捕虜と通訳 (小林 一雄) (58)
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編集者
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第七章 進駐軍通訳に転身
これが私の戦後の始まりだ・その2
その彼らも、こうして接収する邸宅をお互い同士で奪い合っていた。まず上級の将校連中の間で競い、段々と下級者間でわれ先にと取り合う。入居するとアメリカ式に勝手に改造、日本式伝統の部屋はあとかたもなくなった。〝民家争奪戦〃のようすは、横で見ていて滑稽(こっけい)なほどだったが、彼ら同士は真剣だった。こんな不意打ちの邸宅接収に音をあげた住民たちは「せめて同居を条件に一部の部屋だけを使ってほしい」「他に住むところもない。接収を免じてほしい」と私にプレゼント品を持って懇請の仲介を依頼する人がふえてきた。会社経営者や地主ら金持ちが多かったが、どうにもならず、プレゼント品を返し、お引きとり願った。とにかく、敗者に選び、拒否する権利はなかった。心ある将兵の中には同居に応じる人もあったが、個人の人柄の問題だった。私自身も情けなかった。
とはいえ、接収住宅だけではアメリカ軍将兵の住宅需要を満たすことはできなかった。しばらくして広い浜寺公園を潰《つぶ》し、占領軍用住宅地に建設しなおす指令が出た。短期間にしゃれた大きな軍用住宅が完成し、彼ら占領軍妻帯者のほとんどはここへ受け入れた。だが、この建設に工事に当たっても受発注に利権がつきまとい、担当将校と日本側業者間の接待工作などが大っぴらに行われ、私ら選択も巻き込まれ、その対応には頭を痛めたことを覚えている。彼我ともに甘い汁を吸った関係者が多かったと思う。いつの時代にも、どこの社会にも絶えない〝賄賂《わいろ》合戦"が横行していた。
占領軍用のキャバレー設営の指令が出された。足場のよい大阪市の御堂筋沿いの大きな建て物を接収し改修した。すぐダンサー募集を開始したが、あのころ日本女性でダンスを踊れる人は少なかった。ちょっとでも経験したり、なかには未経験でも「知っている」と応募する若い女性がつめかけた。未復員の夫を待つ身で生活のためにという中高年の人妻も多かった。すべてはカネ…悲しい戦争直後の世相の一面だった。いわゆる〝パンパン"《=売笑婦》 の出現である。占領軍兵士の物資横流しも見聞した。神戸港から補給部隊のある大阪市の杉本町キャンプ(旧大阪商大学舎) に大型トラック数十台で各種物資を運搬していた。その途中でそのなかの一台が物資を積んだまま丸ごと消え、キャンプについて台数不足から事件が発覚する。恐らく途中、誰かの手引きで別の場所に運び売りさばいていたのだろう。誰がどんな方法で行ったのか知る由もなかった。
日本人が村ごと結束して占領軍に抵抗したこんな事件にも出くわした。中部地方の寒村で第一軍団管下のアメリカ兵が行方不明となり死体が海岸に浮き発見される事件が起きた。調査班が派遣され、私も同行を命じられた。小さな旅館に数日間、泊っての調査が行われたが、村民や駐在所の巡査、果ては村長にいたるまで参考質問しても犯人はわからなかった。通訳する私も困り果てた。いっさい地元の人は口を割らなかったからだ。真相は後日わかった。その兵士が村の若い娘に暴行したのを知った村民が兵士を殺し、仇《あだ》討ちしたというものだった。「占領軍といえども人道上、許せない。われわれは正当だ」と村民は結束したという。原因は占領軍兵士だったといえようが、彼我ともに悲しい事件だった。
教育改革を実施する準備に旧制中学校や旧制高女を巡回、教育方針や現状を調査したこともあった。教育担当将校やアメリカ人軍属の教育担当官らと巡回したが、わが母校の旧制大阪府立堺中学校(現三国丘高校)にも行った。私の恩師の一人がまだ同校で英語教師をしておりアメリカ側の要請で恩師にも通訳を依頼した。残念ながら読み、書きは大ベテランだが話すことが不得意だったので、思い余った恩師が卒直に謝り、私に通訳を逆依頼した。このことも戦後の学校英語教育のあり方の参考になった、とそのご、アメリカの担当官から聞かされた。あのころ、日本の学校英語は、読み書きは進んでいても会話、発音は大きく遅れ、十分話せる人は少ない時代だった。
占領軍に勤務するかたわら、特別に要請されて堺市内の警察署や税務署、堺市の河盛安之介市長の通訳をしたことも多かった。警察署では〝夜の女" 摘発、MPとの連絡調整。税務署では税務調査やヤミ酒醸造・販売事件と占領軍への連絡調整。市長の場合は占領軍に関連する各種イベントの通訳などだった。市長といえば戦後、間もなくある宮さまが堺市を訪問されることになり、金岡駐在のアメリカ軍の大隊長が「ぜひあいさつに殿下が部隊を訪れるよう措置してくれ」と市長に要請してきた。市長は「地方の大隊長にその必要はない」と強硬にこれを突つぱね、結局、市長のいう通りになった。後日、河盛市長や助役らはその大隊長以下、幹部将校を宴席に招いて丁重にもてなし1日本人の庶民感覚では皇室は特別のもので、もし貴殿のいう通りにしていたら、占領政策の実施にも悪い影響が出る恐れがあった」と説明した。大隊長も「日本人の国民感情を知らないで申し入れたことを反省している。ご協力への深い配慮に感謝する」と握手を交わしていた。列席した私ら通訳たちも両者の態度に感心した思い出が残っている。
新円と旧円の交換をめぐつてもいろいろなことがあった。日本政府に対して占領軍GHQからその交換の時期、方法などがサゼッションされたが、その情報を当時の政治家のなかには事前に知っている人がいた。彼らは占領軍関係者に近づいて事前に旧円でヤミ物資を安く仕入れ、新円交換後、高く売りつける〝ヤミ商人" と手を結ぶ人もあったと聞いた。具体的なことは寡聞にして知らない。悪徳商人や政治家の私腹肥やし、汚職の〝ネタ" は、いつの時代、どこでもあとを断たないものだ。
すべては終戦直後の混乱期の体験だった。新しい秩序が確立する前、古い秩序が破壊した直後、敗戦のショックを受けた日本人のすべてが生きることに精いっぱいの時期。明日への夢や希望を抱く余猶の生まれる余地どころではなかった時代だった。
それにしても、戦犯裁判の証人として呼び出されたり、アメリカ占領軍に勤務した時代は、アメリカ軍の指示に絶対服従せざるを得ない立ち場だった。その前の捕虜収容所時代の立ち場が逆だっただけに、強者・勝者と弱者敗者ということ、運命の皮肉を痛感させられた。相手はいずれもアメリカ兵。しかし、私は二つの立ち場ともお互いに "一人の人間" としてつき合い、眺め、ある時は批判し、ある時は反省しながら歩んだつもりだ。だから苦しく、にがい思い出もあったが、すべてが懐しい。いま、関係者の多くの顔が、名前も思い出せないまま、走馬灯のように脳裏をかすめていく。