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捕虜と通訳 (小林 一雄) (57)

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄) (57)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/4/8 7:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
第七章 進駐軍通訳に転身
     これが私の戦後の始まりだ・その1

 太平洋戦争も終り、私の捕虜収容所勤務もピリオドを打ち、戦後の生活へとつづく。その第一歩は占領アメリカ軍キャンプで再び通訳としての勤務だった。大阪地区を中心に旧日本陸軍が管轄していた中部軍管区を受け持つ、アメリカ陸軍第一軍団に就職した前後の事情はすでに述べた。ここでは、アメリカ軍通訳時代の思い出をふり返ってみよう。
 「それにしても、戦時中は弱い立ち場のアメリカ人、戦後は強い立ち場のアメリカ人、いずれも軍人相手に、よくよく緑があるなあ。主客が入れ変わった立ち場で通訳業を遂行するのだから、そのつもりで頑張らなくては…」というのが、戦後就職スタートでの私の偽りなき心境だった。だが、相手に対応する心構えには天と地の差があった。
 昭和二十年(一九四五)十二月末だったから、文字通り終戦直後に得た職場だった。籍は大阪府の臨時嘱託という形で、待遇は同業の中でもっとも優遇され "一級通訳" あのころのアメリカ軍キャンプには、アメリカ生まれの若い日系二世を除いて日本人通訳はほとんどなく、阪神間に住む日本語の話せる外国人が雇われていた。だから旧日本軍や地元民との複雑な折衝には、日本人通訳がぜひ必要で珍重されたのだと思う。
 第一軍団情報部に属し▽旧日本軍物資の調査、払い下げ▽財閥解体にからむ戦後の経済体制整備の準備▽教育改革の準備と調査▽旧日本軍の武装解除▽占領軍施設の調達、設営▽隠退蔵物資の摘発▽占領軍と日本人との各種トラブル調査▽日本政府・終戦連絡事務局(出先機関)との連絡調整-など多方面にわたる職務の通訳を担当した。通訳とはいえ、一部の業務では直接、調査などの仕事も行った。一部には利権がらみの事項もあったので、アメリカ軍担当官と日本側の業者関係者の間に立ってさまざまな人間の欲望図も見てきた。捕虜収容所とはまったく違ったいろいろな人間関係の側面をのぞくことができた。
 年が明け、二十一年(-九四六)になると第一軍団直属の各部隊が各地に駐留、キメ細かな占領政策の実施、警備の先兵となった。私もこの年の初め、堺市金岡に進駐した同軍団直属の第九八師団第三八九歩兵連隊に転勤した。兵士たちの話では、この部隊は、アメリカ本土やハワイにあって日本本土攻略作戦の待機部隊だったので、召集兵中心の実戦未経験者ばかり。一度も実戦で砲火を交えたことのない比較的年齢の高い兵士が多かった。日本に無血上陸し、割りと日本人に友好的で寛大だった。日本人に良い印象を与えたインディアン・パッチをつけた第二線部隊だったと記憶する。
 私ら通訳の待遇もよく、自宅-部隊間の通勤には兵士運転の専用ジープがあてがわれ、部隊内では将校食堂で将校と同じように並び、同じ食事をした。戦後の物資不足、食も不十分な時代だけに、高級な肉やミルク、コーヒー、パンなど豪華な軍隊将校食はありがたく、毎日の昼食時間が楽しみだった。夕方、帰宅時には将校用の各種嗜好品や食品類を手みやげにプレゼントしてくれた。また、勤務後はアメリカ兵の列に加って部隊内のPX (酒保) で、彼らと同じようにタバコやチョコレート、コーヒーなどを制限数量内で日本円で買うこともできた。通訳に対する特権で、感謝すべき厚遇だった。家族も大よろこびだった。
 とにかく部隊全体が和やかで日本人にもやさしく接し、「よきアメリカ」と「アメリカヘの日本人の理解」 のPR役を率先して実行していた感があった。占領第一歩のアメリカとしての対日政策実現に緊急不可欠な側面だったと思う。一般市民に対しても日常の彼らの行為のなかでそれは示されていた。もっともアメリカ兵個人の教養、人間性の差から全部が全部、まったく同じというわけではなく、おしなべて平均してそうだったというわけである。
