の潔白を主張してくれたのだろう。〝地獄で仏〟とは文字通りこのことだ。私は彼の手を握りしめ、「本当に感謝します。ありがとう」と心からお礼をいった。並んで待つ他の人びとが不思議そうに眺めていたが、何とも気の毒に思えた。
「せっかく東京へ来たんだから、列車に乗るまでいっしょに食事をしよう」彼は私の背をたたきながら誘ってくれた。総司令部近くのアメリカ軍キャンプ内の食堂で豪華な夕食をご馳走になった。先ほどまでの不安も吹っ飛び、三時間ばかり、ゆったりしたリラックス・ムードのなかで、なつかしい話を交わした。彼は帰国前、すぐ連合軍総司令部勤務を命じられたようだ。本国への帰国を控えていたようで、軍服姿の大きな写真を贈ってくれた。
「大阪に帰っても仕事がないなら、在阪アメリカ占領軍でもう一度、通訳として働いた方がよい。大阪にはアメリカ第一軍団が駐留している。帰ったらすぐ私の手紙をもって同軍団司令部へ行くとよい」「そうしよう。あなたの手紙を持って、軍団とそこに働く日本人のお役に立つよう頑張ります。ありがとう」「ところで、収容所時代の君の役割は本当に重要だった。こんごそれに関連することで総司令部が参考意見を聞くことがあるかも知れないので、居所だけは常に明らかにしておいてくれ。もちろん、いかなることがあってももう君に不利になることは絶対にないのだから…」。
なつかしい対面と会食の時間を終わって、私は彼と再会を約しながら、夜行列車に乗り込み、大阪へ向かった。それにしても人間の一寸先はわからない。あの総司令部の廊下で彼、フリニオ〝大佐"に出合わなかったら、心に言…のやましいところがないとはいえ、私の運命はどうなっていただろう。あの廊下に並んでいた人びと、いやすでに巣鴨に拘置され、軍事法廷の裁きを受けた人の中にも、的確な証言が得られぬまま容疑をかけられ、心にもない罪を背負って受刑者の烙印《らくいん=焼印、罪人のしるし》を押された人があるのではないか。この疑問が一瞬、私の脳裏をかすめたのは、戦争という特殊な条件の犯罪を裁くという、いわば1勝者」と1敗者」の論理が存在すると思ったからか。幸い私はフリニオ〝大佐"という大きな恩人、よき友、よき証言者があの場に居合わせたおかげで即刻、何の調べもなく解放された。まさに〝天国″と〝地獄″の紙一重の差を味わった。それだけに余計に〝戦犯問題″を身近なこととして考えさせられるのである。
それにしても、その私とは対照的な人生の終幕を閉じた人のことが思い出される。戦後三年目。風の便りに聞いたことだが、-緒に働いていた先輩通訳は、捕虜虐待の罪で処刑されたという。-年ばかり一緒に働いたが、彼が捕虜を殴るなどの暴行現場を見たことはない。私に実用英語を教えてくれたり、捕虜のために所属会社にかけ合って日用品などの獲得に奔走したことを見聞したことはある。そんな彼が死刑という極刑をうけるとは。本当に理解に苦しむ。ここでも戦犯裁判の〝正当性"に多くの不満と疑問を抱かせる。彼と私の運命の落差に本当に驚き、涙なしには思い出せない。いま心から彼のご冥福《めいふく》を祈る者である。
その時だった。「コバヤシさーん、ファイヤー・ボール(収容時代に捕虜がつけた私のあだな)」英語なまりの日本語で私に話しかけるアメリカ陸軍の将校。顔をあげて驚いた。本当にびっくりした。あの生野の捕虜収容所で最高責任者だったフリニオ中佐(FLANKIN・M・FLINIAU)ではないか。しかもいまは「大佐」の肩章をつけている。「何の用でここにいる?」「いやー、戦争犯罪の容疑参考人として大阪から日本の警察官に連れてこられた」「君が戦争犯罪容疑?」「私にも理由がわからないが、総司令部の指示で出頭せよと警察官はいっていた。参考人というが、戦犯容疑と認められるとすぐ巣鴨拘置所に護送されるということだ。とにかく、何のことか、私にはサッパリわからないことばかりだ」私の声は滅入るようにか細かったと思う。
こんなヤリトリをしたが、フリニオ〝大佐″は「君がそんなことでここに来るのは当たらない。ちょっと待っておれ。ところで〝あれ〃を持っているか? 私が収容所で渡した私の手紙を」「あなたのいった通り、いつも忘れずに持っている」「出しなさい。私が出てくるまでここで待っていてくれ」私は、待ってましたとばかりに、家を出るとき懐にした彼の手紙とガルブレイス大尉(JOHN・M・GALBRAITH)が書いてくれた〝友情の手紙〟を手渡した。
フリニオ〝大佐"はそれをひったくるように受け取って小走りに法務部のある部屋に入っていった。
三十分も待っただろうか。フリニオ"大佐″は廊下でしょんぽりしている私のそばにやってきて「もう巣鴨へ行かなくていいよ。すぐ大阪へ帰ってもよい。君と戦争犯罪はまったく無関係だ。いや、むしろ私らの本当の友人だ」とニコニコしながらいう。そして彼の手紙だけはまた返してくれた。半信半疑の私は「本当にすぐ大阪へ帰ってよいのか?」「そうだ」「ありがとぅ。あなたのおかげで私のドキドキする心臓が鎮まった」 彼は具体的なことは何もいわなかったが恐らく、あの〝友情の手紙〃を証言として私の潔白を主張してくれたのだろう。〝地獄で仏〟とは文字通りこのことだ。私は彼の手を握りしめ、「本当に感謝します。ありがとう」と心からお礼をいった。並んで待つ他の人びとが不思議そうに眺めていたが、何とも気の毒に思えた。
「せっかく東京へ来たんだから、列車に乗るまでいっしょに食事をしよう」彼は私の背をたたきながら誘ってくれた。総司令部近くのアメリカ軍キャンプ内の食堂で豪華な夕食をご馳走になった。先ほどまでの不安も吹っ飛び、三時間ばかり、ゆったりしたリラックス・ムードのなかで、なつかしい話を交わした。彼は帰国前、すぐ連合軍総司令部勤務を命じられたようだ。本国への帰国を控えていたようで、軍服姿の大きな写真を贈ってくれた。
「大阪に帰っても仕事がないなら、在阪アメリカ占領軍でもう一度、通訳として働いた方がよい。大阪にはアメリカ第一軍団が駐留している。帰ったらすぐ私の手紙をもって同軍団司令部へ行くとよい」「そうしよう。あなたの手紙を持って、軍団とそこに働く日本人のお役に立つよう頑張ります。ありがとう」「ところで、収容所時代の君の役割は本当に重要だった。こんごそれに関連することで総司令部が参考意見を聞くことがあるかも知れないので、居所だけは常に明らかにしておいてくれ。もちろん、いかなることがあってももう君に不利になることは絶対にないのだから…」。
なつかしい対面と会食の時間を終わって、私は彼と再会を約しながら、夜行列車に乗り込み、大阪へ向かった。それにしても人間の一寸先はわからない。あの総司令部の廊下で彼、フリニオ〝大佐"に出合わなかったら、心に言…のやましいところがないとはいえ、私の運命はどうなっていただろう。あの廊下に並んでいた人びと、いやすでに巣鴨に拘置され、軍事法廷の裁きを受けた人の中にも、的確な証言が得られぬまま容疑をかけられ、心にもない罪を背負って受刑者の烙印《らくいん=焼印、罪人のしるし》を押された人があるのではないか。この疑問が一瞬、私の脳裏をかすめたのは、戦争という特殊な条件の犯罪を裁くという、いわば1勝者」と1敗者」の論理が存在すると思ったからか。幸い私はフリニオ〝大佐"という大きな恩人、よき友、よき証言者があの場に居合わせたおかげで即刻、何の調べもなく解放された。まさに〝天国″と〝地獄″の紙一重の差を味わった。それだけに余計に〝戦犯問題″を身近なこととして考えさせられるのである。
それにしても、その私とは対照的な人生の終幕を閉じた人のことが思い出される。戦後三年目。風の便りに聞いたことだが、-緒に働いていた先輩通訳は、捕虜虐待の罪で処刑されたという。-年ばかり一緒に働いたが、彼が捕虜を殴るなどの暴行現場を見たことはない。私に実用英語を教えてくれたり、捕虜のために所属会社にかけ合って日用品などの獲得に奔走したことを見聞したことはある。そんな彼が死刑という極刑をうけるとは。本当に理解に苦しむ。ここでも戦犯裁判の〝正当性"に多くの不満と疑問を抱かせる。彼と私の運命の落差に本当に驚き、涙なしには思い出せない。いま心から彼のご冥福《めいふく》を祈る者である。
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第五章
戦犯裁判をうけた捕虜収容所の日本人たち・その1
東京のGHQから帰阪した私は、フリニオ大佐との約束通り、翌日すぐ大阪エリアを占領統括するアメリカ陸軍第一軍団司令部(大阪市)を訪ねた。フリニオ大佐のしたためた〝手紙〟をみせ「通訳として就職したい」と告げると、応待に出た下級将校はけげんそうな顔つきで「待っていろ」といって奥に入っていった。しばらくして佐官級の将校が姿をみせ「わかった。就職OKだ。通訳が必要だった。お前の住所に近い堺市金岡町キャンプの情報部に勤務しろ」と、いとも簡単に手続きを終わった。その日から勤めはじめた。ここでもフリニオ〝大佐〟の〝手紙″の威力に感謝した。
