若ものに読んでほしい「この一冊」 

(期間:2010.4.1 - 2010.5.31)

若い方々へ
 4月、船出のシーズンです。進学、入社―――など様々な船出があります。しかし、乗りだす海は、逆風で波も荒いと思います。なかには、乗船する船が見つからず、やむなく港で待機しておられる方もあると思います。
 そんなとき、一冊の本が勇気を与えてくれるかもしれません。

シニアのみなさまへ
 子どもの時、若い時に読んだ一冊の本が、その後の人生に大きな影響を与えた・・・そんな一冊をぜひご紹介ください。ジャンルは問いません。漫画本などでも結構です。


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  • [No.108] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/16(Sun) 14:10
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     モーツアルト家はよく馬車で旅行した。かれの生まれたオーストリアの、首都ウィーンは、長い歴史をもつカフェハウスで有名だ。あっしも行ったがウィーンのカフェハウスは天井が非常に高く、広々してじつに心地よい。

     そこで出されるコーヒーは数十種あるといわれているが、その中には馬車の名のついたが二つある。ひとつはアインシュペーナーで、これは一頭立て馬車、もうひとつはフィアカー、これは観光用の二頭立て馬車のことだそうな。

     この一事で、当時コーヒーが馬車の御者や、旅行者や市民にいかに親しまれていたかがわかる。

     ただ乗り心地はあまり良くなかったらしく、マエストロの父、レーオポルトは大変気を遣ったらしいことが、鹿島茂の「パリ時間旅行」にでている。

     ベートーベンの場合は楽譜の印税で食っていかれたのであまり馬車で遠出する必要もなかったらしいが、むかしは道路も悪ければ、馬車のスプリングも幼稚なものだったので、乗っている子どもなどは特にたいへんだったようだ。鹿島茂もまだいたいけない子どもだったモーツァルトが、よく強行軍に耐えたものだと、おおいに気の毒がっている。イタリア旅行のときなど、馬があばれて、父親が右足に裂傷を負うようなことさえあった。こうした事故のほか、天災や強盗事件も多く、旅は危険の代名詞のような状態だったらしい。モーツアルト親子が、外国で厚遇されたのも、頑是無い天才音楽家がとおい外国から数多くの危険を冒して、わざわざやって来てくれたことにも、大いに関係があったものと思われる。


    [No.107] 小林英夫編「私の辞書」を推す 投稿者:   投稿日:2010/05/14(Fri) 11:54
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     あっしの家のちかくに、昔の殿様のお庭がある。およそ1万坪の広さがあるといわれている。あっしなど、広い地所の家をみると、あれだけの庭があれば、毎日が一段と楽しくなるのではないかと思う。あさ早く下駄を突っかけて庭へ出て、邸内をゆっくり散歩でもすればカンタンに気分転換が出来る。羨ましい限りだとは思うが、あっしのような身分では、そのような庭の持主には到底なれそうにない。

     そこでジショはジショでも、辞書の方なら割とカンタンに持主になれるのではと思いついて、一時ジショをやたらと買い集めたことがある。ジショの持主が地主なら、あっしだってレッキとしたジヌシだ、と胸を張った。(-_-;)

     しかし、辞書と云うものはただ所持しているとか、しょっちゅう引いているだけではダメだそうだ。(-_-;)小林英夫編「私の辞書」☆にラブレーなどの名訳で知られる渡辺一夫さんがそう書いて居られる。氏はパスカルの「パンセ」の中にでてくるabetirという語について、わたしなら「愚かにする」とは決して訳さない、と述べられている。ちなみに割と新しい手元の仏和でしらべてみると、氏の言葉通りの「…を愚かにする」と書いてあったので、何でも、本に書いてあるとおり信じ込んでしまうあっしは、非常に驚いた。(@_@;)