 ある将校がジープで大きな道路を運転中、飛び出すように横断してきた男児をはねてしまった。交差点でもなく、信号もない場所だった。私も同乗していたが、その子ははねとばされ重傷を負った。緊急連絡業務の途中だったが、その将校はジープを停車させ、こどもを静かに乗せて近くの病院に運び込んだ。部隊名と氏名を告げ「できる限りの治療をしてくれ。治療費は全額、私が責任をもって支払う」 といい、立ち去った。それから毎日一、二回、病院に姿を見せてこどもを見舞い、そのつど、こどもの好きな食物や果物などを差し入れ、最後までめんどうをみていた。
 もちろん、運転者の前方不注意もあったが、被害者もこどもとはいえ無謀だった。しかも終戦間もないころの占領軍だっただけに将校の行為は当然とはいえ、こどもの両親や市民の聞から感謝された。人間としての心やさしい行動-そこには、勝者の香りは見られなかった。第三八九歩兵連隊の兵士たちの日本人への思いやりを象徴するできごとの一つとして印象に残っている。
 ある日、金剛山中の塹壕 (ざんごう) に集団で残り、未だ解散していなかった日本陸軍の大阪守備部隊に属する一部隊の武装解除と降伏説得が行われた。ジープ五台に分乗したアメリカ軍説得部隊は、少尉を隊長に、下士官二人、兵士十人、それぞれカービン銃を持つだけ。私は、日系二世の軍属に見せるためアメリカ軍の野戦服を着用して同行した。その少尉は 「日本軍人の名誉を尊重し、あくまでも話し合いで武器を放棄させろ」 と指示。私が仲に入って双方の隊長が塹壕前で現状を説明しながら話し合った。日本軍の隊長によると全員、召集兵部隊だった。
 自分たちも召集兵であることを告げた少尉は 「お互い、精いっぱいやってきた。命を大切に新しい出発のために武器を渡しなさい」 と、諄々 (じゅんじゅん) と説得。その態度に日本軍側も軟化、すぐ全員が降伏、武器を近くの鎮守の森の一か所に集めてアメリカ軍側に引き渡した。あの時のアメリカ軍少尉は中年だったが、降伏説得にきた勝者の態度はみじんもみせなかった。温い人柄が日本軍側の決断を促したのだろう。
 しかし、同じ降伏説得でも、スムーズにばかりはいかない。ある日、葛城山中に残留する日本軍部隊の説得に当たった。この時の日本軍隊長は若いパリパリの職業軍人の将校だった。恐らく陸士出身だったのだろう。どんなに説得しても降伏しない。ついには 「日本軍は最後まで陣地を死守する。降伏させたければ戦闘で決着をつけよ。降伏の説得は無用だ。戦死する覚悟もできている。君らが望むならすぐ射撃を開始する。イエスかノーか」 ときた。無血降伏をさせることを方針とするアメリカ軍の説得班は逆にびっくりしたり、恐れたりで、一言もなくあきらめて引き返した。私は日本軍側に背を向けて引き返すのが恐いくらいだった。そして次の日、こんどは機銃や火炎放射器の武装一個小隊が日本軍を包囲し 「一人も助からない。出てきなさい」と説得したが効き目はなかった。アメリカ軍側は発射は容易だが 「すでに戦争も終っており、人命を軽くみてはいけない」 と、その日もあきらめて下山。その翌日、こんどは同じ武装説得部隊が、日本軍側の中部軍高級参謀の著名人り降伏指令書を持って説得に当たった。イキのいい日本軍将校はこれを見て 「日本軍上官の命令書ならば…」 と一も二もなく、直立不動の姿勢で降伏を承諾。全員が武器を引き渡した。私は 「さすが日本軍人」 と、内心、喝采《かっさい》を叫ぶ思いで「敗れたりとはいえ、これぞ大和魂の真価だ」と感じた。だが、〝これが無用の死を選ばせた″〝誤った戦陣訓″の末路だったのだ。ともかく気の長い〝人命尊重作戦″がやっと効を奏したわけだが、もしあの時、アメリカ軍が占領軍の権威をカサに発砲していたら当然、日本軍側も発砲、平和がやっと実現した本土で悲惨な〝戦死者(?)″が多数出ていただろう。そしてそのご、日本人とアメリカ軍との感情のしこりも生まれ、占領政策に汚点を残したかも知れない。占領部隊の方針だったとはいえ比較的、温和な説得部隊だったから、結果は「良」とでたのだろう。
