捕虜と通訳 (小林 一雄) (56)
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編集者
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第六章 考えさせられる〝捕虜の扱い"
彼我の収容所を比較して
〝戦争犯罪者″の汚名をきせられ、悶々(もんもん)の日を送ってきた峰本善成さん (前出)もいうように「戦争裁判は私の体験から勝者の論理で進められる」。同時に、戦時中の捕虜も敵という優位に立つものの管理下に置かれ、当然のようにきびしい制約が課せられるのは、彼我ともに同じだろう。
多奈川や生野の捕虜収容所で日本軍の管理の下で捕虜生活を送ったアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵もきびしい日本軍の制約下にあったことは否定できない。しかし、これは日本軍の捕虜になった者ばかりではない。太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜になった日本軍将兵の多くも同じような体験を味わったようだ。
日系二世で、戦時中にアメリカ本土のマッコイ、ケネディ両日本兵捕虜収容所に野戦将校として勤務した平出勝利(ひらいで・しようり)氏が「聞き書 目本人捕虜」(吹浦忠正著)で述ベているのをみても、そのことが想像できる。以下、同書を抜粋してそれらを眺めてみよう。
それによると、平出氏はマッコイ収容所で日本軍捕虜を担当する通訳だった当時、態度に問題のあった海軍兵曹が一人いたそうだ。おそらく平出氏を日本人だと思ってなれなれしくしたのだと前置きして「何かのときに〝そんなバカな″とその兵曹がいった。外国では〝バカ”ということばはよほどのときしか使わない。私はあとで日本で暮らすようになって知ったことだが〝バカ" と日本では何気なく使う。だが外国で〝バカ" といったらもうけんかです」。
そして「私は怒ったね(笑)。営倉に彼を送った。三日ぐらいだったが "バカな" といわれたことを司令官に話したら "そいつはケシカラン" と営倉行きになった。司令官のロジャー中佐と営倉に行って〝お前は何でここに入れられたか知ってるか″ときいたら、"バカという言葉を使ったからです" と素直に答えた。私もいささか大人気ないことをしたと思っている」と述べている。
さらにつづけて「言葉の問題はそんなに難しいということを若い人に知ってもらいたい。しかしそれ以前にもその兵曹は態度が大きくいやな奴と思っていた。今なら笑い話みたいな部分もあるが、それ以前の態度のこともあったからね。横柄でなかったら "バカな"といわれても、恐らく私にだって本心はわかっていただろう」と当時をふり返っている。
つまり、管理監督する立場のアメリカ軍側に立つ個人の主観的な意思一つで、日本軍捕虜は態度にいささか問題があったという前提つきで「営倉」行きという処罰を受けている。捕虜と戦犯について考える時、その扱い、対応、考え方は、それぞれの国の文化、教育、おかれている環境などの違いから程度の差はあっても、所詮は勝者と敗者の主客が入れ変わっただけの同じ結果になるのではなかろうか。
同じ著書のなかで平出氏はさらにいう。ケネディの日本人捕虜収容所当時のことを回顧して「松井少佐という、当時六十一、二歳のヨボヨボの人がいた。多少、葦禄(もうろく)したような感じで…帰国の少し前に司令官のテーラー大尉が収容所の事務所に連れて行き、いろいろといじめるみたいにやったことがある。通訳していたが、なぜこの大尉がいじめるのか理解できず、とても可哀そうだった」。
また、同収容所内のできごとについて次のようにもいっている。「梶島栄雄(よしお)海軍大尉が営倉入りした。頭のいい男で戦後は機械関係会社の社長をしていたが、英語もうまかった。だから通訳なしで営倉に入れられちゃった」。
これについて梶島民も同書の中でいっている。「ミッドウェー海戦の時、乗艦が沈むやいなや捕らえられた。ケネディ収容所で一週間ぐらい営倉に入れられた。米軍に反抗したり、器物を破壊したりといった、米軍刑法に違反したわけじゃない。(〝それではなぜ?″の問いに長い時間をおいて)キャンプ内でディクティターシップ(専制)を発揮したという理由で入れられた。
