捕虜と通訳 (小林 一雄) (55)
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編集者
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戦犯裁判をうけた捕虜収容所の日本人たち・その2
私と同じように多奈川の捕虜収容所で民間通訳をしていたT・Yさん(当時三十五歳ぐらい)は終戦直後にC級戦犯として裁かれ、巣鴨拘置所につながれたあと絞首刑を宣告され、刑死した一人だった。捕虜虐待が理由だった。
彼はイギリス生活が長く、太平洋戦争の開戦直後に帰国したが、もちろん英語はペラペラ。私のように下手な英語では足もとにも及ばない先輩だった。収容所では〝古参通訳〟として、下士官以下の捕虜の所外にある軍需工場での強制労働現場を所管していた。恐らく彼らと同じように流暢な英語が話せるため、スラングを使って冗談も思いっきり、いった反面、罵言雑言(ばりぞうごん)も思いのままに浴びせ、一部の捕虜からは敬遠されていたようだった。現場の一部の日本人監督や管理者の厳しい注文や捕虜に対する行為も、難なくそのままの口調で通訳し、捕虜にしてみれば、通訳というより直接、監督する厳しく、恐い人として映っていたのかも知れない。収容所内で彼らと雑談していて、たまに遠慮がちにこういう者もおり、なかには暴力を云々…と訴えた者もいたことを、いまになって思い出す。しかし、いずれも私は目撃していないので真相は不明だ。
Tさんのための法廷に私自身が証人として出廷したことはなかったが、収容所時代の仲間の幾人かは、巣鴨拘置所で彼と会っている。いずれも「かつての元気さはなく、つねに何かを念じるような、恐いような表情だった」といっていた。ただ、私自身、他の人の参考人として巣鴨を訪れた時、偶然、廊下でTさんに会ったことがある。その時はTさんも証人として来ているのかなあ、と思った。しかし、彼はアメリカ軍のMP(憲兵)に見守られての足早のすれ違いだったので、恐らくすでに判決が下っていたのか、審理の最中だったのか、いずれにしろ容疑者として収容されていた、と判断できた。そのすれ違いざまに私が「元気ですか? ここに来ているとは知りませんでした」というと、彼も私に会ったことに驚いた風情だったが、無表情に「元気でやれよ」と私にやさしくことばをかけて通り過ぎた。彼とはそれっきり。この世の彼との最後の別れになるとは予想もしなかった。それにしても絞首刑というのだから、容疑をかけられた内容は相当厳しいものだったと予想できるが、彼が断罪された刑を受けるようなことを、あの収容所時代にしたのだろうか。収容所の内と外で職場が違っていたのでわからないが、まだ半信半疑だというのが私の今の本心だ。もし、私とTさんの持ち場が変わって、私が現場通訳であったら…と思うと運命のいたずらにゾツとする。
このほかに収容所時代のN軍属の捕虜殴打事件が戦後、C級戦犯容疑の対象となった。その軍属の法廷に証人として引っ張り出された私だったが、まったく知らないことだったので「彼が捕虜を殴ったという事実は知りません」とキッパリ断言した。何が原因で、誰が悪いために殴打事件に発展したのかわからないが、まったく関係のない人でも証人として出廷させたあの軍事法廷のあり方には、どうしても疑問を持たざるをえない。証人に立たせる前にもっと入念な下調べが確実に行われ、証人としてどうしても必要だと判断した時点で呼び出すべきだろう。もっとも暴行の事実を知らないと断言した私のことばが、被告にとっては有利に取りあげられたのか、どうか、彼は「無罪」になったことを記憶している。同じ元の職場の同僚としてご同慶のいたりだった。