ところで、通訳として、こんどは勝者のアメリカ軍キャンプに勤務することになったが、戦時中に捕虜収容所勤めを勝者の立場にあった私は、こんどはGHQからの要請で、敗者の側に立って何度も何度も〝戦犯裁判″の証人、参考人として出廷させられた。特定の戦犯容疑者に関連するものは少なく、私の勤めた掃虜収容所に関して捕虜の生活実態、日本軍側の対応、衣食住から強制労働にいたるさまざまな具体的な実情、捕虜との対話にいたるまで、記憶に残るわずかなことも微に入り、細にわたって質問をうけた。私は日本人として、戦時中の状況判断もふくめ、誠意をもって実情を正直に述べたつもりだ。
参考人、証人に対しても、こんなに突っ込んだ内容の質問が幾回となく繰り返されたのだから、容疑をかけられた人びとに対する尋問は相当、厳しかったのではないか。私の証人、参考人調査が、誰にどのように作用し、どんな判定につながったか知る由もないが、勝者の軍事法廷で行われた、敗者に対する裁判であったことは、まぎれもない事実だ。
私の身近にいた捕虜収容所時代の知人、友人ら仲間のなかにも、本人は「身に覚えがない」と断言しながら、当時の捕虜の簡単な証言一つで断罪された人がいる。
大阪捕虜収容所多奈川分所と同生野支所で管理運営担当の陸軍軍曹として勤務していた峰本善成さん(現在七十二歳)=奈良市東大路町=もその一人。終戦直後、捕虜虐待の疑いでGHQに逮捕され、C級戦犯として昭和二十六年(一九五一)一月まであの巣鴨拘置所につながれた。
峰本氏によると、多奈川分所に勤務していた十八年に一人のアメリカ兵捕虜の脱走事件が起きた。脱走しても逃げ通せない。日本人にみつかれば当時の状況からは殺されかねない。「何としても見つけ出さないと大変なことになる」と、関係者を動員して捜索中、ある民家から「食物をくれとアメリカ兵が立ち寄っている」との通報を受け、やっと連れ戻した。規則に従って営倉入りの処分を行った。
次の日、巡回して営倉前に行くと、日本軍の衛兵二、三人が彼を殴りつけている。峰本氏は「止めろ。そんなひどいことをしてはならない」と制止するためその輪の中に入っていった。上官である彼の命令に他の兵士も手を引き、おさまった。ところが、戦後、他の捕虜の勘違いで峰本氏は他の兵士に指示していっしょに殴りつけたと証言。そのことば一つで捕虜虐待の罪でC級戦犯として懲役十年の刑を言い渡された。しかし途中、恩赦で二十六年一月には釈放された。
「英語が十分に理解できないし、無実を訴えてもどうしても通らなかった。こわい裁判だった。巣鴨プリズン収容されていた期間中、私の心は不安と憤りで身の細る思いだった」と述懐している。
そのご、昭和五十九年(一九八四)秋、戦時中に多奈川分所に収容されていたアメリカ陸軍のブロードウォーター中尉(ROBER→・J・BROADWATER)=元コカコーラ本社副社長=が「峰本さんは捕虜たちに親切な人だったあの人が戦犯になることは考えられない。あの裁判は誤りだった」との手紙を、私を介して峰本さんに送ってきた。私はさっそく峰本さんに連絡、手渡した。峰本さんは「私の無実を証明してくれて嬉しい。もっと早く証明されていれば戦犯の十字架を背負わなくてもよかったのだが…それにしてもブロードウォーターさんらとは一緒に町に買いものに行き、憲兵《けんぺい=軍事警察》隊に叱られたこともあった。なつかしい人に無実を証明され、心から感謝している」 と感激していたことを思い出す。
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戦犯裁判をうけた捕虜収容所の日本人たち・その2
私と同じように多奈川の捕虜収容所で民間通訳をしていたT・Yさん(当時三十五歳ぐらい)は終戦直後にC級戦犯として裁かれ、巣鴨拘置所につながれたあと絞首刑を宣告され、刑死した一人だった。捕虜虐待が理由だった。
彼はイギリス生活が長く、太平洋戦争の開戦直後に帰国したが、もちろん英語はペラペラ。私のように下手な英語では足もとにも及ばない先輩だった。収容所では〝古参通訳〟として、下士官以下の捕虜の所外にある軍需工場での強制労働現場を所管していた。恐らく彼らと同じように流暢な英語が話せるため、スラングを使って冗談も思いっきり、いった反面、罵言雑言(ばりぞうごん)も思いのままに浴びせ、一部の捕虜からは敬遠されていたようだった。現場の一部の日本人監督や管理者の厳しい注文や捕虜に対する行為も、難なくそのままの口調で通訳し、捕虜にしてみれば、通訳というより直接、監督する厳しく、恐い人として映っていたのかも知れない。収容所内で彼らと雑談していて、たまに遠慮がちにこういう者もおり、なかには暴力を云々…と訴えた者もいたことを、いまになって思い出す。しかし、いずれも私は目撃していないので真相は不明だ。
Tさんのための法廷に私自身が証人として出廷したことはなかったが、収容所時代の仲間の幾人かは、巣鴨拘置所で彼と会っている。いずれも「かつての元気さはなく、つねに何かを念じるような、恐いような表情だった」といっていた。ただ、私自身、他の人の参考人として巣鴨を訪れた時、偶然、廊下でTさんに会ったことがある。その時はTさんも証人として来ているのかなあ、と思った。しかし、彼はアメリカ軍のMP(憲兵)に見守られての足早のすれ違いだったので、恐らくすでに判決が下っていたのか、審理の最中だったのか、いずれにしろ容疑者として収容されていた、と判断できた。そのすれ違いざまに私が「元気ですか? ここに来ているとは知りませんでした」というと、彼も私に会ったことに驚いた風情だったが、無表情に「元気でやれよ」と私にやさしくことばをかけて通り過ぎた。彼とはそれっきり。この世の彼との最後の別れになるとは予想もしなかった。それにしても絞首刑というのだから、容疑をかけられた内容は相当厳しいものだったと予想できるが、彼が断罪された刑を受けるようなことを、あの収容所時代にしたのだろうか。収容所の内と外で職場が違っていたのでわからないが、まだ半信半疑だというのが私の今の本心だ。もし、私とTさんの持ち場が変わって、私が現場通訳であったら…と思うと運命のいたずらにゾツとする。
このほかに収容所時代のN軍属の捕虜殴打事件が戦後、C級戦犯容疑の対象となった。その軍属の法廷に証人として引っ張り出された私だったが、まったく知らないことだったので「彼が捕虜を殴ったという事実は知りません」とキッパリ断言した。何が原因で、誰が悪いために殴打事件に発展したのかわからないが、まったく関係のない人でも証人として出廷させたあの軍事法廷のあり方には、どうしても疑問を持たざるをえない。証人に立たせる前にもっと入念な下調べが確実に行われ、証人としてどうしても必要だと判断した時点で呼び出すべきだろう。もっとも暴行の事実を知らないと断言した私のことばが、被告にとっては有利に取りあげられたのか、どうか、彼は「無罪」になったことを記憶している。同じ元の職場の同僚としてご同慶のいたりだった。
こんなこともあった。戦後、占領軍キャンプに通訳として勤めて間もないころだった。ある日、突然、アメリカのジープが私の家に横づけし、GHQ大阪分室の法務局所属の将校二人が私に会いたいと玄関に入ってきた。戦犯調査の検察側の将校だったが、私を確認すると、書類を差し出し「すぐサインして下さい」という。内容も読ませず、理由もいわずにサインの〝強制"だった。誰かがある容疑で起訴され、私がそれに関係していたのか、どうか、何かの参考人としてサインをさせられたのではなかったのか? 「内容を読ませてくれ」といってもそれには答えず、「何のためのサインか」と尋ねてもいっさいノーコメント。「サンキュー」といって風のように去っていった。いま思えば、例え占領軍とはいえ〝問答無用″の態度は解(げ)しかねる。何が何だかわからないままの私の記したあのサインが、誰だかわからない被告の座に据えられた人の罪刑に影響を与えていたとしたら、本当に恐ろしい。そうでなかったことを今も願う気持ちでいっぱいだ。罪は罪として、公正に判断される証拠を確実に整え、公平正大な審理によって、ふさわしい罪状の指摘と適正な罪刑が課せられるべきだろう。
あのころのことを思うと、本当に矛盾した渦中にあったと、つくづく考えさせられる。われわれ当時、捕虜収容所に〝職員″として勤務していた者は、時に日本人からも反感を抱かれ、時に交戦国の敵軍に対して個人的な戦意をグッと胸の中に抑えながらも、捕虜たちの安全を守るために心を痛めてきた、というのが偽りのない、一般的な心情だったと信じている。それが、終戦で主客が入れ変わった途端、収容所に勤務していたという事実だけで、すべての人が捕虜虐待の疑いをかけられる、裁かれる-何とも不合理ではないか。身に覚えのない人たちにとっては、泣くに泣けない、腹立たしさを感じるのは当然だ。
いまふり返って、私の身近に起きた終戦後の、あのC級戦犯の裁き方には何かと納得できないことが、さまざまな形で浮かびあがってくる。すべてとはいわないが、勝者の意のままに敗者を裁いた事実の多いものだったと、いわざるを得ない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」 このことばは、洋の古今東西を問わず通じる歴史の描く事実だと、つくづく思う私の体験だった。それにしても、この体験は〝敗戦″の切なさをしみじみと感じさせるものだった。いまとなっては、敗者は惨めだし、勝者もあと味の芳しくないことの多い戦後処理の一面だったように思われる。私たち人間の社会に、二度とあんな悲惨なことがあってはならない。
