捕虜と通訳 (小林 一雄) (51)
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第三章 贈られた友情の「身分保証文」・その3
このほかにも、あの捕虜収容所時代に知り合ったアメリカ将兵の幾人かからも同じょうな私信を受け取った。結局、彼らは敗戦後の日本が連合軍の統治下となり、いままでの日本の体制下生きてきたものには、あらゆる面で苦しく辛い生活を強いられざるを得ないことを予測していた。このためその渦中に生きざるをえない私のことを案じ、就職についても有利であるようにとしたためてくれた手紙だった。また万一、捕虜収容所に勤務していたとの理由で私が連合軍総司令部から戦犯容疑者として呼び出しがあった場合に、当時の証言として私に有利な材料になることを祈っての手紙だった。
このほか通訳としての特技があるため連合軍キャンプに就職した場合には、私個人が経済的に有利になるようにと、具体的な業務をあげて専用業者になる権利を与えるよう訴える推薦書を添付してくれた手紙もあった。例えばアメリカ軍占領軍のキャンプ建設の請負権とか、旧日本軍から接収した物件の払い下げを受ける優先権などを具体的に列挙してくれていた。もちろん、若僧の私には当時、それを利用する考えはまったくなく、単なる精神的な感謝以外、なす術もなく、この種の推薦書はホゴと化してしまった。「もったいないことをしたものだ」と、いまとなっては友人によくからかわれるが…。
何はともあれ、いま思い出すと、あの収容所時代の捕虜たちが、私をこんなに熱い眼で観察していたことに驚くと同時に、過分な評価に一面では心恥ずかしく、他面では心から感激している。くどいけれども、私自身、あの収容所で彼らが評価してくれたような行為を意識して、何かを期待して行ったことは一度もない。無意識、無欲の行為だっただけに、彼らの胸を打ったのかも知れない。
当時の事情をもう一つの面から触れ、私のあのころの心情の側面を記しておこう。一億一心、大東亜共栄圏、鬼畜米英、国を挙げてこんなスローガンの下に老若男女をとわず戦闘体制にあった〝軍国日本〃の環境だった。学窓から戦地へ直行した学徒出陣組と同窓の私も、同じ日本の若人として、敵国に対する戦闘精神は誰にも負けないものを持っていた。軍国教育を受けた私は日本の軍人経験こそなかったものの、大義に殉ずる愛国魂を持ち、当然、敵国捕虜に積極的な協力をする心はなく、またそんな環境にはなかった。
そんなある日、中学時代の友が陸軍特別特攻隊長として敵地に突っ込み、戦死したニュースを知った。私の心情は〝敵憎し〟と高まるばかりだった。恐らく私だけでなく、あの時代に生きた日本人なら誰も同じ感情を抱いたことだろう。だから捕虜収容所内で、些細(ささい)な捕虜のことばや行為にも神経が高ぶり、つい捕虜の一人を平手打ちにしたこともあった。いま思うと冷静さを欠いた無思慮な過ちだった。終戦直後、彼がこんどは占領軍の一員として進駐してきた時、再会したが、招待されて食事をともにした際、私の方からその話を持ち出した。彼は収容所で起きたその件をとっくに忘れていたが「それぞれの立ち場、お互いの環境で起きた過去の悪夢に過ぎない。私の記憶にはまったくなかったが、いまそれを何とも思っていない。お互いはあの時から変わらぬ友人だ」といって笑って私に手を差しのべ、固い握手を交わしたことを思い出す。
いま考えると、戦時中のあの環境とはいえ、日本人、私の生一本な行為にくらべ、戦後、私に示してくれたアメリカ人、彼の態度に心の広さ、ゆとりを感じ、恥づかしい。彼我ともに、多くの人びとのなかには必ずしも同じ規範を保たず、さまざまな感情を持ち、いろいろな違った行動をする者もいるわけだが、いつの時代でも、どこでも1人間としての存在価値」を認め合うことの大切さを、いまひしひしと考えずにはおれない。