こんなこともあった。戦後、占領軍キャンプに通訳として勤めて間もないころだった。ある日、突然、アメリカのジープが私の家に横づけし、GHQ大阪分室の法務局所属の将校二人が私に会いたいと玄関に入ってきた。戦犯調査の検察側の将校だったが、私を確認すると、書類を差し出し「すぐサインして下さい」という。内容も読ませず、理由もいわずにサインの〝強制"だった。誰かがある容疑で起訴され、私がそれに関係していたのか、どうか、何かの参考人としてサインをさせられたのではなかったのか? 「内容を読ませてくれ」といってもそれには答えず、「何のためのサインか」と尋ねてもいっさいノーコメント。「サンキュー」といって風のように去っていった。いま思えば、例え占領軍とはいえ〝問答無用″の態度は解(げ)しかねる。何が何だかわからないままの私の記したあのサインが、誰だかわからない被告の座に据えられた人の罪刑に影響を与えていたとしたら、本当に恐ろしい。そうでなかったことを今も願う気持ちでいっぱいだ。罪は罪として、公正に判断される証拠を確実に整え、公平正大な審理によって、ふさわしい罪状の指摘と適正な罪刑が課せられるべきだろう。
あのころのことを思うと、本当に矛盾した渦中にあったと、つくづく考えさせられる。われわれ当時、捕虜収容所に〝職員″として勤務していた者は、時に日本人からも反感を抱かれ、時に交戦国の敵軍に対して個人的な戦意をグッと胸の中に抑えながらも、捕虜たちの安全を守るために心を痛めてきた、というのが偽りのない、一般的な心情だったと信じている。それが、終戦で主客が入れ変わった途端、収容所に勤務していたという事実だけで、すべての人が捕虜虐待の疑いをかけられる、裁かれる-何とも不合理ではないか。身に覚えのない人たちにとっては、泣くに泣けない、腹立たしさを感じるのは当然だ。
いまふり返って、私の身近に起きた終戦後の、あのC級戦犯の裁き方には何かと納得できないことが、さまざまな形で浮かびあがってくる。すべてとはいわないが、勝者の意のままに敗者を裁いた事実の多いものだったと、いわざるを得ない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」 このことばは、洋の古今東西を問わず通じる歴史の描く事実だと、つくづく思う私の体験だった。それにしても、この体験は〝敗戦″の切なさをしみじみと感じさせるものだった。いまとなっては、敗者は惨めだし、勝者もあと味の芳しくないことの多い戦後処理の一面だったように思われる。私たち人間の社会に、二度とあんな悲惨なことがあってはならない。
私と同じように多奈川の捕虜収容所で民間通訳をしていたT・Yさん(当時三十五歳ぐらい)は終戦直後にC級戦犯として裁かれ、巣鴨拘置所につながれたあと絞首刑を宣告され、刑死した一人だった。捕虜虐待が理由だった。
彼はイギリス生活が長く、太平洋戦争の開戦直後に帰国したが、もちろん英語はペラペラ。私のように下手な英語では足もとにも及ばない先輩だった。収容所では〝古参通訳〟として、下士官以下の捕虜の所外にある軍需工場での強制労働現場を所管していた。恐らく彼らと同じように流暢な英語が話せるため、スラングを使って冗談も思いっきり、いった反面、罵言雑言(ばりぞうごん)も思いのままに浴びせ、一部の捕虜からは敬遠されていたようだった。現場の一部の日本人監督や管理者の厳しい注文や捕虜に対する行為も、難なくそのままの口調で通訳し、捕虜にしてみれば、通訳というより直接、監督する厳しく、恐い人として映っていたのかも知れない。収容所内で彼らと雑談していて、たまに遠慮がちにこういう者もおり、なかには暴力を云々…と訴えた者もいたことを、いまになって思い出す。しかし、いずれも私は目撃していないので真相は不明だ。
Tさんのための法廷に私自身が証人として出廷したことはなかったが、収容所時代の仲間の幾人かは、巣鴨拘置所で彼と会っている。いずれも「かつての元気さはなく、つねに何かを念じるような、恐いような表情だった」といっていた。ただ、私自身、他の人の参考人として巣鴨を訪れた時、偶然、廊下でTさんに会ったことがある。その時はTさんも証人として来ているのかなあ、と思った。しかし、彼はアメリカ軍のMP(憲兵)に見守られての足早のすれ違いだったので、恐らくすでに判決が下っていたのか、審理の最中だったのか、いずれにしろ容疑者として収容されていた、と判断できた。