私と同じように多奈川の捕虜収容所で民間通訳をしていたT・Yさん(当時三十五歳ぐらい)は終戦直後にC級戦犯として裁かれ、巣鴨拘置所につながれたあと絞首刑を宣告され、刑死した一人だった。捕虜虐待が理由だった。
彼はイギリス生活が長く、太平洋戦争の開戦直後に帰国したが、もちろん英語はペラペラ。私のように下手な英語では足もとにも及ばない先輩だった。収容所では〝古参通訳〟として、下士官以下の捕虜の所外にある軍需工場での強制労働現場を所管していた。恐らく彼らと同じように流暢な英語が話せるため、スラングを使って冗談も思いっきり、いった反面、罵言雑言(ばりぞうごん)も思いのままに浴びせ、一部の捕虜からは敬遠されていたようだった。現場の一部の日本人監督や管理者の厳しい注文や捕虜に対する行為も、難なくそのままの口調で通訳し、捕虜にしてみれば、通訳というより直接、監督する厳しく、恐い人として映っていたのかも知れない。収容所内で彼らと雑談していて、たまに遠慮がちにこういう者もおり、なかには暴力を云々…と訴えた者もいたことを、いまになって思い出す。しかし、いずれも私は目撃していないので真相は不明だ。
Tさんのための法廷に私自身が証人として出廷したことはなかったが、収容所時代の仲間の幾人かは、巣鴨拘置所で彼と会っている。いずれも「かつての元気さはなく、つねに何かを念じるような、恐いような表情だった」といっていた。ただ、私自身、他の人の参考人として巣鴨を訪れた時、偶然、廊下でTさんに会ったことがある。その時はTさんも証人として来ているのかなあ、と思った。しかし、彼はアメリカ軍のMP(憲兵)に見守られての足早のすれ違いだったので、恐らくすでに判決が下っていたのか、審理の最中だったのか、いずれにしろ容疑者として収容されていた、と判断できた。そのすれ違いざまに私が「元気ですか? ここに来ているとは知りませんでした」というと、彼も私に会ったことに驚いた風情だったが、無表情に「元気でやれよ」と私にやさしくことばをかけて通り過ぎた。彼とはそれっきり。この世の彼との最後の別れになるとは予想もしなかった。それにしても絞首刑というのだから、容疑をかけられた内容は相当厳しいものだったと予想できるが、彼が断罪された刑を受けるようなことを、あの収容所時代にしたのだろうか。収容所の内と外で職場が違っていたのでわからないが、まだ半信半疑だというのが私の今の本心だ。もし、私とTさんの持ち場が変わって、私が現場通訳であったら…と思うと運命のいたずらにゾツとする。
このほかに収容所時代のN軍属の捕虜殴打事件が戦後、C級戦犯容疑の対象となった。その軍属の法廷に証人として引っ張り出された私だったが、まったく知らないことだったので「彼が捕虜を殴ったという事実は知りません」とキッパリ断言した。何が原因で、誰が悪いために殴打事件に発展したのかわからないが、まったく関係のない人でも証人として出廷させたあの軍事法廷のあり方には、どうしても疑問を持たざるをえない。証人に立たせる前にもっと入念な下調べが確実に行われ、証人としてどうしても必要だと判断した時点で呼び出すべきだろう。もっとも暴行の事実を知らないと断言した私のことばが、被告にとっては有利に取りあげられたのか、どうか、彼は「無罪」になったことを記憶している。同じ元の職場の同僚としてご同慶のいたりだった。
こんなこともあった。戦後、占領軍キャンプに通訳として勤めて間もないころだった。ある日、突然、アメリカのジープが私の家に横づけし、GHQ大阪分室の法務局所属の将校二人が私に会いたいと玄関に入ってきた。戦犯調査の検察側の将校だったが、私を確認すると、書類を差し出し「すぐサインして下さい」という。内容も読ませず、理由もいわずにサインの〝強制"だった。誰かがある容疑で起訴され、私がそれに関係していたのか、どうか、何かの参考人としてサインをさせられたのではなかったのか? 「内容を読ませてくれ」といってもそれには答えず、「何のためのサインか」と尋ねてもいっさいノーコメント。「サンキュー」といって風のように去っていった。いま思えば、例え占領軍とはいえ〝問答無用″の態度は解(げ)しかねる。何が何だかわからないままの私の記したあのサインが、誰だかわからない被告の座に据えられた人の罪刑に影響を与えていたとしたら、本当に恐ろしい。そうでなかったことを今も願う気持ちでいっぱいだ。罪は罪として、公正に判断される証拠を確実に整え、公平正大な審理によって、ふさわしい罪状の指摘と適正な罪刑が課せられるべきだろう。
あのころのことを思うと、本当に矛盾した渦中にあったと、つくづく考えさせられる。われわれ当時、捕虜収容所に〝職員″として勤務していた者は、時に日本人からも反感を抱かれ、時に交戦国の敵軍に対して個人的な戦意をグッと胸の中に抑えながらも、捕虜たちの安全を守るために心を痛めてきた、というのが偽りのない、一般的な心情だったと信じている。それが、終戦で主客が入れ変わった途端、収容所に勤務していたという事実だけで、すべての人が捕虜虐待の疑いをかけられる、裁かれる-何とも不合理ではないか。身に覚えのない人たちにとっては、泣くに泣けない、腹立たしさを感じるのは当然だ。
いまふり返って、私の身近に起きた終戦後の、あのC級戦犯の裁き方には何かと納得できないことが、さまざまな形で浮かびあがってくる。すべてとはいわないが、勝者の意のままに敗者を裁いた事実の多いものだったと、いわざるを得ない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」 このことばは、洋の古今東西を問わず通じる歴史の描く事実だと、つくづく思う私の体験だった。それにしても、この体験は〝敗戦″の切なさをしみじみと感じさせるものだった。いまとなっては、敗者は惨めだし、勝者もあと味の芳しくないことの多い戦後処理の一面だったように思われる。私たち人間の社会に、二度とあんな悲惨なことがあってはならない。
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第六章 考えさせられる〝捕虜の扱い"
彼我の収容所を比較して
〝戦争犯罪者″の汚名をきせられ、悶々(もんもん)の日を送ってきた峰本善成さん (前出)もいうように「戦争裁判は私の体験から勝者の論理で進められる」。同時に、戦時中の捕虜も敵という優位に立つものの管理下に置かれ、当然のようにきびしい制約が課せられるのは、彼我ともに同じだろう。
多奈川や生野の捕虜収容所で日本軍の管理の下で捕虜生活を送ったアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵もきびしい日本軍の制約下にあったことは否定できない。しかし、これは日本軍の捕虜になった者ばかりではない。太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜になった日本軍将兵の多くも同じような体験を味わったようだ。
日系二世で、戦時中にアメリカ本土のマッコイ、ケネディ両日本兵捕虜収容所に野戦将校として勤務した平出勝利(ひらいで・しようり)氏が「聞き書 目本人捕虜」(吹浦忠正著)で述ベているのをみても、そのことが想像できる。以下、同書を抜粋してそれらを眺めてみよう。
それによると、平出氏はマッコイ収容所で日本軍捕虜を担当する通訳だった当時、態度に問題のあった海軍兵曹が一人いたそうだ。おそらく平出氏を日本人だと思ってなれなれしくしたのだと前置きして「何かのときに〝そんなバカな″とその兵曹がいった。外国では〝バカ”ということばはよほどのときしか使わない。私はあとで日本で暮らすようになって知ったことだが〝バカ" と日本では何気なく使う。だが外国で〝バカ" といったらもうけんかです」。
そして「私は怒ったね(笑)。営倉に彼を送った。三日ぐらいだったが "バカな" といわれたことを司令官に話したら "そいつはケシカラン" と営倉行きになった。司令官のロジャー中佐と営倉に行って〝お前は何でここに入れられたか知ってるか″ときいたら、"バカという言葉を使ったからです" と素直に答えた。私もいささか大人気ないことをしたと思っている」と述べている。
さらにつづけて「言葉の問題はそんなに難しいということを若い人に知ってもらいたい。しかしそれ以前にもその兵曹は態度が大きくいやな奴と思っていた。今なら笑い話みたいな部分もあるが、それ以前の態度のこともあったからね。横柄でなかったら "バカな"といわれても、恐らく私にだって本心はわかっていただろう」と当時をふり返っている。
つまり、管理監督する立場のアメリカ軍側に立つ個人の主観的な意思一つで、日本軍捕虜は態度にいささか問題があったという前提つきで「営倉」行きという処罰を受けている。捕虜と戦犯について考える時、その扱い、対応、考え方は、それぞれの国の文化、教育、おかれている環境などの違いから程度の差はあっても、所詮は勝者と敗者の主客が入れ変わっただけの同じ結果になるのではなかろうか。