このほかにも、あの捕虜収容所時代に知り合ったアメリカ将兵の幾人かからも同じょうな私信を受け取った。結局、彼らは敗戦後の日本が連合軍の統治下となり、いままでの日本の体制下生きてきたものには、あらゆる面で苦しく辛い生活を強いられざるを得ないことを予測していた。このためその渦中に生きざるをえない私のことを案じ、就職についても有利であるようにとしたためてくれた手紙だった。また万一、捕虜収容所に勤務していたとの理由で私が連合軍総司令部から戦犯容疑者として呼び出しがあった場合に、当時の証言として私に有利な材料になることを祈っての手紙だった。
このほか通訳としての特技があるため連合軍キャンプに就職した場合には、私個人が経済的に有利になるようにと、具体的な業務をあげて専用業者になる権利を与えるよう訴える推薦書を添付してくれた手紙もあった。例えばアメリカ軍占領軍のキャンプ建設の請負権とか、旧日本軍から接収した物件の払い下げを受ける優先権などを具体的に列挙してくれていた。もちろん、若僧の私には当時、それを利用する考えはまったくなく、単なる精神的な感謝以外、なす術もなく、この種の推薦書はホゴと化してしまった。「もったいないことをしたものだ」と、いまとなっては友人によくからかわれるが…。
何はともあれ、いま思い出すと、あの収容所時代の捕虜たちが、私をこんなに熱い眼で観察していたことに驚くと同時に、過分な評価に一面では心恥ずかしく、他面では心から感激している。くどいけれども、私自身、あの収容所で彼らが評価してくれたような行為を意識して、何かを期待して行ったことは一度もない。無意識、無欲の行為だっただけに、彼らの胸を打ったのかも知れない。
当時の事情をもう一つの面から触れ、私のあのころの心情の側面を記しておこう。一億一心、大東亜共栄圏、鬼畜米英、国を挙げてこんなスローガンの下に老若男女をとわず戦闘体制にあった〝軍国日本〃の環境だった。学窓から戦地へ直行した学徒出陣組と同窓の私も、同じ日本の若人として、敵国に対する戦闘精神は誰にも負けないものを持っていた。軍国教育を受けた私は日本の軍人経験こそなかったものの、大義に殉ずる愛国魂を持ち、当然、敵国捕虜に積極的な協力をする心はなく、またそんな環境にはなかった。
そんなある日、中学時代の友が陸軍特別特攻隊長として敵地に突っ込み、戦死したニュースを知った。私の心情は〝敵憎し〟と高まるばかりだった。恐らく私だけでなく、あの時代に生きた日本人なら誰も同じ感情を抱いたことだろう。だから捕虜収容所内で、些細(ささい)な捕虜のことばや行為にも神経が高ぶり、つい捕虜の一人を平手打ちにしたこともあった。いま思うと冷静さを欠いた無思慮な過ちだった。終戦直後、彼がこんどは占領軍の一員として進駐してきた時、再会したが、招待されて食事をともにした際、私の方からその話を持ち出した。彼は収容所で起きたその件をとっくに忘れていたが「それぞれの立ち場、お互いの環境で起きた過去の悪夢に過ぎない。私の記憶にはまったくなかったが、いまそれを何とも思っていない。お互いはあの時から変わらぬ友人だ」といって笑って私に手を差しのべ、固い握手を交わしたことを思い出す。
いま考えると、戦時中のあの環境とはいえ、日本人、私の生一本な行為にくらべ、戦後、私に示してくれたアメリカ人、彼の態度に心の広さ、ゆとりを感じ、恥づかしい。彼我ともに、多くの人びとのなかには必ずしも同じ規範を保たず、さまざまな感情を持ち、いろいろな違った行動をする者もいるわけだが、いつの時代でも、どこでも1人間としての存在価値」を認め合うことの大切さを、いまひしひしと考えずにはおれない。