反論はしなかったが、はなはだ不納得だった。営倉にはいろんな人が入れられた。酒巻和男(太平洋戦開戦時、真珠湾の特潜攻撃で捕虜第一号となった元海軍少尉)も豊田穣(直木賞作家で戦時中ソロモン周辺で捕虜となった、酒巻氏と海兵同期の元海軍中尉)も経験している。
その豊田氏の弁を、同書は「マッコイとケネディ」という豊田氏の著書を引用して「全鋼鉄製の営倉の第一夜は、自殺を防ぐためベルトをはずされ、全裸にされる。これは寒さと共に心理的にもこたえた。夜、鉄板だけのベッドに寝ていると話に聞いたサソリが活動し始めた。尻のあたりがモゾモゾしたかと思うとピシリと刺す。指でつまんで鉄板にすりつぶす。寝ていると次々に刺されるので、止むを得ず立っている。いい恰好ではない」と紹介している。
もっとも、捕虜として好過された面もあった。平出氏が同じ書の中で次のようにいっている「広大なマッコイ(捕虜収容所)での捕虜の待遇は〝拘束された賓客″といってよく、日本食で私たち米軍人のそれより豪華。よく私たち二世は捕虜の食堂にごちそうになりに行ったものだ。ビールやタバコも支給され、他の国での捕虜の待遇にくらべ信じられないほどだった」。
同じアメリカ国内の捕虜収容所でも場所が違うと捕虜への対応も百八十度、変わったことがよくわかる。平出氏の回顧はつづく。「ケネディ(捕虜収容所)ではガラリと変わり、米軍当局は彼らに厳しく接した。少しでも規律違反があると、容赦なく冷たい監獄に全裸で入れた」いずれも昭和六十一年九月十八日付・朝日新聞掲載「戦争」から抜粋)。
戦時中、海軍特攻機の機長として第五次ブーゲンビル沖航空戦中に被弾して着水、漂流中にアメリカ軍に捕らえられた横山一吉・飛曹長がその著「忘れ得ぬ人々」で披露している一文が吹浦氏の書いた「聞き書 日本人捕虜」で次のように紹介されている。「(ケネディ捕虜収容所は)マッコイにくらべ食事の質も落ち、酒保もなく、タバコは配給制になった。点呼、服装検査も厳しく、PWマークが消えかかった服を着ていたり、ペティナイフの所持も凶器とみなされて、即座にサソリの出る独房へ入れられた。酒巻少尉、豊田中尉、はては (精神に障害を来たしている)相宗中佐まで些細なことを理由に、一週間以上の独房生活を送った。一片のパンと水しか与えられず、蒸し風呂のような暑さに衰弱して、よろけるような足取りで出所してきた」。
横山氏の一文は「ケネディの収容所長は長身のテーラー大尉で、有色人種に強い優越感を持っていた。そのうえ、米軍捕虜を日本軍が虐待したり、処刑している等の情報が入っていたので、その仇討ちをしてやる位の気でいるようだった」ともいっている。
豊田氏も、テーラー大尉について「聞き書…」の中で「彼は、通訳の二世から聞いた話では真珠湾攻撃のとき少佐で、守備隊の大隊長だったが、土曜の夜、市内(中略)…にいて駆けつけた時には攻撃が終っていた。彼は大尉に降格され、酒巻がケネディに着くと、その場から営倉に直行させ、三週間投獄した。その後も酒巻度々、投獄されていた」(「マッコイとケネディ」より)といっている。
このように、掃虜への対応は私の捕虜収容所の勤務時代の見聞もふくめて、彼我をとわず、それぞれの管理下で、ある時は収容所の建設場所により、ある場合は管理する側の個人意思により、差があったことがうかがえる。そこにはジュネーブ条約(捕虜条約)に従った措置がとられた反面、人道上、疑問をもたれるような厳しい規制があったことが、容易に推測されよう。
捕虜と、それを監視・管理する立場とでは、その時点における「敗者」「弱者」と「勝者」「強者」の論理が優先し、お互いに対決する。それは当然、勝敗を明らかにした戦争終結で行われる「戦争犯罪」という名の一斉摘発、そして断罪へとつづく。そこには敗者を無視した〝最終勝者のシナリオ″が、正邪善悪を越えた場で終始つきまとう。あまりにも悲しく、惨めな人類社会の、この進歩なき史実は、いつになったらピリオドを打つのだろうか。
人類社会の底流に潜む戦争理論は、その昔から変わることのない 「勝てば官軍」「力は正義」。戦勝国に、捕虜虐待の理由で〝戦犯処断″された捕虜収容所関係者がいるのを聞いたことがない。敗戦国・日本のこの種理由による戦犯者を例にみても勝った国の力が正義の名の下に〝正当化″されている、と指摘されても仕方のない現実が横たわっている。歴史はこの悲劇の上に次々とつくられてきたと、つくづく痛感させられる。