同じ著書のなかで平出氏はさらにいう。ケネディの日本人捕虜収容所当時のことを回顧して「松井少佐という、当時六十一、二歳のヨボヨボの人がいた。多少、葦禄(もうろく)したような感じで…帰国の少し前に司令官のテーラー大尉が収容所の事務所に連れて行き、いろいろといじめるみたいにやったことがある。通訳していたが、なぜこの大尉がいじめるのか理解できず、とても可哀そうだった」。
また、同収容所内のできごとについて次のようにもいっている。「梶島栄雄(よしお)海軍大尉が営倉入りした。頭のいい男で戦後は機械関係会社の社長をしていたが、英語もうまかった。だから通訳なしで営倉に入れられちゃった」。
これについて梶島民も同書の中でいっている。「ミッドウェー海戦の時、乗艦が沈むやいなや捕らえられた。ケネディ収容所で一週間ぐらい営倉に入れられた。米軍に反抗したり、器物を破壊したりといった、米軍刑法に違反したわけじゃない。(〝それではなぜ?″の問いに長い時間をおいて)キャンプ内でディクティターシップ(専制)を発揮したという理由で入れられた。
反論はしなかったが、はなはだ不納得だった。営倉にはいろんな人が入れられた。酒巻和男(太平洋戦開戦時、真珠湾の特潜攻撃で捕虜第一号となった元海軍少尉)も豊田穣(直木賞作家で戦時中ソロモン周辺で捕虜となった、酒巻氏と海兵同期の元海軍中尉)も経験している。
その豊田氏の弁を、同書は「マッコイとケネディ」という豊田氏の著書を引用して「全鋼鉄製の営倉の第一夜は、自殺を防ぐためベルトをはずされ、全裸にされる。これは寒さと共に心理的にもこたえた。夜、鉄板だけのベッドに寝ていると話に聞いたサソリが活動し始めた。尻のあたりがモゾモゾしたかと思うとピシリと刺す。指でつまんで鉄板にすりつぶす。寝ていると次々に刺されるので、止むを得ず立っている。いい恰好ではない」と紹介している。
もっとも、捕虜として好過された面もあった。平出氏が同じ書の中で次のようにいっている「広大なマッコイ(捕虜収容所)での捕虜の待遇は〝拘束された賓客″といってよく、日本食で私たち米軍人のそれより豪華。よく私たち二世は捕虜の食堂にごちそうになりに行ったものだ。ビールやタバコも支給され、他の国での捕虜の待遇にくらべ信じられないほどだった」。
同じアメリカ国内の捕虜収容所でも場所が違うと捕虜への対応も百八十度、変わったことがよくわかる。平出氏の回顧はつづく。「ケネディ(捕虜収容所)ではガラリと変わり、米軍当局は彼らに厳しく接した。少しでも規律違反があると、容赦なく冷たい監獄に全裸で入れた」いずれも昭和六十一年九月十八日付・朝日新聞掲載「戦争」から抜粋)。
戦時中、海軍特攻機の機長として第五次ブーゲンビル沖航空戦中に被弾して着水、漂流中にアメリカ軍に捕らえられた横山一吉・飛曹長がその著「忘れ得ぬ人々」で披露している一文が吹浦氏の書いた「聞き書 日本人捕虜」で次のように紹介されている。「(ケネディ捕虜収容所は)マッコイにくらべ食事の質も落ち、酒保もなく、タバコは配給制になった。点呼、服装検査も厳しく、PWマークが消えかかった服を着ていたり、ペティナイフの所持も凶器とみなされて、即座にサソリの出る独房へ入れられた。酒巻少尉、豊田中尉、はては (精神に障害を来たしている)相宗中佐まで些細なことを理由に、一週間以上の独房生活を送った。一片のパンと水しか与えられず、蒸し風呂のような暑さに衰弱して、よろけるような足取りで出所してきた」。
横山氏の一文は「ケネディの収容所長は長身のテーラー大尉で、有色人種に強い優越感を持っていた。そのうえ、米軍捕虜を日本軍が虐待したり、処刑している等の情報が入っていたので、その仇討ちをしてやる位の気でいるようだった」ともいっている。
豊田氏も、テーラー大尉について「聞き書…」の中で「彼は、通訳の二世から聞いた話では真珠湾攻撃のとき少佐で、守備隊の大隊長だったが、土曜の夜、市内(中略)…にいて駆けつけた時には攻撃が終っていた。彼は大尉に降格され、酒巻がケネディに着くと、その場から営倉に直行させ、三週間投獄した。その後も酒巻度々、投獄されていた」(「マッコイとケネディ」より)といっている。
このように、掃虜への対応は私の捕虜収容所の勤務時代の見聞もふくめて、彼我をとわず、それぞれの管理下で、ある時は収容所の建設場所により、ある場合は管理する側の個人意思により、差があったことがうかがえる。そこにはジュネーブ条約(捕虜条約)に従った措置がとられた反面、人道上、疑問をもたれるような厳しい規制があったことが、容易に推測されよう。
捕虜と、それを監視・管理する立場とでは、その時点における「敗者」「弱者」と「勝者」「強者」の論理が優先し、お互いに対決する。それは当然、勝敗を明らかにした戦争終結で行われる「戦争犯罪」という名の一斉摘発、そして断罪へとつづく。そこには敗者を無視した〝最終勝者のシナリオ″が、正邪善悪を越えた場で終始つきまとう。あまりにも悲しく、惨めな人類社会の、この進歩なき史実は、いつになったらピリオドを打つのだろうか。
人類社会の底流に潜む戦争理論は、その昔から変わることのない 「勝てば官軍」「力は正義」。戦勝国に、捕虜虐待の理由で〝戦犯処断″された捕虜収容所関係者がいるのを聞いたことがない。敗戦国・日本のこの種理由による戦犯者を例にみても勝った国の力が正義の名の下に〝正当化″されている、と指摘されても仕方のない現実が横たわっている。歴史はこの悲劇の上に次々とつくられてきたと、つくづく痛感させられる。
彼我の収容所を比較して
〝戦争犯罪者″の汚名をきせられ、悶々(もんもん)の日を送ってきた峰本善成さん (前出)もいうように「戦争裁判は私の体験から勝者の論理で進められる」。同時に、戦時中の捕虜も敵という優位に立つものの管理下に置かれ、当然のようにきびしい制約が課せられるのは、彼我ともに同じだろう。
多奈川や生野の捕虜収容所で日本軍の管理の下で捕虜生活を送ったアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵もきびしい日本軍の制約下にあったことは否定できない。しかし、これは日本軍の捕虜になった者ばかりではない。太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜になった日本軍将兵の多くも同じような体験を味わったようだ。
日系二世で、戦時中にアメリカ本土のマッコイ、ケネディ両日本兵捕虜収容所に野戦将校として勤務した平出勝利(ひらいで・しようり)氏が「聞き書 目本人捕虜」(吹浦忠正著)で述ベているのをみても、そのことが想像できる。以下、同書を抜粋してそれらを眺めてみよう。
それによると、平出氏はマッコイ収容所で日本軍捕虜を担当する通訳だった当時、態度に問題のあった海軍兵曹が一人いたそうだ。おそらく平出氏を日本人だと思ってなれなれしくしたのだと前置きして「何かのときに〝そんなバカな″とその兵曹がいった。外国では〝バカ”ということばはよほどのときしか使わない。私はあとで日本で暮らすようになって知ったことだが〝バカ" と日本では何気なく使う。だが外国で〝バカ" といったらもうけんかです」。
そして「私は怒ったね(笑)。営倉に彼を送った。三日ぐらいだったが "バカな" といわれたことを司令官に話したら "そいつはケシカラン" と営倉行きになった。司令官のロジャー中佐と営倉に行って〝お前は何でここに入れられたか知ってるか″ときいたら、"バカという言葉を使ったからです" と素直に答えた。私もいささか大人気ないことをしたと思っている」と述べている。
さらにつづけて「言葉の問題はそんなに難しいということを若い人に知ってもらいたい。しかしそれ以前にもその兵曹は態度が大きくいやな奴と思っていた。今なら笑い話みたいな部分もあるが、それ以前の態度のこともあったからね。横柄でなかったら "バカな"といわれても、恐らく私にだって本心はわかっていただろう」と当時をふり返っている。
つまり、管理監督する立場のアメリカ軍側に立つ個人の主観的な意思一つで、日本軍捕虜は態度にいささか問題があったという前提つきで「営倉」行きという処罰を受けている。捕虜と戦犯について考える時、その扱い、対応、考え方は、それぞれの国の文化、教育、おかれている環境などの違いから程度の差はあっても、所詮は勝者と敗者の主客が入れ変わっただけの同じ結果になるのではなかろうか。
同じ著書のなかで平出氏はさらにいう。ケネディの日本人捕虜収容所当時のことを回顧して「松井少佐という、当時六十一、二歳のヨボヨボの人がいた。多少、葦禄(もうろく)したような感じで…帰国の少し前に司令官のテーラー大尉が収容所の事務所に連れて行き、いろいろといじめるみたいにやったことがある。通訳していたが、なぜこの大尉がいじめるのか理解できず、とても可哀そうだった」。
また、同収容所内のできごとについて次のようにもいっている。「梶島栄雄(よしお)海軍大尉が営倉入りした。頭のいい男で戦後は機械関係会社の社長をしていたが、英語もうまかった。だから通訳なしで営倉に入れられちゃった」。