     ☆昭和49年だからもう、36年も前に出た本だ。

     まともな辞書の他、ふざけたものもケッコウある。いつかネットを探索していたら、世界中の挨拶をあつめた辞書があった。またイアタリア人で日本の刀剣用語だけを集めたものも見かけた。「私の辞書」で河盛好蔵氏が披露されている辞書もなかなかに面白い。そのうちでも、露伴の『当流人名辞書』は普通名詞として使われている氏名を353も集めたもので、それによれば、三四郎というのは三味線のことだ、と。

     作家の作る辞書と云うのはほかにもあって、かのフランスはフローベルの「紋切り型辞典」はあまりにも有名。数例を引用すると、『勘定書』 つねに「高すぎる」。『禁欲主義』 不可能事。先般のカトリック司教の児童にたいする性的虐待にこれを思う。『片言』 国籍のいかんを問わず、外人と話すにあたっては片言を用うべし。以下略。『サーカスの道化役者』 子どものときから体じゅう、関節がはずれている。また、アンドレ・プレヴォーの「楽天家用小辞典」には『ビフテキ』 食べられるチューインガム。『あくび』 ひとりでいる時にあくびをすつのは自己自身に対する礼節の欠如である。←ちげえねえ。ユーモリストのノクチュエルとなると、更に辛辣だ。『相互理解』 人間はたがいに言葉をかわし合わないときほど理解しあうことはめったにない。

     この本の編者、小林英夫氏の文も、一部引用するのが礼儀であろう。だれでも知っているモルダウなどの作曲家スメタナの名はいったい何に由来するのだろうか。氏は語る。それにはまず東欧の古い昔話を知らなくてはならない。魔女がミルクを盗むとき、蝶々の姿になるという。そのクリームのチェコ語がスメタナで、これをドイツ語が借用したのがシュメッテン。これがのちにリンクをともない、シュメッターリンク☆となり、蝶を表すドイツ語になったとは、それこそ、チョウ不思議といわなければならない。(@_@;)

     なお同書にはこのほかにも、こうしたアンビリバボーな話が満載されているので、ぜひ一度手に取って一読されるよう、お勧めする次第である。(^_-)-☆

     ☆ Schmettenlingにならず、Schmetterlingになったのは、同音反復を避けたためだと解説があった。


    [No.106] 幻の日本爆撃計画 投稿者:   投稿日:2010/05/14(Fri) 10:51
    [関連記事URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/

    「幻の日本爆撃計画」 アラン・アームストロング 著/塩谷絃 訳
              日本経済新聞出版社 刊
    
    太平戦争直前 当時の米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは
    1941年7月23日、「陸海軍合同委員会計画JB-355」と称する 宣戦布告
    なしに日本を爆撃する計画を承認した。日本の真珠湾攻撃の一ヶ月前
    の事である。
    
    をでは何故この計画が 実行されなかったのは何故か…
    当時のアメリカではまだ爆撃機の量産体制が確立していなかった処へ
    英国から爆撃機の供与を求められていたために、爆撃基地の中国へ
    配置する爆撃機が不足していたからだと言われている。
    
    勝てば官軍 負ければ賊軍…何時の世にも膾炙される言葉だが 不当
    に悪者扱いにされる日本。その裏に隠れた真実とはナンだったのか??
    すべての日本人に読んでもらいたい一冊である。
    
    
                  瀬里恵


    [No.105] Re: 人魚姫 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/13(Thu) 07:11
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    > アンデルセンの童話
    > 童話であっても、愛ということを考えさせられる話です。

    これを書く前に読み直したら
    人魚姫の母親は亡くなっていて、姫の四人姉妹は祖母に育てられていた
    ということがわかりました。
    母親がいなかったことが、話にどう影響したのか。

    あまりにも人魚姫の運命が悲惨なものだったので
    作者は女性からもてなかったから、こういう話をつくったのではないかと言われている。
    確かにアンデルセンの恋愛はうまくいかなかったものがいくつかある。
    しかし、最後まで親密だった女性もいる。彼女とは結婚に至らなかったが。

