捕虜と通訳 (小林 一雄) (52)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
第四章
間一髪まぬがれた巣鴨プリズン入り 威力ある異国の友情・その1
私の捕虜収容所での通訳としての業務も、二十年秋に捕虜たちが帰国したことで一応、終わった。所属する三菱鉱業生野・明延鉱業所で収容所関連の残務整理をして同鉱業所を退職、同年十一月中旬、大阪・堺市へ帰った。帰ったといっても、とくに就職のあてがあったわけではなく、戦災の大阪で一家が暮らすことは容易でない。むしろ田舎の兵庫県・生野町の方が戦災の影響も直接なくまだ多少、生活し易かった。だから当面、堺市の家の事情や自分の働き口がハッキリするまで家族は生野に残し、唯一人、帰阪した。
大阪市内から堺にかけては、かつての空爆で、ほとんど焼け野原といってよいほどの惨状だった。焼け跡のそこかしこで廃木を積み重ねただけの粗末な小屋に仮り住まいする人びと。焼けただれた土地を耕やして畑にする人。どこからか運んできた鍋《なべ》で炊とん《小麦粉の団子を浮かべた汁》をつくり、野天で立ち食いする一家。ヤミ市らしい場所で物売りする人、物欲し顔でうろつく人。うつろな眼で路傍にたたずむ母子…三か月前まで日の丸の旗の下、聖戦という名で一億決戦を誓っていた日本の、この変わりよう。生まれ、育ったわが郷土の荒廃ぶりに、悲しみと同時に情けない気持ちが先き立った。
幸いわが家周辺は直接の空爆被害もなく残っていた。わが家は借家ですでに他人が住みついていたので、無事だった妻の実家で唯一人、寝起きすることにした。「そのうち、どこかで働けるやろ」と運を天にまかせる気持ちで日を送らざるをえなかった。こちらの事情を、残した家族に知らせようにも、電話はまだ不通、郵便もいつ着くかわからない。気ばかりあせって悶々(もんもん) のうちに明け暮れていた。
そんな十二月も終わりに近づいたある日の午後だった。玄関に古びた国民服姿と巡査の制服を着た二人の男がやってきて 「小林一雄さんですね」とジロリと私をにらみつける。おっかぶせるように 「警察の者ですが、あす大阪府警察部 (現大阪府警本部) に出頭してください」 という。私には寝耳に水。何のことかわからず「一体、何があったんでっか? 私とかかわりのある事件でも起きたんでっか?」と戸惑い気味に尋ねた。「大したことじゃないんですが、あなたが捕虜収容所に勤務したことがあるので、戦争犯罪容疑の参考人として連合国占領軍総司令部(GHQ) の指示で聞きたいことがあるそうです。協力しないと大変なことになるのでぜひ出頭してください」 二人の男は語尾を強め、私のことばをさえぎるようにいって立ち去った。
「どうしてこの俺が戦争犯罪と関係があるのか?」 どうしても思い当たるフシがない。「人違いではないか? しかし捕虜収容所に勤めていた小林といっていたなあ」 ぁれこれ考えながら焼けた市内をうろついているうちに夜となり、帰宅して床についたものの、なかなか寝つかれなかった。
その翌朝。思い当たるフシがなくても、出頭してありのままをしゃべれば参考人としての役割りも果たせると、意外にサッパリした気分になれたのは不思議だった。家を出る直前になって「そうだ〝あれ〟を忘れてはダメだ。こんな時、何かの役に立つハズだ」 私はその〝あれ″を懐にして家を出た。
大阪府警察部に出頭すると、何の調べもなく「これから東京の連合軍総司令部に行ってもらいます。私ら二人が付き添いますのでよろしく」と、すぐ私服刑事二人が私の両脇にぴったりくっついて国鉄(JR)大阪駅へ。私の心臓はドキドキ。とにかく何のことかわからないまま、戦犯容疑調べのためのタイム・スケジュールはどんどん進んでいく。私の話すスキもない。それだけに不安はつのる一方だ。手錠こそかけられていないが、生まれてはじめての経験にモノいう力も出なかった。列車の中では、二人の刑事が私の気をまぎらわせるように、相談をしかけてきたが相手にする気も起きない。占領軍専用列車の急行便で東京に着いたのはその日夕方。市ヶ谷近くの河田町会館という戦犯証人関係者用の指定宿舎に泊った。
GHQの法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちは、この人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。