これについて梶島民も同書の中でいっている。「ミッドウェー海戦の時、乗艦が沈むやいなや捕らえられた。ケネディ収容所で一週間ぐらい営倉に入れられた。米軍に反抗したり、器物を破壊したりといった、米軍刑法に違反したわけじゃない。(〝それではなぜ?″の問いに長い時間をおいて)キャンプ内でディクティターシップ(専制)を発揮したという理由で入れられた。
反論はしなかったが、はなはだ不納得だった。営倉にはいろんな人が入れられた。酒巻和男(太平洋戦開戦時、真珠湾の特潜攻撃で捕虜第一号となった元海軍少尉)も豊田穣(直木賞作家で戦時中ソロモン周辺で捕虜となった、酒巻氏と海兵同期の元海軍中尉)も経験している。
その豊田氏の弁を、同書は「マッコイとケネディ」という豊田氏の著書を引用して「全鋼鉄製の営倉の第一夜は、自殺を防ぐためベルトをはずされ、全裸にされる。これは寒さと共に心理的にもこたえた。夜、鉄板だけのベッドに寝ていると話に聞いたサソリが活動し始めた。尻のあたりがモゾモゾしたかと思うとピシリと刺す。指でつまんで鉄板にすりつぶす。寝ていると次々に刺されるので、止むを得ず立っている。いい恰好ではない」と紹介している。
もっとも、捕虜として好過された面もあった。平出氏が同じ書の中で次のようにいっている「広大なマッコイ(捕虜収容所)での捕虜の待遇は〝拘束された賓客″といってよく、日本食で私たち米軍人のそれより豪華。よく私たち二世は捕虜の食堂にごちそうになりに行ったものだ。ビールやタバコも支給され、他の国での捕虜の待遇にくらべ信じられないほどだった」。
同じアメリカ国内の捕虜収容所でも場所が違うと捕虜への対応も百八十度、変わったことがよくわかる。平出氏の回顧はつづく。「ケネディ(捕虜収容所)ではガラリと変わり、米軍当局は彼らに厳しく接した。少しでも規律違反があると、容赦なく冷たい監獄に全裸で入れた」いずれも昭和六十一年九月十八日付・朝日新聞掲載「戦争」から抜粋)。
戦時中、海軍特攻機の機長として第五次ブーゲンビル沖航空戦中に被弾して着水、漂流中にアメリカ軍に捕らえられた横山一吉・飛曹長がその著「忘れ得ぬ人々」で披露している一文が吹浦氏の書いた「聞き書 日本人捕虜」で次のように紹介されている。「(ケネディ捕虜収容所は)マッコイにくらべ食事の質も落ち、酒保もなく、タバコは配給制になった。点呼、服装検査も厳しく、PWマークが消えかかった服を着ていたり、ペティナイフの所持も凶器とみなされて、即座にサソリの出る独房へ入れられた。酒巻少尉、豊田中尉、はては (精神に障害を来たしている)相宗中佐まで些細なことを理由に、一週間以上の独房生活を送った。一片のパンと水しか与えられず、蒸し風呂のような暑さに衰弱して、よろけるような足取りで出所してきた」。
横山氏の一文は「ケネディの収容所長は長身のテーラー大尉で、有色人種に強い優越感を持っていた。そのうえ、米軍捕虜を日本軍が虐待したり、処刑している等の情報が入っていたので、その仇討ちをしてやる位の気でいるようだった」ともいっている。
豊田氏も、テーラー大尉について「聞き書…」の中で「彼は、通訳の二世から聞いた話では真珠湾攻撃のとき少佐で、守備隊の大隊長だったが、土曜の夜、市内(中略)…にいて駆けつけた時には攻撃が終っていた。彼は大尉に降格され、酒巻がケネディに着くと、その場から営倉に直行させ、三週間投獄した。その後も酒巻度々、投獄されていた」(「マッコイとケネディ」より)といっている。
このように、掃虜への対応は私の捕虜収容所の勤務時代の見聞もふくめて、彼我をとわず、それぞれの管理下で、ある時は収容所の建設場所により、ある場合は管理する側の個人意思により、差があったことがうかがえる。そこにはジュネーブ条約(捕虜条約)に従った措置がとられた反面、人道上、疑問をもたれるような厳しい規制があったことが、容易に推測されよう。
捕虜と、それを監視・管理する立場とでは、その時点における「敗者」「弱者」と「勝者」「強者」の論理が優先し、お互いに対決する。それは当然、勝敗を明らかにした戦争終結で行われる「戦争犯罪」という名の一斉摘発、そして断罪へとつづく。そこには敗者を無視した〝最終勝者のシナリオ″が、正邪善悪を越えた場で終始つきまとう。あまりにも悲しく、惨めな人類社会の、この進歩なき史実は、いつになったらピリオドを打つのだろうか。
人類社会の底流に潜む戦争理論は、その昔から変わることのない 「勝てば官軍」「力は正義」。戦勝国に、捕虜虐待の理由で〝戦犯処断″された捕虜収容所関係者がいるのを聞いたことがない。敗戦国・日本のこの種理由による戦犯者を例にみても勝った国の力が正義の名の下に〝正当化″されている、と指摘されても仕方のない現実が横たわっている。歴史はこの悲劇の上に次々とつくられてきたと、つくづく痛感させられる。
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第七章 進駐軍通訳に転身
これが私の戦後の始まりだ・その1
太平洋戦争も終り、私の捕虜収容所勤務もピリオドを打ち、戦後の生活へとつづく。その第一歩は占領アメリカ軍キャンプで再び通訳としての勤務だった。大阪地区を中心に旧日本陸軍が管轄していた中部軍管区を受け持つ、アメリカ陸軍第一軍団に就職した前後の事情はすでに述べた。ここでは、アメリカ軍通訳時代の思い出をふり返ってみよう。
「それにしても、戦時中は弱い立ち場のアメリカ人、戦後は強い立ち場のアメリカ人、いずれも軍人相手に、よくよく緑があるなあ。主客が入れ変わった立ち場で通訳業を遂行するのだから、そのつもりで頑張らなくては…」というのが、戦後就職スタートでの私の偽りなき心境だった。だが、相手に対応する心構えには天と地の差があった。
昭和二十年(一九四五)十二月末だったから、文字通り終戦直後に得た職場だった。籍は大阪府の臨時嘱託という形で、待遇は同業の中でもっとも優遇され "一級通訳" あのころのアメリカ軍キャンプには、アメリカ生まれの若い日系二世を除いて日本人通訳はほとんどなく、阪神間に住む日本語の話せる外国人が雇われていた。だから旧日本軍や地元民との複雑な折衝には、日本人通訳がぜひ必要で珍重されたのだと思う。
第一軍団情報部に属し▽旧日本軍物資の調査、払い下げ▽財閥解体にからむ戦後の経済体制整備の準備▽教育改革の準備と調査▽旧日本軍の武装解除▽占領軍施設の調達、設営▽隠退蔵物資の摘発▽占領軍と日本人との各種トラブル調査▽日本政府・終戦連絡事務局(出先機関)との連絡調整-など多方面にわたる職務の通訳を担当した。通訳とはいえ、一部の業務では直接、調査などの仕事も行った。一部には利権がらみの事項もあったので、アメリカ軍担当官と日本側の業者関係者の間に立ってさまざまな人間の欲望図も見てきた。捕虜収容所とはまったく違ったいろいろな人間関係の側面をのぞくことができた。
年が明け、二十一年(-九四六)になると第一軍団直属の各部隊が各地に駐留、キメ細かな占領政策の実施、警備の先兵となった。私もこの年の初め、堺市金岡に進駐した同軍団直属の第九八師団第三八九歩兵連隊に転勤した。兵士たちの話では、この部隊は、アメリカ本土やハワイにあって日本本土攻略作戦の待機部隊だったので、召集兵中心の実戦未経験者ばかり。一度も実戦で砲火を交えたことのない比較的年齢の高い兵士が多かった。日本に無血上陸し、割りと日本人に友好的で寛大だった。日本人に良い印象を与えたインディアン・パッチをつけた第二線部隊だったと記憶する。
私ら通訳の待遇もよく、自宅-部隊間の通勤には兵士運転の専用ジープがあてがわれ、部隊内では将校食堂で将校と同じように並び、同じ食事をした。戦後の物資不足、食も不十分な時代だけに、高級な肉やミルク、コーヒー、パンなど豪華な軍隊将校食はありがたく、毎日の昼食時間が楽しみだった。夕方、帰宅時には将校用の各種嗜好品や食品類を手みやげにプレゼントしてくれた。また、勤務後はアメリカ兵の列に加って部隊内のPX (酒保) で、彼らと同じようにタバコやチョコレート、コーヒーなどを制限数量内で日本円で買うこともできた。通訳に対する特権で、感謝すべき厚遇だった。家族も大よろこびだった。
とにかく部隊全体が和やかで日本人にもやさしく接し、「よきアメリカ」と「アメリカヘの日本人の理解」 のPR役を率先して実行していた感があった。占領第一歩のアメリカとしての対日政策実現に緊急不可欠な側面だったと思う。一般市民に対しても日常の彼らの行為のなかでそれは示されていた。もっともアメリカ兵個人の教養、人間性の差から全部が全部、まったく同じというわけではなく、おしなべて平均してそうだったというわけである。
ある将校がジープで大きな道路を運転中、飛び出すように横断してきた男児をはねてしまった。交差点でもなく、信号もない場所だった。私も同乗していたが、その子ははねとばされ重傷を負った。緊急連絡業務の途中だったが、その将校はジープを停車させ、こどもを静かに乗せて近くの病院に運び込んだ。部隊名と氏名を告げ「できる限りの治療をしてくれ。治療費は全額、私が責任をもって支払う」 といい、立ち去った。それから毎日一、二回、病院に姿を見せてこどもを見舞い、そのつど、こどもの好きな食物や果物などを差し入れ、最後までめんどうをみていた。