    即興詩人に出てくる同性愛の青年のように、アンデルセンが同性愛者だったのではないかという説もある。

    英国を中心に、アンデルセンは王室につながるという説がある。
    デンマークの王のご落胤だったという説である。
    デンマーク王子が若いとき民間女性に生ませた子どもがアンデルセンで、困った王室が彼を養父母に預けたとされる。
    やがて王子はデンマーク王となるが息子が気になるので、アンデルセンが大学教育を受けるときに資金援助をしている。
    実際にアンデルセンは王に呼ばれて王と話をしたことがあるし、王室との食事会にも招待されている。
    ある程度の王室からの援助と期待と指示があったとみられる。


    [No.104] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/12(Wed) 20:49
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     やっぱり本だけじゃ迫力がいまいちで詰まんないと、こないだ、わざわざ遠い方の図書館まで出かけてドン・ジョヴァンニのDVDを借りてきました。ついに病膏肓である。(-_-;)

     きょうで観たのは二回目になるけど、何度見てもいい紋だ。(^_-)-☆こうしてみると、実際には、歌手、楽団、作曲家、台本作者☆だけじゃダメなんかなあ、などと素人なりに考えました。演出の巧拙、舞台装置だって、下手くそではやっぱり興を殺がれるだろうし…。

     あっしはこのオペラは全く初めてなので、悪党ジョヴァンニが石の騎士長を自邸に招待する場面でやる音楽に、フィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶ちょ」が出てきて、一瞬耳を疑ったけれど、ネットサーフィンをしてみたら、ほんとうにドン・ジョヴァンニが宴席で「音楽だ!」と喚いたとたんにやる曲は、当時流行ったコーザ・ラーラや漁夫の歌のほか、モーツアルト自身が作曲した「フィガロ」もあると知って、ほんとうに驚きやした。(@_@;)

     しかし、こうして本を読み、さらにDVDをみれば、より理解が深まる感じですね。(^_-)-☆

    ☆ 堀口修氏に依れば『天才』ダ・ポンテはあの作を作る際、1787年2月ヴェネツィア初演のジョヴァンニ・ベルターティ(台本)を参考にしたと云うから、岡本真夜さんの「そのままの君でいて」ほどではないにしても、かなりの部分『頂いちゃった』のではないだろうか。同じ年の4月には台本はもう楽聖の手元にあったというから、たったふた月程で仕上げたことになる。これはちょっと早すぎはしないか。大体モーツァルトのほかにも、マルティーニ、サリエリと二人分の注文を抱えており、三者同時進行で作っていたと聞くと、余計信じられない。(@_@;)


    [No.103] Re: どうか『米原万里』を読んでください! 投稿者:   投稿日:2010/05/12(Wed) 13:42
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      どうかして、もう一度見たいと思っていた「米原万里展」もついに2日前に終ってしまった。また死後5年、10年記念展があるかもしれない。ならば、それに期待しよう。

     延び延びになっていた「発明マニア」をまた開けてみた。120ちかくある項目で一番目に飛び込んできたのが『遺失物発見法』だ。これなら、あっしのほかにも、メロウには、メモを持参でに駆けつけて来る方が何人かいるのではないか。

     読み始めると、万里はこの点に関する限り、紋爺とそっくりなのを発見して、たいへん嬉しくなった。(^_-)-☆

     そのうちでも、タクシー事件はとくに酷い。降りようとしたが財布が見つからず、座席にカバンの中身をぶちまけたが、やはり出てこない。どうやら現金もカードも一緒らしく、車に家まで引返してもらって、通帳と印鑑をもち出し、まず銀行へ行ってもらい、現金をひきだし、やっとこれで支払いだけは済んだ。

     運転手の方はたしかにコレでおわりだが、彼女の方はここでは終らない。前のカードを無効にしたり、新しいカードを発行してもらう手続きが残っていた。そのあと喫茶店でホッと一息。ふと気がつくと、首からぶら下げた袋に何もかもが、ちゃんと鎮座していた。