彼我の収容所を比較して
〝戦争犯罪者″の汚名をきせられ、悶々(もんもん)の日を送ってきた峰本善成さん (前出)もいうように「戦争裁判は私の体験から勝者の論理で進められる」。同時に、戦時中の捕虜も敵という優位に立つものの管理下に置かれ、当然のようにきびしい制約が課せられるのは、彼我ともに同じだろう。
多奈川や生野の捕虜収容所で日本軍の管理の下で捕虜生活を送ったアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵もきびしい日本軍の制約下にあったことは否定できない。しかし、これは日本軍の捕虜になった者ばかりではない。太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜になった日本軍将兵の多くも同じような体験を味わったようだ。
日系二世で、戦時中にアメリカ本土のマッコイ、ケネディ両日本兵捕虜収容所に野戦将校として勤務した平出勝利(ひらいで・しようり)氏が「聞き書 目本人捕虜」(吹浦忠正著)で述ベているのをみても、そのことが想像できる。以下、同書を抜粋してそれらを眺めてみよう。
それによると、平出氏はマッコイ収容所で日本軍捕虜を担当する通訳だった当時、態度に問題のあった海軍兵曹が一人いたそうだ。おそらく平出氏を日本人だと思ってなれなれしくしたのだと前置きして「何かのときに〝そんなバカな″とその兵曹がいった。外国では〝バカ”ということばはよほどのときしか使わない。私はあとで日本で暮らすようになって知ったことだが〝バカ" と日本では何気なく使う。だが外国で〝バカ" といったらもうけんかです」。
そして「私は怒ったね(笑)。営倉に彼を送った。三日ぐらいだったが "バカな" といわれたことを司令官に話したら "そいつはケシカラン" と営倉行きになった。司令官のロジャー中佐と営倉に行って〝お前は何でここに入れられたか知ってるか″ときいたら、"バカという言葉を使ったからです" と素直に答えた。私もいささか大人気ないことをしたと思っている」と述べている。
さらにつづけて「言葉の問題はそんなに難しいということを若い人に知ってもらいたい。しかしそれ以前にもその兵曹は態度が大きくいやな奴と思っていた。今なら笑い話みたいな部分もあるが、それ以前の態度のこともあったからね。横柄でなかったら "バカな"といわれても、恐らく私にだって本心はわかっていただろう」と当時をふり返っている。
つまり、管理監督する立場のアメリカ軍側に立つ個人の主観的な意思一つで、日本軍捕虜は態度にいささか問題があったという前提つきで「営倉」行きという処罰を受けている。捕虜と戦犯について考える時、その扱い、対応、考え方は、それぞれの国の文化、教育、おかれている環境などの違いから程度の差はあっても、所詮は勝者と敗者の主客が入れ変わっただけの同じ結果になるのではなかろうか。
同じ著書のなかで平出氏はさらにいう。ケネディの日本人捕虜収容所当時のことを回顧して「松井少佐という、当時六十一、二歳のヨボヨボの人がいた。多少、葦禄(もうろく)したような感じで…帰国の少し前に司令官のテーラー大尉が収容所の事務所に連れて行き、いろいろといじめるみたいにやったことがある。通訳していたが、なぜこの大尉がいじめるのか理解できず、とても可哀そうだった」。
また、同収容所内のできごとについて次のようにもいっている。「梶島栄雄(よしお)海軍大尉が営倉入りした。頭のいい男で戦後は機械関係会社の社長をしていたが、英語もうまかった。だから通訳なしで営倉に入れられちゃった」。
これについて梶島民も同書の中でいっている。「ミッドウェー海戦の時、乗艦が沈むやいなや捕らえられた。ケネディ収容所で一週間ぐらい営倉に入れられた。米軍に反抗したり、器物を破壊したりといった、米軍刑法に違反したわけじゃない。(〝それではなぜ?″の問いに長い時間をおいて)キャンプ内でディクティターシップ(専制)を発揮したという理由で入れられた。