もちろん、運転者の前方不注意もあったが、被害者もこどもとはいえ無謀だった。しかも終戦間もないころの占領軍だっただけに将校の行為は当然とはいえ、こどもの両親や市民の聞から感謝された。人間としての心やさしい行動-そこには、勝者の香りは見られなかった。第三八九歩兵連隊の兵士たちの日本人への思いやりを象徴するできごとの一つとして印象に残っている。
ある日、金剛山中の塹壕 (ざんごう) に集団で残り、未だ解散していなかった日本陸軍の大阪守備部隊に属する一部隊の武装解除と降伏説得が行われた。ジープ五台に分乗したアメリカ軍説得部隊は、少尉を隊長に、下士官二人、兵士十人、それぞれカービン銃を持つだけ。私は、日系二世の軍属に見せるためアメリカ軍の野戦服を着用して同行した。その少尉は 「日本軍人の名誉を尊重し、あくまでも話し合いで武器を放棄させろ」 と指示。私が仲に入って双方の隊長が塹壕前で現状を説明しながら話し合った。日本軍の隊長によると全員、召集兵部隊だった。
自分たちも召集兵であることを告げた少尉は 「お互い、精いっぱいやってきた。命を大切に新しい出発のために武器を渡しなさい」 と、諄々 (じゅんじゅん) と説得。その態度に日本軍側も軟化、すぐ全員が降伏、武器を近くの鎮守の森の一か所に集めてアメリカ軍側に引き渡した。あの時のアメリカ軍少尉は中年だったが、降伏説得にきた勝者の態度はみじんもみせなかった。温い人柄が日本軍側の決断を促したのだろう。
しかし、同じ降伏説得でも、スムーズにばかりはいかない。ある日、葛城山中に残留する日本軍部隊の説得に当たった。この時の日本軍隊長は若いパリパリの職業軍人の将校だった。恐らく陸士出身だったのだろう。どんなに説得しても降伏しない。ついには 「日本軍は最後まで陣地を死守する。降伏させたければ戦闘で決着をつけよ。降伏の説得は無用だ。戦死する覚悟もできている。君らが望むならすぐ射撃を開始する。イエスかノーか」 ときた。無血降伏をさせることを方針とするアメリカ軍の説得班は逆にびっくりしたり、恐れたりで、一言もなくあきらめて引き返した。私は日本軍側に背を向けて引き返すのが恐いくらいだった。そして次の日、こんどは機銃や火炎放射器の武装一個小隊が日本軍を包囲し 「一人も助からない。出てきなさい」と説得したが効き目はなかった。アメリカ軍側は発射は容易だが 「すでに戦争も終っており、人命を軽くみてはいけない」 と、その日もあきらめて下山。その翌日、こんどは同じ武装説得部隊が、日本軍側の中部軍高級参謀の著名人り降伏指令書を持って説得に当たった。イキのいい日本軍将校はこれを見て 「日本軍上官の命令書ならば…」 と一も二もなく、直立不動の姿勢で降伏を承諾。全員が武器を引き渡した。私は 「さすが日本軍人」 と、内心、喝采《かっさい》を叫ぶ思いで「敗れたりとはいえ、これぞ大和魂の真価だ」と感じた。だが、〝これが無用の死を選ばせた″〝誤った戦陣訓″の末路だったのだ。ともかく気の長い〝人命尊重作戦″がやっと効を奏したわけだが、もしあの時、アメリカ軍が占領軍の権威をカサに発砲していたら当然、日本軍側も発砲、平和がやっと実現した本土で悲惨な〝戦死者(?)″が多数出ていただろう。そしてそのご、日本人とアメリカ軍との感情のしこりも生まれ、占領政策に汚点を残したかも知れない。占領部隊の方針だったとはいえ比較的、温和な説得部隊だったから、結果は「良」とでたのだろう。
こんなこともあった。ある雨の降る真夜中。私の自宅近くで、はげしい降雨の中をアメリカ兵三人が傘も持たずにズブ濡《ぬ》れで歩いている。夜勤帰りの私が事情を聞くと 「許可を得て外出、遊んでいて遅くなったが部隊までは、まだ相当距離がある」という。気の毒になって 「私の家で雨やどりしなさい」 というと、三人はとてもよろこびついてきた。あのころ私が住んでいたのは二畳、三畳、六畳の狭い急造の市営住宅。ここは私ら夫婦と母、兄、叔母の五人が住んでいた。妻・尚子や母・幸はびっくりしながらも、気の毒がってすぐ湯をわかし体を拭き温め、衣服を乾かし、代りの下着を出して着せた。いつまでたっても雨は止みそうにない。もう午前二時を過ぎていた。「ついでに泊って行きなさい」と、そうでなくても狭いわが家に、大きなアメリカ兵三人を二畳の間に泊めた。毛布にくるまった三人は安心したのか大きないびきをかきながらも六時には起床。約四時間の仮眠ですっかり元気をとり戻していた。熱いコーヒーを飲ませた。彼らは「おかげで助かりました。ご親切を感謝します」と、ていねいに礼をいい、各自ポケットから出したカネを置いて帰ろうとした。そして再度「温い親切は永久に忘れません」といって出ていった。もちろん、私はそのカネを受け取らなかった。
私も、戦時中に捕虜収容所で勤めたこと、戦後のいま、キャンプ勤務をしていることなどをいろいろ話し、彼らもキャンプ生活や日本人との交際などについて和気あいあいと雑談した。だが、私の心の中は、相手は若い占領軍兵士、女性が三人もいる狭いところで雑居寝(ざこね)する恐さでいっぱいだった。神に祈る心で招じ入れた。結果はよかった。〝人間の心は誰でも通じ合うものだ″ とつくづく思った。
こんなことがあって半年後の二十一年秋には、第三八九歩兵連隊に代って第二五師団第六五工兵大隊が金岡キャンプにやってきた。この部隊はライトニング (稲妻) バッジと呼ばれ、フィリピン、沖縄戦を経験、日本軍と砲火を交えた歴戦の勇猛な第一線部隊だったと聞いた。全般的に粗野で日本人には冷く、占領軍の権威をつねに行動に示した。前の第三八九歩兵連隊とはまったく逆に思える部隊だった。〝実戦″の体験の有無の違いがそうさせたのだろうか。
われわれ通訳も、彼らに代ると同時に、ジープでの送迎は廃止、キャンプ内での食事もすべてアメリカ軍将兵が終了したあと、残り物を与えられた。当時、キャンプ内で日本語教師として招聘 (しょうへい) されていた旧大阪商大 (現大阪市大) の英文学の教授がいた。彼は大隊長に請われて日本語を教えるために来ていた優秀な人格者だったが、「食堂の外で立って食べろ」「カモン・グークス(乞食《こじき》!来い)」と兵士たちにいわれ、あまりのひどさに辞職してしまった。
一般道路をジープで走行中、こどもや老人、婦女子が前を歩いていても「ひいてしまえ!進め」 とわめく将兵が多く、同乗の私もヒヤヒヤさせられることが多かった。もちろん、実際にはね飛ばしたり、ひき殺すことはなかったが…。
ある日の夕方、キャンプの外で、兵士と日本女性が立ち話しながらもめているところへ私が出くわした。「どうした?手助けしようか?」と英語で話し近づく私に、その兵士は有無をいわせず「シャラップ(黙れ)」といって横っ面を思いきり殴る始末。私の眼鏡は吹っ飛び、なくなったが、何とも気の荒い兵士だった。
キャンプ内の物品倉庫で日本人労務者が盗みを働いた事件があった。それを見つけしだい、当直の兵士が射殺してしまった。泥棒行為の日本人はもちろん悪いが、射殺する前にもっと方法があったハズ。彼ら日本人労務者は毎月の給与意外(以外)に毎日、仕事を終ってゲートを出る時、少量の米をもらっていたが、それを与えるアメリカ兵の態度はまるで日本人を乞食扱い、日本国民全部が自由行動を許された〝捕虜″といった感じを覚えたものだ。捕虜収容所でも、日本軍兵士が捕虜に対してこんな威丈高な態度をとったことはなかったのに。
接収住宅の仕事もつらかった。大阪・泉州地区を最初から占領管轄していた第三八九大隊の駐留当時から、占領軍の妻帯者用住宅が問題になっていた。たまたま、堺市の浜寺や羽衣周辺の一等住宅地には戦災にもあわず高級の大きな邸宅がたくさん残っていた。アメリカ軍は下士官以上の妻帯者用にこれらの高級住宅を接収、改造して住むことになった。毎日、担当の将校、下士官が私を連れて物色に出向き、気に入った家を見つけると、自由に接収して居住の日本人を追い出した。その家の住人はただ泣き寝入りというありさまだった。占領軍は日本政府(終戦連絡事務局)との合意で「必要に応じて日本人の不動産を軍用に提供させることができる」ことになっていた。この通達は第三八九大隊でも第六五工兵大隊でも同じことだったが、住人には大きな犠牲だった。
これが私の戦後の始まりだ・その1
太平洋戦争も終り、私の捕虜収容所勤務もピリオドを打ち、戦後の生活へとつづく。その第一歩は占領アメリカ軍キャンプで再び通訳としての勤務だった。大阪地区を中心に旧日本陸軍が管轄していた中部軍管区を受け持つ、アメリカ陸軍第一軍団に就職した前後の事情はすでに述べた。ここでは、アメリカ軍通訳時代の思い出をふり返ってみよう。
「それにしても、戦時中は弱い立ち場のアメリカ人、戦後は強い立ち場のアメリカ人、いずれも軍人相手に、よくよく緑があるなあ。主客が入れ変わった立ち場で通訳業を遂行するのだから、そのつもりで頑張らなくては…」というのが、戦後就職スタートでの私の偽りなき心境だった。だが、相手に対応する心構えには天と地の差があった。