     そのほか、初対面の相手に出そうと思った名刺が出てこなかったり、クスリ瓶の字を読もうと眼鏡☆を探すが、どこにも見当たらない。かわりに先程赤っ恥を掻いたばかりの名刺入れがクスリ瓶のそばで見つかる。そのほか、エアチケットも、チェッキンの時はどうしても見つからず、仕方なく再度購入したあと、手品ではないが、左の胸ポケットから、済ました顔でひょっこり出て来るという始末。(-_-;)

     そこで考えたのが、なくなりやすい財布、カード、めがね、辞書、携帯、パスポート、クスリ瓶、その他もろもろにあらかじめチップをうめこみ、ディスプレー画面には家の見取り図、ものの配置図を入力。失せもののアイコンなどをクリックすと、たちどころにその場所のアイコンがピッカピッカと点滅する。名づけて、遺失物ナビ。しかい、これで終わったら万里ではない。

     隣ページに、万里自身の上手なイラストが1ページ大で入っている。万里は寝室で、愛猫をわきにすやすや眠っている。ベッドの足元には愛犬が思う存分体をのばして安眠中。

     折りしも窓際の仕事机では、侵入した泥棒がディスプレーを操作して呟いている。前に入ったときは通帳などあるべきところになくてえらく苦労した紋だが、こんどはこんな便利なものを作ってくれて、ほんとうにアリガトさんよ。でも、何でクレディットカードが洗面所にあるんだよ。

     ☆ めがねには苦労したらしく、展示品の愛用のめがねのところに「眼鏡は家のいろんなところに置いてあった」と書いてあったのを思い出す。(^_-)-☆


    [No.102] 人魚姫 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/12(Wed) 10:51
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    アンデルセンの童話
    童話であっても、愛ということを考えさせられる話です。

    人魚姫は、憧れの王子の前では
    美しい姿でも、声を出せないというハンデがあります。
    海の魔女の魔法で、人間になれたのだから、声はその引き換えに失うのです。
    でも、これでは王子にメッセージを伝えられません。
    どうみても不利な条件です。

    だから、そばにいる人魚姫をおいていって、王子は隣の国に行き
    美しい姫と会い、喜び、自分を海で救ってくれたのはあなただったと錯覚して
    隣の国の姫と結婚することになる。
    それは違います、王子様を助けたのは私ですと、人魚姫は言えないのです。舌を失っているから。

    最後に
    人魚姫はナイフで王子を刺せば、自分は助かるのですが
    人魚姫は、王子を殺すことはできず、自分が泡になってしまう道を選びます。
    ここに献身的な愛があります。

    王子としたら
    人魚姫が自分を助けてくれたことは、わかりません。
    そもそも、自分の前にいる美しい娘が人魚姫であったことも、
    その娘が自分をどれほど好きかということも、王子はわかりません。

    二人の立場は対等ではなく、人魚姫はとても不利な条件になっていて
    フェアではありません。
    それは童話だからしかたがないことなのか
    もっと書き方が他にあってもよかったかもしれません。

    それはともかく
    自分を犠牲にして愛をつらぬくということは
    ひとつの愛の形だと思います。
    受ける愛よりも、与える愛を。
    愛とは求めるよりも与えるもの。
    もっとも、一方的な愛よりは、双方向的な愛のほうが安定して長続きするのですが。


    [No.101] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/12(Wed) 00:20
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     れいの「旅の日のモーツアルト」のなかに、マエストロが伯爵一家の人たちと一緒に掛け合いの歌を歌う場面がある。その中で、ライバルのサリエリは「われらがボンボニエールの君」と呼ばれている。わしの作る傑作をみて、卒倒するまでヤツを死なせてなるものか、と気勢を上げるわけだ。かのイタリアのいかさま師、われらがボンボニエールの君よ、と歌うのはいいが相手はイタリア人だ。ほんとうはボンボニエーラでなくては可笑しい。メーリケの原文でも、ムッシュー・ボンボニエールになっていた。