反論はしなかったが、はなはだ不納得だった。営倉にはいろんな人が入れられた。酒巻和男(太平洋戦開戦時、真珠湾の特潜攻撃で捕虜第一号となった元海軍少尉)も豊田穣(直木賞作家で戦時中ソロモン周辺で捕虜となった、酒巻氏と海兵同期の元海軍中尉)も経験している。
その豊田氏の弁を、同書は「マッコイとケネディ」という豊田氏の著書を引用して「全鋼鉄製の営倉の第一夜は、自殺を防ぐためベルトをはずされ、全裸にされる。これは寒さと共に心理的にもこたえた。夜、鉄板だけのベッドに寝ていると話に聞いたサソリが活動し始めた。尻のあたりがモゾモゾしたかと思うとピシリと刺す。指でつまんで鉄板にすりつぶす。寝ていると次々に刺されるので、止むを得ず立っている。いい恰好ではない」と紹介している。
もっとも、捕虜として好過された面もあった。平出氏が同じ書の中で次のようにいっている「広大なマッコイ(捕虜収容所)での捕虜の待遇は〝拘束された賓客″といってよく、日本食で私たち米軍人のそれより豪華。よく私たち二世は捕虜の食堂にごちそうになりに行ったものだ。ビールやタバコも支給され、他の国での捕虜の待遇にくらべ信じられないほどだった」。
同じアメリカ国内の捕虜収容所でも場所が違うと捕虜への対応も百八十度、変わったことがよくわかる。平出氏の回顧はつづく。「ケネディ(捕虜収容所)ではガラリと変わり、米軍当局は彼らに厳しく接した。少しでも規律違反があると、容赦なく冷たい監獄に全裸で入れた」いずれも昭和六十一年九月十八日付・朝日新聞掲載「戦争」から抜粋)。
戦時中、海軍特攻機の機長として第五次ブーゲンビル沖航空戦中に被弾して着水、漂流中にアメリカ軍に捕らえられた横山一吉・飛曹長がその著「忘れ得ぬ人々」で披露している一文が吹浦氏の書いた「聞き書 日本人捕虜」で次のように紹介されている。「(ケネディ捕虜収容所は)マッコイにくらべ食事の質も落ち、酒保もなく、タバコは配給制になった。点呼、服装検査も厳しく、PWマークが消えかかった服を着ていたり、ペティナイフの所持も凶器とみなされて、即座にサソリの出る独房へ入れられた。酒巻少尉、豊田中尉、はては (精神に障害を来たしている)相宗中佐まで些細なことを理由に、一週間以上の独房生活を送った。一片のパンと水しか与えられず、蒸し風呂のような暑さに衰弱して、よろけるような足取りで出所してきた」。
横山氏の一文は「ケネディの収容所長は長身のテーラー大尉で、有色人種に強い優越感を持っていた。そのうえ、米軍捕虜を日本軍が虐待したり、処刑している等の情報が入っていたので、その仇討ちをしてやる位の気でいるようだった」ともいっている。
豊田氏も、テーラー大尉について「聞き書…」の中で「彼は、通訳の二世から聞いた話では真珠湾攻撃のとき少佐で、守備隊の大隊長だったが、土曜の夜、市内(中略)…にいて駆けつけた時には攻撃が終っていた。彼は大尉に降格され、酒巻がケネディに着くと、その場から営倉に直行させ、三週間投獄した。その後も酒巻度々、投獄されていた」(「マッコイとケネディ」より)といっている。
このように、掃虜への対応は私の捕虜収容所の勤務時代の見聞もふくめて、彼我をとわず、それぞれの管理下で、ある時は収容所の建設場所により、ある場合は管理する側の個人意思により、差があったことがうかがえる。そこにはジュネーブ条約(捕虜条約)に従った措置がとられた反面、人道上、疑問をもたれるような厳しい規制があったことが、容易に推測されよう。
捕虜と、それを監視・管理する立場とでは、その時点における「敗者」「弱者」と「勝者」「強者」の論理が優先し、お互いに対決する。それは当然、勝敗を明らかにした戦争終結で行われる「戦争犯罪」という名の一斉摘発、そして断罪へとつづく。そこには敗者を無視した〝最終勝者のシナリオ″が、正邪善悪を越えた場で終始つきまとう。あまりにも悲しく、惨めな人類社会の、この進歩なき史実は、いつになったらピリオドを打つのだろうか。
人類社会の底流に潜む戦争理論は、その昔から変わることのない 「勝てば官軍」「力は正義」。戦勝国に、捕虜虐待の理由で〝戦犯処断″された捕虜収容所関係者がいるのを聞いたことがない。敗戦国・日本のこの種理由による戦犯者を例にみても勝った国の力が正義の名の下に〝正当化″されている、と指摘されても仕方のない現実が横たわっている。歴史はこの悲劇の上に次々とつくられてきたと、つくづく痛感させられる。