昭和二十年(一九四五)十二月末だったから、文字通り終戦直後に得た職場だった。籍は大阪府の臨時嘱託という形で、待遇は同業の中でもっとも優遇され "一級通訳" あのころのアメリカ軍キャンプには、アメリカ生まれの若い日系二世を除いて日本人通訳はほとんどなく、阪神間に住む日本語の話せる外国人が雇われていた。だから旧日本軍や地元民との複雑な折衝には、日本人通訳がぜひ必要で珍重されたのだと思う。
第一軍団情報部に属し▽旧日本軍物資の調査、払い下げ▽財閥解体にからむ戦後の経済体制整備の準備▽教育改革の準備と調査▽旧日本軍の武装解除▽占領軍施設の調達、設営▽隠退蔵物資の摘発▽占領軍と日本人との各種トラブル調査▽日本政府・終戦連絡事務局(出先機関)との連絡調整-など多方面にわたる職務の通訳を担当した。通訳とはいえ、一部の業務では直接、調査などの仕事も行った。一部には利権がらみの事項もあったので、アメリカ軍担当官と日本側の業者関係者の間に立ってさまざまな人間の欲望図も見てきた。捕虜収容所とはまったく違ったいろいろな人間関係の側面をのぞくことができた。
年が明け、二十一年(-九四六)になると第一軍団直属の各部隊が各地に駐留、キメ細かな占領政策の実施、警備の先兵となった。私もこの年の初め、堺市金岡に進駐した同軍団直属の第九八師団第三八九歩兵連隊に転勤した。兵士たちの話では、この部隊は、アメリカ本土やハワイにあって日本本土攻略作戦の待機部隊だったので、召集兵中心の実戦未経験者ばかり。一度も実戦で砲火を交えたことのない比較的年齢の高い兵士が多かった。日本に無血上陸し、割りと日本人に友好的で寛大だった。日本人に良い印象を与えたインディアン・パッチをつけた第二線部隊だったと記憶する。
私ら通訳の待遇もよく、自宅-部隊間の通勤には兵士運転の専用ジープがあてがわれ、部隊内では将校食堂で将校と同じように並び、同じ食事をした。戦後の物資不足、食も不十分な時代だけに、高級な肉やミルク、コーヒー、パンなど豪華な軍隊将校食はありがたく、毎日の昼食時間が楽しみだった。夕方、帰宅時には将校用の各種嗜好品や食品類を手みやげにプレゼントしてくれた。また、勤務後はアメリカ兵の列に加って部隊内のPX (酒保) で、彼らと同じようにタバコやチョコレート、コーヒーなどを制限数量内で日本円で買うこともできた。通訳に対する特権で、感謝すべき厚遇だった。家族も大よろこびだった。
とにかく部隊全体が和やかで日本人にもやさしく接し、「よきアメリカ」と「アメリカヘの日本人の理解」 のPR役を率先して実行していた感があった。占領第一歩のアメリカとしての対日政策実現に緊急不可欠な側面だったと思う。一般市民に対しても日常の彼らの行為のなかでそれは示されていた。もっともアメリカ兵個人の教養、人間性の差から全部が全部、まったく同じというわけではなく、おしなべて平均してそうだったというわけである。
ある将校がジープで大きな道路を運転中、飛び出すように横断してきた男児をはねてしまった。交差点でもなく、信号もない場所だった。私も同乗していたが、その子ははねとばされ重傷を負った。緊急連絡業務の途中だったが、その将校はジープを停車させ、こどもを静かに乗せて近くの病院に運び込んだ。部隊名と氏名を告げ「できる限りの治療をしてくれ。治療費は全額、私が責任をもって支払う」 といい、立ち去った。それから毎日一、二回、病院に姿を見せてこどもを見舞い、そのつど、こどもの好きな食物や果物などを差し入れ、最後までめんどうをみていた。
もちろん、運転者の前方不注意もあったが、被害者もこどもとはいえ無謀だった。しかも終戦間もないころの占領軍だっただけに将校の行為は当然とはいえ、こどもの両親や市民の聞から感謝された。人間としての心やさしい行動-そこには、勝者の香りは見られなかった。第三八九歩兵連隊の兵士たちの日本人への思いやりを象徴するできごとの一つとして印象に残っている。
ある日、金剛山中の塹壕 (ざんごう) に集団で残り、未だ解散していなかった日本陸軍の大阪守備部隊に属する一部隊の武装解除と降伏説得が行われた。ジープ五台に分乗したアメリカ軍説得部隊は、少尉を隊長に、下士官二人、兵士十人、それぞれカービン銃を持つだけ。私は、日系二世の軍属に見せるためアメリカ軍の野戦服を着用して同行した。その少尉は 「日本軍人の名誉を尊重し、あくまでも話し合いで武器を放棄させろ」 と指示。私が仲に入って双方の隊長が塹壕前で現状を説明しながら話し合った。日本軍の隊長によると全員、召集兵部隊だった。
自分たちも召集兵であることを告げた少尉は 「お互い、精いっぱいやってきた。命を大切に新しい出発のために武器を渡しなさい」 と、諄々 (じゅんじゅん) と説得。その態度に日本軍側も軟化、すぐ全員が降伏、武器を近くの鎮守の森の一か所に集めてアメリカ軍側に引き渡した。あの時のアメリカ軍少尉は中年だったが、降伏説得にきた勝者の態度はみじんもみせなかった。温い人柄が日本軍側の決断を促したのだろう。
しかし、同じ降伏説得でも、スムーズにばかりはいかない。ある日、葛城山中に残留する日本軍部隊の説得に当たった。この時の日本軍隊長は若いパリパリの職業軍人の将校だった。恐らく陸士出身だったのだろう。どんなに説得しても降伏しない。ついには 「日本軍は最後まで陣地を死守する。降伏させたければ戦闘で決着をつけよ。降伏の説得は無用だ。戦死する覚悟もできている。君らが望むならすぐ射撃を開始する。イエスかノーか」 ときた。無血降伏をさせることを方針とするアメリカ軍の説得班は逆にびっくりしたり、恐れたりで、一言もなくあきらめて引き返した。私は日本軍側に背を向けて引き返すのが恐いくらいだった。そして次の日、こんどは機銃や火炎放射器の武装一個小隊が日本軍を包囲し 「一人も助からない。出てきなさい」と説得したが効き目はなかった。アメリカ軍側は発射は容易だが 「すでに戦争も終っており、人命を軽くみてはいけない」 と、その日もあきらめて下山。その翌日、こんどは同じ武装説得部隊が、日本軍側の中部軍高級参謀の著名人り降伏指令書を持って説得に当たった。イキのいい日本軍将校はこれを見て 「日本軍上官の命令書ならば…」 と一も二もなく、直立不動の姿勢で降伏を承諾。全員が武器を引き渡した。私は 「さすが日本軍人」 と、内心、喝采《かっさい》を叫ぶ思いで「敗れたりとはいえ、これぞ大和魂の真価だ」と感じた。だが、〝これが無用の死を選ばせた″〝誤った戦陣訓″の末路だったのだ。ともかく気の長い〝人命尊重作戦″がやっと効を奏したわけだが、もしあの時、アメリカ軍が占領軍の権威をカサに発砲していたら当然、日本軍側も発砲、平和がやっと実現した本土で悲惨な〝戦死者(?)″が多数出ていただろう。そしてそのご、日本人とアメリカ軍との感情のしこりも生まれ、占領政策に汚点を残したかも知れない。占領部隊の方針だったとはいえ比較的、温和な説得部隊だったから、結果は「良」とでたのだろう。
こんなこともあった。ある雨の降る真夜中。私の自宅近くで、はげしい降雨の中をアメリカ兵三人が傘も持たずにズブ濡《ぬ》れで歩いている。夜勤帰りの私が事情を聞くと 「許可を得て外出、遊んでいて遅くなったが部隊までは、まだ相当距離がある」という。気の毒になって 「私の家で雨やどりしなさい」 というと、三人はとてもよろこびついてきた。あのころ私が住んでいたのは二畳、三畳、六畳の狭い急造の市営住宅。ここは私ら夫婦と母、兄、叔母の五人が住んでいた。妻・尚子や母・幸はびっくりしながらも、気の毒がってすぐ湯をわかし体を拭き温め、衣服を乾かし、代りの下着を出して着せた。いつまでたっても雨は止みそうにない。もう午前二時を過ぎていた。「ついでに泊って行きなさい」と、そうでなくても狭いわが家に、大きなアメリカ兵三人を二畳の間に泊めた。毛布にくるまった三人は安心したのか大きないびきをかきながらも六時には起床。約四時間の仮眠ですっかり元気をとり戻していた。熱いコーヒーを飲ませた。彼らは「おかげで助かりました。ご親切を感謝します」と、ていねいに礼をいい、各自ポケットから出したカネを置いて帰ろうとした。そして再度「温い親切は永久に忘れません」といって出ていった。もちろん、私はそのカネを受け取らなかった。
私も、戦時中に捕虜収容所で勤めたこと、戦後のいま、キャンプ勤務をしていることなどをいろいろ話し、彼らもキャンプ生活や日本人との交際などについて和気あいあいと雑談した。だが、私の心の中は、相手は若い占領軍兵士、女性が三人もいる狭いところで雑居寝(ざこね)する恐さでいっぱいだった。神に祈る心で招じ入れた。結果はよかった。〝人間の心は誰でも通じ合うものだ″ とつくづく思った。
こんなことがあって半年後の二十一年秋には、第三八九歩兵連隊に代って第二五師団第六五工兵大隊が金岡キャンプにやってきた。この部隊はライトニング (稲妻) バッジと呼ばれ、フィリピン、沖縄戦を経験、日本軍と砲火を交えた歴戦の勇猛な第一線部隊だったと聞いた。全般的に粗野で日本人には冷く、占領軍の権威をつねに行動に示した。前の第三八九歩兵連隊とはまったく逆に思える部隊だった。〝実戦″の体験の有無の違いがそうさせたのだろうか。