間一髪まぬがれた巣鴨プリズン入り 威力ある異国の友情・その1
私の捕虜収容所での通訳としての業務も、二十年秋に捕虜たちが帰国したことで一応、終わった。所属する三菱鉱業生野・明延鉱業所で収容所関連の残務整理をして同鉱業所を退職、同年十一月中旬、大阪・堺市へ帰った。帰ったといっても、とくに就職のあてがあったわけではなく、戦災の大阪で一家が暮らすことは容易でない。むしろ田舎の兵庫県・生野町の方が戦災の影響も直接なくまだ多少、生活し易かった。だから当面、堺市の家の事情や自分の働き口がハッキリするまで家族は生野に残し、唯一人、帰阪した。
大阪市内から堺にかけては、かつての空爆で、ほとんど焼け野原といってよいほどの惨状だった。焼け跡のそこかしこで廃木を積み重ねただけの粗末な小屋に仮り住まいする人びと。焼けただれた土地を耕やして畑にする人。どこからか運んできた鍋《なべ》で炊とん《小麦粉の団子を浮かべた汁》をつくり、野天で立ち食いする一家。ヤミ市らしい場所で物売りする人、物欲し顔でうろつく人。うつろな眼で路傍にたたずむ母子…三か月前まで日の丸の旗の下、聖戦という名で一億決戦を誓っていた日本の、この変わりよう。生まれ、育ったわが郷土の荒廃ぶりに、悲しみと同時に情けない気持ちが先き立った。
幸いわが家周辺は直接の空爆被害もなく残っていた。わが家は借家ですでに他人が住みついていたので、無事だった妻の実家で唯一人、寝起きすることにした。「そのうち、どこかで働けるやろ」と運を天にまかせる気持ちで日を送らざるをえなかった。こちらの事情を、残した家族に知らせようにも、電話はまだ不通、郵便もいつ着くかわからない。気ばかりあせって悶々(もんもん) のうちに明け暮れていた。
そんな十二月も終わりに近づいたある日の午後だった。玄関に古びた国民服姿と巡査の制服を着た二人の男がやってきて 「小林一雄さんですね」とジロリと私をにらみつける。おっかぶせるように 「警察の者ですが、あす大阪府警察部 (現大阪府警本部) に出頭してください」 という。私には寝耳に水。何のことかわからず「一体、何があったんでっか? 私とかかわりのある事件でも起きたんでっか?」と戸惑い気味に尋ねた。「大したことじゃないんですが、あなたが捕虜収容所に勤務したことがあるので、戦争犯罪容疑の参考人として連合国占領軍総司令部(GHQ) の指示で聞きたいことがあるそうです。協力しないと大変なことになるのでぜひ出頭してください」 二人の男は語尾を強め、私のことばをさえぎるようにいって立ち去った。
「どうしてこの俺が戦争犯罪と関係があるのか?」 どうしても思い当たるフシがない。「人違いではないか? しかし捕虜収容所に勤めていた小林といっていたなあ」 ぁれこれ考えながら焼けた市内をうろついているうちに夜となり、帰宅して床についたものの、なかなか寝つかれなかった。
その翌朝。思い当たるフシがなくても、出頭してありのままをしゃべれば参考人としての役割りも果たせると、意外にサッパリした気分になれたのは不思議だった。家を出る直前になって「そうだ〝あれ〟を忘れてはダメだ。こんな時、何かの役に立つハズだ」 私はその〝あれ″を懐にして家を出た。
大阪府警察部に出頭すると、何の調べもなく「これから東京の連合軍総司令部に行ってもらいます。私ら二人が付き添いますのでよろしく」と、すぐ私服刑事二人が私の両脇にぴったりくっついて国鉄(JR)大阪駅へ。私の心臓はドキドキ。とにかく何のことかわからないまま、戦犯容疑調べのためのタイム・スケジュールはどんどん進んでいく。私の話すスキもない。それだけに不安はつのる一方だ。手錠こそかけられていないが、生まれてはじめての経験にモノいう力も出なかった。列車の中では、二人の刑事が私の気をまぎらわせるように、相談をしかけてきたが相手にする気も起きない。占領軍専用列車の急行便で東京に着いたのはその日夕方。市ヶ谷近くの河田町会館という戦犯証人関係者用の指定宿舎に泊った。
GHQの法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちは、この人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。