 こんなこともあった。ある雨の降る真夜中。私の自宅近くで、はげしい降雨の中をアメリカ兵三人が傘も持たずにズブ濡《ぬ》れで歩いている。夜勤帰りの私が事情を聞くと 「許可を得て外出、遊んでいて遅くなったが部隊までは、まだ相当距離がある」という。気の毒になって 「私の家で雨やどりしなさい」 というと、三人はとてもよろこびついてきた。あのころ私が住んでいたのは二畳、三畳、六畳の狭い急造の市営住宅。ここは私ら夫婦と母、兄、叔母の五人が住んでいた。妻・尚子や母・幸はびっくりしながらも、気の毒がってすぐ湯をわかし体を拭き温め、衣服を乾かし、代りの下着を出して着せた。いつまでたっても雨は止みそうにない。もう午前二時を過ぎていた。「ついでに泊って行きなさい」と、そうでなくても狭いわが家に、大きなアメリカ兵三人を二畳の間に泊めた。毛布にくるまった三人は安心したのか大きないびきをかきながらも六時には起床。約四時間の仮眠ですっかり元気をとり戻していた。熱いコーヒーを飲ませた。彼らは「おかげで助かりました。ご親切を感謝します」と、ていねいに礼をいい、各自ポケットから出したカネを置いて帰ろうとした。そして再度「温い親切は永久に忘れません」といって出ていった。もちろん、私はそのカネを受け取らなかった。
 私も、戦時中に捕虜収容所で勤めたこと、戦後のいま、キャンプ勤務をしていることなどをいろいろ話し、彼らもキャンプ生活や日本人との交際などについて和気あいあいと雑談した。だが、私の心の中は、相手は若い占領軍兵士、女性が三人もいる狭いところで雑居寝(ざこね)する恐さでいっぱいだった。神に祈る心で招じ入れた。結果はよかった。〝人間の心は誰でも通じ合うものだ″ とつくづく思った。
 こんなことがあって半年後の二十一年秋には、第三八九歩兵連隊に代って第二五師団第六五工兵大隊が金岡キャンプにやってきた。この部隊はライトニング (稲妻) バッジと呼ばれ、フィリピン、沖縄戦を経験、日本軍と砲火を交えた歴戦の勇猛な第一線部隊だったと聞いた。全般的に粗野で日本人には冷く、占領軍の権威をつねに行動に示した。前の第三八九歩兵連隊とはまったく逆に思える部隊だった。〝実戦″の体験の有無の違いがそうさせたのだろうか。
 われわれ通訳も、彼らに代ると同時に、ジープでの送迎は廃止、キャンプ内での食事もすべてアメリカ軍将兵が終了したあと、残り物を与えられた。当時、キャンプ内で日本語教師として招聘 (しょうへい) されていた旧大阪商大 (現大阪市大) の英文学の教授がいた。彼は大隊長に請われて日本語を教えるために来ていた優秀な人格者だったが、「食堂の外で立って食べろ」「カモン・グークス(乞食《こじき》!来い)」と兵士たちにいわれ、あまりのひどさに辞職してしまった。
 一般道路をジープで走行中、こどもや老人、婦女子が前を歩いていても「ひいてしまえ!進め」 とわめく将兵が多く、同乗の私もヒヤヒヤさせられることが多かった。もちろん、実際にはね飛ばしたり、ひき殺すことはなかったが…。
 ある日の夕方、キャンプの外で、兵士と日本女性が立ち話しながらもめているところへ私が出くわした。「どうした?手助けしようか?」と英語で話し近づく私に、その兵士は有無をいわせず「シャラップ(黙れ)」といって横っ面を思いきり殴る始末。私の眼鏡は吹っ飛び、なくなったが、何とも気の荒い兵士だった。
 キャンプ内の物品倉庫で日本人労務者が盗みを働いた事件があった。それを見つけしだい、当直の兵士が射殺してしまった。泥棒行為の日本人はもちろん悪いが、射殺する前にもっと方法があったハズ。彼ら日本人労務者は毎月の給与意外(以外)に毎日、仕事を終ってゲートを出る時、少量の米をもらっていたが、それを与えるアメリカ兵の態度はまるで日本人を乞食扱い、日本国民全部が自由行動を許された〝捕虜″といった感じを覚えたものだ。捕虜収容所でも、日本軍兵士が捕虜に対してこんな威丈高な態度をとったことはなかったのに。
 接収住宅の仕事もつらかった。大阪・泉州地区を最初から占領管轄していた第三八九大隊の駐留当時から、占領軍の妻帯者用住宅が問題になっていた。たまたま、堺市の浜寺や羽衣周辺の一等住宅地には戦災にもあわず高級の大きな邸宅がたくさん残っていた。アメリカ軍は下士官以上の妻帯者用にこれらの高級住宅を接収、改造して住むことになった。毎日、担当の将校、下士官が私を連れて物色に出向き、気に入った家を見つけると、自由に接収して居住の日本人を追い出した。その家の住人はただ泣き寝入りというありさまだった。占領軍は日本政府(終戦連絡事務局)との合意で「必要に応じて日本人の不動産を軍用に提供させることができる」ことになっていた。この通達は第三八九大隊でも第六五工兵大隊でも同じことだったが、住人には大きな犠牲だった。

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