われわれ通訳も、彼らに代ると同時に、ジープでの送迎は廃止、キャンプ内での食事もすべてアメリカ軍将兵が終了したあと、残り物を与えられた。当時、キャンプ内で日本語教師として招聘 (しょうへい) されていた旧大阪商大 (現大阪市大) の英文学の教授がいた。彼は大隊長に請われて日本語を教えるために来ていた優秀な人格者だったが、「食堂の外で立って食べろ」「カモン・グークス(乞食《こじき》!来い)」と兵士たちにいわれ、あまりのひどさに辞職してしまった。
一般道路をジープで走行中、こどもや老人、婦女子が前を歩いていても「ひいてしまえ!進め」 とわめく将兵が多く、同乗の私もヒヤヒヤさせられることが多かった。もちろん、実際にはね飛ばしたり、ひき殺すことはなかったが…。
ある日の夕方、キャンプの外で、兵士と日本女性が立ち話しながらもめているところへ私が出くわした。「どうした?手助けしようか?」と英語で話し近づく私に、その兵士は有無をいわせず「シャラップ(黙れ)」といって横っ面を思いきり殴る始末。私の眼鏡は吹っ飛び、なくなったが、何とも気の荒い兵士だった。
キャンプ内の物品倉庫で日本人労務者が盗みを働いた事件があった。それを見つけしだい、当直の兵士が射殺してしまった。泥棒行為の日本人はもちろん悪いが、射殺する前にもっと方法があったハズ。彼ら日本人労務者は毎月の給与意外(以外)に毎日、仕事を終ってゲートを出る時、少量の米をもらっていたが、それを与えるアメリカ兵の態度はまるで日本人を乞食扱い、日本国民全部が自由行動を許された〝捕虜″といった感じを覚えたものだ。捕虜収容所でも、日本軍兵士が捕虜に対してこんな威丈高な態度をとったことはなかったのに。
接収住宅の仕事もつらかった。大阪・泉州地区を最初から占領管轄していた第三八九大隊の駐留当時から、占領軍の妻帯者用住宅が問題になっていた。たまたま、堺市の浜寺や羽衣周辺の一等住宅地には戦災にもあわず高級の大きな邸宅がたくさん残っていた。アメリカ軍は下士官以上の妻帯者用にこれらの高級住宅を接収、改造して住むことになった。毎日、担当の将校、下士官が私を連れて物色に出向き、気に入った家を見つけると、自由に接収して居住の日本人を追い出した。その家の住人はただ泣き寝入りというありさまだった。占領軍は日本政府(終戦連絡事務局)との合意で「必要に応じて日本人の不動産を軍用に提供させることができる」ことになっていた。この通達は第三八九大隊でも第六五工兵大隊でも同じことだったが、住人には大きな犠牲だった。
編集者
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第七章 進駐軍通訳に転身
これが私の戦後の始まりだ・その2
その彼らも、こうして接収する邸宅をお互い同士で奪い合っていた。まず上級の将校連中の間で競い、段々と下級者間でわれ先にと取り合う。入居するとアメリカ式に勝手に改造、日本式伝統の部屋はあとかたもなくなった。〝民家争奪戦〃のようすは、横で見ていて滑稽(こっけい)なほどだったが、彼ら同士は真剣だった。こんな不意打ちの邸宅接収に音をあげた住民たちは「せめて同居を条件に一部の部屋だけを使ってほしい」「他に住むところもない。接収を免じてほしい」と私にプレゼント品を持って懇請の仲介を依頼する人がふえてきた。会社経営者や地主ら金持ちが多かったが、どうにもならず、プレゼント品を返し、お引きとり願った。とにかく、敗者に選び、拒否する権利はなかった。心ある将兵の中には同居に応じる人もあったが、個人の人柄の問題だった。私自身も情けなかった。
とはいえ、接収住宅だけではアメリカ軍将兵の住宅需要を満たすことはできなかった。しばらくして広い浜寺公園を潰《つぶ》し、占領軍用住宅地に建設しなおす指令が出た。短期間にしゃれた大きな軍用住宅が完成し、彼ら占領軍妻帯者のほとんどはここへ受け入れた。だが、この建設に工事に当たっても受発注に利権がつきまとい、担当将校と日本側業者間の接待工作などが大っぴらに行われ、私ら選択も巻き込まれ、その対応には頭を痛めたことを覚えている。彼我ともに甘い汁を吸った関係者が多かったと思う。いつの時代にも、どこの社会にも絶えない〝賄賂《わいろ》合戦"が横行していた。
占領軍用のキャバレー設営の指令が出された。足場のよい大阪市の御堂筋沿いの大きな建て物を接収し改修した。すぐダンサー募集を開始したが、あのころ日本女性でダンスを踊れる人は少なかった。ちょっとでも経験したり、なかには未経験でも「知っている」と応募する若い女性がつめかけた。未復員の夫を待つ身で生活のためにという中高年の人妻も多かった。すべてはカネ…悲しい戦争直後の世相の一面だった。いわゆる〝パンパン"《=売笑婦》 の出現である。占領軍兵士の物資横流しも見聞した。神戸港から補給部隊のある大阪市の杉本町キャンプ(旧大阪商大学舎) に大型トラック数十台で各種物資を運搬していた。その途中でそのなかの一台が物資を積んだまま丸ごと消え、キャンプについて台数不足から事件が発覚する。恐らく途中、誰かの手引きで別の場所に運び売りさばいていたのだろう。誰がどんな方法で行ったのか知る由もなかった。
日本人が村ごと結束して占領軍に抵抗したこんな事件にも出くわした。中部地方の寒村で第一軍団管下のアメリカ兵が行方不明となり死体が海岸に浮き発見される事件が起きた。調査班が派遣され、私も同行を命じられた。小さな旅館に数日間、泊っての調査が行われたが、村民や駐在所の巡査、果ては村長にいたるまで参考質問しても犯人はわからなかった。通訳する私も困り果てた。いっさい地元の人は口を割らなかったからだ。真相は後日わかった。その兵士が村の若い娘に暴行したのを知った村民が兵士を殺し、仇《あだ》討ちしたというものだった。「占領軍といえども人道上、許せない。われわれは正当だ」と村民は結束したという。原因は占領軍兵士だったといえようが、彼我ともに悲しい事件だった。
教育改革を実施する準備に旧制中学校や旧制高女を巡回、教育方針や現状を調査したこともあった。教育担当将校やアメリカ人軍属の教育担当官らと巡回したが、わが母校の旧制大阪府立堺中学校(現三国丘高校)にも行った。私の恩師の一人がまだ同校で英語教師をしておりアメリカ側の要請で恩師にも通訳を依頼した。残念ながら読み、書きは大ベテランだが話すことが不得意だったので、思い余った恩師が卒直に謝り、私に通訳を逆依頼した。このことも戦後の学校英語教育のあり方の参考になった、とそのご、アメリカの担当官から聞かされた。あのころ、日本の学校英語は、読み書きは進んでいても会話、発音は大きく遅れ、十分話せる人は少ない時代だった。
占領軍に勤務するかたわら、特別に要請されて堺市内の警察署や税務署、堺市の河盛安之介市長の通訳をしたことも多かった。警察署では〝夜の女" 摘発、MPとの連絡調整。税務署では税務調査やヤミ酒醸造・販売事件と占領軍への連絡調整。市長の場合は占領軍に関連する各種イベントの通訳などだった。市長といえば戦後、間もなくある宮さまが堺市を訪問されることになり、金岡駐在のアメリカ軍の大隊長が「ぜひあいさつに殿下が部隊を訪れるよう措置してくれ」と市長に要請してきた。市長は「地方の大隊長にその必要はない」と強硬にこれを突つぱね、結局、市長のいう通りになった。後日、河盛市長や助役らはその大隊長以下、幹部将校を宴席に招いて丁重にもてなし1日本人の庶民感覚では皇室は特別のもので、もし貴殿のいう通りにしていたら、占領政策の実施にも悪い影響が出る恐れがあった」と説明した。大隊長も「日本人の国民感情を知らないで申し入れたことを反省している。ご協力への深い配慮に感謝する」と握手を交わしていた。列席した私ら通訳たちも両者の態度に感心した思い出が残っている。
新円と旧円の交換をめぐつてもいろいろなことがあった。日本政府に対して占領軍GHQからその交換の時期、方法などがサゼッションされたが、その情報を当時の政治家のなかには事前に知っている人がいた。彼らは占領軍関係者に近づいて事前に旧円でヤミ物資を安く仕入れ、新円交換後、高く売りつける〝ヤミ商人" と手を結ぶ人もあったと聞いた。具体的なことは寡聞にして知らない。悪徳商人や政治家の私腹肥やし、汚職の〝ネタ" は、いつの時代、どこでもあとを断たないものだ。
すべては終戦直後の混乱期の体験だった。新しい秩序が確立する前、古い秩序が破壊した直後、敗戦のショックを受けた日本人のすべてが生きることに精いっぱいの時期。明日への夢や希望を抱く余猶の生まれる余地どころではなかった時代だった。
それにしても、戦犯裁判の証人として呼び出されたり、アメリカ占領軍に勤務した時代は、アメリカ軍の指示に絶対服従せざるを得ない立ち場だった。その前の捕虜収容所時代の立ち場が逆だっただけに、強者・勝者と弱者敗者ということ、運命の皮肉を痛感させられた。相手はいずれもアメリカ兵。しかし、私は二つの立ち場ともお互いに "一人の人間" としてつき合い、眺め、ある時は批判し、ある時は反省しながら歩んだつもりだ。だから苦しく、にがい思い出もあったが、すべてが懐しい。いま、関係者の多くの顔が、名前も思い出せないまま、走馬灯のように脳裏をかすめていく。