特攻インタビュー(第5回)・その24
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆武士道精神を重んじた二ミッツ元帥(2)
--------皆本さんが考える「武士道精神」とは、どのようなものなのでしょうか?
皆本‥例えば、牛島満閣下は、江戸時代の儒学者・佐藤一斎の書いた「言志四録」を若い時から一所懸命勉強していました。だから、他の人と動きがまったく違いました。恩賜の軍刀を頂かれて陸大を卒業されて、進んで母校の鹿児島一中の配属将校をやられました。普通だったら、配属将校は退役する前の人しか行かないんです。その後、都城の歩兵第二三連隊の連隊附中佐でおられたら、師団長が、もったいないから参謀本部か何かの参謀にしたいと言ったら、大尉・少佐時代に参謀本部勤務の経歴がないと難しいということで下関要塞司令部の参謀に行かれました。それから後、陸軍省に行かれた時に、陸軍次官から質問があったら「その事に関しては部下をして報告させます」って言ったら、その次官閣下が「馬鹿野郎!」と怒鳴ったといいます。で、帰って来られて「やあ、私より君達のほうが詳しいから詳しい人に報告させる」というような事で、そうやってこられました。で、二・ニ六事件の直後に歩兵第一連隊長になりました。第一連隊は二・二六事件の蹶起将校の主体でした。最初、他の人を第一連隊長に予定していましたが、ある人が「いや、あれだけの事件を起こした第一連隊だ。だから、やっぱり牛島を連隊長にしてくれ」と言ったそうです。で、牛島さん、やりましたね。第三二軍の軍司令官を決めるときも、同じような理由で牛島さんになったと思います。
他にも、沖縄師範学校長の野田貞雄さんは、昭和19年暮れか昭和20年の初めに文部省で会議がありまして、会議が終わったら「先生、もう沖縄に帰れる便がありませんので、他の要職にします」と偉い人に言われたら、野田校長はうんともすんとも言わず立ち去って、市ヶ谷にあった陸軍省に行きました。「生徒が待っている。私は帰らなくちゃいかんので」と言って、陸軍の爆撃機で那覇に戻りました。そして、戦が始まります頃から家に帰らんで、師範学校の生徒と一緒に起居を共にされて、最後に師範学校生が摩文仁の方に下がって行きます時に、それを見送って焼け跡の校舎で自決して果てられました。
私はいつも思いますが、明治5年に「邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」という日本の教育の伝統的な精神。明治6年に武士道を根拠に作り上げた帝国陸海軍の軍隊。これがやはり、沖縄において開花したと思います。これを絶やしちゃいかんと。