    なことはまあ、どうでもいいが、アントニオ・サリエリと云うのは立派な音楽家であったばかりか優秀な教育者でもあって、一門からベートーベン、リスト、シューベルト、ツェルニー、マイアーベアなど錚々たる音楽家を輩出し、モーツァルトの子、フランツまで教えを受けたというではないか。

     ライバルの暗殺など必要ないほど、世に認められていたのではないか。あれは、世の俗説をロシアの大詩人プーシュキンが真に受けて世間に広めたのが悪い。プーシュキンこそ諸悪の根源であ〜〜〜る。(^_-)-☆

    秩父宮勢津子さまのご著書に「銀のボンボニエール」というのがあるそうだ。あっしは読んだことがないが…。宮中ではお祝いの節、皇后からボンボニエールを贈る習慣があるらしい。その形はさまざまで、たとえば鼓の形をしていることもあるらしい。

    あるサイトをみていたら、イタリアなどでは皇室でなくとも、『臣下』でも結婚式などの引き出物によく使うようだ。


    [No.100] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/10(Mon) 12:31
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    (補足)

     どんなものを読んでもかならず、何かが残る。読書の功徳とでもいうか。読み飛ばしでは無理かもしれない。ある程度の『精読』は必要かも。

     と云ったからといって、そう乗り出されても困るが、「旅の日のモーツァルト」の中ほどに、「あの壮麗なパルテノーべの都の栄華も」という箇所がある。読み飛ばしてしまえばそれまでだが、注を見るとナポリの古称とある。レクラムを見ても、たしかに脚注があり、2行半ほどの説明があった。

     注には1799年ナポリ王国はこのパルテノーべ共和国となったとあるが、この表現を使ったモーツァルトが、旅をしていたのは1787年だからまだパルテノーべになっていないのでは?しかも音楽家自身が、父親とともにイタリアを訪れたのはさらに15年以上も前の話だ。(^_-)-☆まあ、重箱の隅を突っつくような行為はあまり感心したものではないが。(-_-;)

     しかしメーリケがマエストロの生きた姿を読者に伝えたいという姿勢は随所に見られて、ほほえましい。たとえば、伯爵家では娘がモザの話にまるで、『フィガロの結婚』の優雅さそのもののようじゃないですこと、などと言わせてみたり、マエストロにも、東屋でオレンジの実に対面したとき、それが少年時代の想い出につながり、さらにマゼットやツェルリーニのアリアを思い出させたり。いや、思い出すだけではなく、さらにエスカレートして、伯爵の家族の前で、「ドン・ジョヴァンニ」第1幕第7場のツェルリーナのアリア、「若い娘さんたち」を口ずさんで見せたりするのだ。

     音楽家はいわばサービス精神の塊のような人だったので、その人物像を浮き上がらせようと、著者もまけずに頑張ったのではないであろうか。(^_-)-☆


    [No.99] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/09(Sun) 21:18
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    (補足)

    あのころはドイツ、オーストリアの人はみな一様に南国に憧れていたようで。少年時代にイタリア語を習得したモーツアルトだけでなく、ゲーテにも詩「君よ知るや南の国(「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」に収録)があり、作中空は飽くまでも蒼く、至るところにオレンジの花が咲き乱れている、素晴らしい国イタリアを讃えているところが出てくるようですね。

     なにしろ、ゲーテはお役所を、ずる休みして迄して行ったイタリア旅行中、この外国語のことで困ったことは一回もなかったらしいです。まあ、考えてみれば当時は音楽ではイタリアが世界を牛耳ってわけですから、イタリア語なんぞは、今の英語みたいに、いわゆる『必須教養科目』だったのかも知れませんね。


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