特攻インタビュー(第5回)・その21
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆沖縄集団自決冤罪訴訟(1)
皆本‥終戦50年の時ですかね。渡嘉敷島で慰霊祭がありますから行ったら、NHKの那覇支局の人がスタッフ3人を連れて取材に来ました。彼に会う前に、沖縄から私の自宅に電話が来ましたが、電話ではやっぱり、間違ってとられたり、説明が不足するので、前の日に那覇のホテルに泊まるから、資料を作って説明したら一所懸命、勉強していました。で、当日、スタッフを連れてきて撮影をやってくれました。
島の小学校の講堂で、村主催の歓迎会の大祝宴がありました。向こうのおばさん連中が着物を着て沖縄の踊り、それから同行した私の家内なんかも一緒に踊る。それを撮影しましてね。知らなかったのですが、その晩、ローカル放送で流して、翌日、全国ネットで放送されました。沖縄で戦った軍人と島の人が一体になってやっているということでね。で、彼とは何回か東京で会っておりますが。だから、NHKには色々、問題なんかあるけど、そういう素晴らしい人もおるという事で感じております。
それから、さっき言ったように、復員した時、遺骨をガーゼに包んで持って帰り、全国を回りました。鹿児島県の田舎に行って、駅に降りたら、お父さん・お母さんはじめ、皆、紋付を着て夏の暑いのに出迎えて頂きました。それから、船舶団長の大町少将を護送した中島一郎少尉が埼玉県の入間出身なんですよ。彼は出撃する時、持ち物を全部、舟艇のハッチに積みました。何もないから遺骨の代わりに、彼が訓練に励んだ海岸のサンゴ礁の椅麗な石を持ち帰って。それで、ご両親に手紙を出しましたら「ありがとうございます。頂きます」と言われた。
当時の国鉄は乗り継ぎ、乗り継ぎでしょ。弟に「一緒に来い」と言って、まず広島で乗り継いで。3回かな、乗り継いで行きましたらね、次の列車が出るのを待っとったら、車掌さんが来て敬礼をするんですね。で、「どうぞ、ご案内します」……おかしなこと言うなと思ったら二等車に案内するんです。今のグリーン車。で、「ここにお掛けください」って言うから、「ちょっとお待ち下さい。私は全国を、こうやって遺骨を頂いて、ずっとお届けして回るから、旅費も節約して行きますから二等車は無理です」って言ったら、「いや、どうぞ」と言うんです。で、4回か5回乗り換え、乗り換えで行きましたが、私と弟は、検札を全部免除してもらいました。涙が出ましてね。国鉄の偉い方に礼状を書きました。「戦に負けたといえど国鉄精神! これは規則違反かもしれんが、そのご厚情は生涯忘れ得ません。」
それから鳥取に行った時は米を持って行きました。米なしでは旅館も泊めない時代だったんです。その米を警官が見て「何だ」と。「米だ」と答えたら「何!闇米か!」と言う。「ちょっと待ちなさいよ。私たちはそういうんじゃない。遺骨を持って私の部下の所に行く」……それで、彼が報告したら職場の警部補が服装を着替えて「私がご案内します」というわけ。戦に負けたと言いながら、やっぱり日本の素晴らしさは続いていると感じました。
それで、中島一郎君のところにご遺骨を持参して行きましたら、たいへん喜ばれて、「皆本さん、私は埼玉県の狭山茶の連合会長やってるが、お礼に、熊本へ種茶の実を送るから植えてください」とありがたい思し召しをいただきました。熊本の菊池で、私の弟や従兄弟のところで製茶をやっとりますがね。で、平成17年に「特定非営利活動法人 埼玉県国民保護協力会」を立ち上げました。いざという時、テロとかなんかが発生した場合、第一線で戦うのは自衛隊・警察・消防だろう。それ以外の非戦闘の老若男女の方々を救うのは誰がやるんだ。これを我々はやろうじゃないかということで作りましてね。今、500人以上の会員がおります。私も高齢だから後輩に譲りました。その挨拶状を上田知事(埼玉県)に書きましたら、上田知事から丁重な手書きの礼状が来ましてね。