そのすれ違いざまに私が「元気ですか? ここに来ているとは知りませんでした」というと、彼も私に会ったことに驚いた風情だったが、無表情に「元気でやれよ」と私にやさしくことばをかけて通り過ぎた。彼とはそれっきり。この世の彼との最後の別れになるとは予想もしなかった。それにしても絞首刑というのだから、容疑をかけられた内容は相当厳しいものだったと予想できるが、彼が断罪された刑を受けるようなことを、あの収容所時代にしたのだろうか。収容所の内と外で職場が違っていたのでわからないが、まだ半信半疑だというのが私の今の本心だ。もし、私とTさんの持ち場が変わって、私が現場通訳であったら…と思うと運命のいたずらにゾツとする。
このほかに収容所時代のN軍属の捕虜殴打事件が戦後、C級戦犯容疑の対象となった。その軍属の法廷に証人として引っ張り出された私だったが、まったく知らないことだったので「彼が捕虜を殴ったという事実は知りません」とキッパリ断言した。何が原因で、誰が悪いために殴打事件に発展したのかわからないが、まったく関係のない人でも証人として出廷させたあの軍事法廷のあり方には、どうしても疑問を持たざるをえない。証人に立たせる前にもっと入念な下調べが確実に行われ、証人としてどうしても必要だと判断した時点で呼び出すべきだろう。もっとも暴行の事実を知らないと断言した私のことばが、被告にとっては有利に取りあげられたのか、どうか、彼は「無罪」になったことを記憶している。同じ元の職場の同僚としてご同慶のいたりだった。
こんなこともあった。戦後、占領軍キャンプに通訳として勤めて間もないころだった。ある日、突然、アメリカのジープが私の家に横づけし、GHQ大阪分室の法務局所属の将校二人が私に会いたいと玄関に入ってきた。戦犯調査の検察側の将校だったが、私を確認すると、書類を差し出し「すぐサインして下さい」という。内容も読ませず、理由もいわずにサインの〝強制"だった。誰かがある容疑で起訴され、私がそれに関係していたのか、どうか、何かの参考人としてサインをさせられたのではなかったのか? 「内容を読ませてくれ」といってもそれには答えず、「何のためのサインか」と尋ねてもいっさいノーコメント。「サンキュー」といって風のように去っていった。いま思えば、例え占領軍とはいえ〝問答無用″の態度は解(げ)しかねる。何が何だかわからないままの私の記したあのサインが、誰だかわからない被告の座に据えられた人の罪刑に影響を与えていたとしたら、本当に恐ろしい。そうでなかったことを今も願う気持ちでいっぱいだ。罪は罪として、公正に判断される証拠を確実に整え、公平正大な審理によって、ふさわしい罪状の指摘と適正な罪刑が課せられるべきだろう。
あのころのことを思うと、本当に矛盾した渦中にあったと、つくづく考えさせられる。われわれ当時、捕虜収容所に〝職員″として勤務していた者は、時に日本人からも反感を抱かれ、時に交戦国の敵軍に対して個人的な戦意をグッと胸の中に抑えながらも、捕虜たちの安全を守るために心を痛めてきた、というのが偽りのない、一般的な心情だったと信じている。それが、終戦で主客が入れ変わった途端、収容所に勤務していたという事実だけで、すべての人が捕虜虐待の疑いをかけられる、裁かれる-何とも不合理ではないか。身に覚えのない人たちにとっては、泣くに泣けない、腹立たしさを感じるのは当然だ。
いまふり返って、私の身近に起きた終戦後の、あのC級戦犯の裁き方には何かと納得できないことが、さまざまな形で浮かびあがってくる。すべてとはいわないが、勝者の意のままに敗者を裁いた事実の多いものだったと、いわざるを得ない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」 このことばは、洋の古今東西を問わず通じる歴史の描く事実だと、つくづく思う私の体験だった。それにしても、この体験は〝敗戦″の切なさをしみじみと感じさせるものだった。いまとなっては、敗者は惨めだし、勝者もあと味の芳しくないことの多い戦後処理の一面だったように思われる。私たち人間の社会に、二度とあんな悲惨なことがあってはならない。