画像サイズ: 375×500 (66kB) | あえて書名を書かなかったのは、彼女の作品はどれをとっても名作であり、どれを読んで頂いても結構だからです。万里は手抜をしない、誠実な人です。
じつは今日、市川の「芳澤ガーデンギャラリー」に『米原万里展』を観にいって来たところなのです。彼女にはどうしても惹かれるものがあり、自然と足が市川に向いてしまいました。こんなユニークな人物が日本にいたこと自体、チョッと不思議な感じがします。ただ「いた」と過去形で云わなければならないのが残念です。じつは米原万里は4年前の5月、卵巣がんを患い、ついに帰らぬ人となったのです。
3月27日から開かれていたこの展覧会のパンフに宣伝文を書いているのは作家の井上ひさしで、氏はこのギャラリーを運営している市川市文化振興財団の理事長でもあります。いや、これもまた「ありました」と云いかえねばなりません。というのは、氏もこの4月9日肺がんで万里の後を追う様にして、この世に別れを告げたからです。あっしが行ったとき、ギャラリーの入り口には、ひさし氏の遺影が飾られていました。
それから多分ご存じとは思いますが、万里とひさしが、また親戚関係にあるのです。彼女の妹のユリが、ひさしの二度目の妻と云うわけなのです。 一般に物書きの展示などは退屈なものが多いのですが、彼女の場合は違っていました。なにしろ共産党員の父をもち、家族ぐるみで日本を脱出、チェコの首都プラハのソビエト学校で学んだ希有の体験が、まずあっしらの度肝を抜きます。
あっしも何冊か著書を読みましたが、その博識ぶりと、同時通訳と云う仕事の大変さはある程度理解していたつもりでしたが、他の面もきょうは、いくらか垣間見ることが出来ました。
彼女は踊りも好きだったのです、また高校時代に描いた油絵、デッサン、自分で引いた建築図面なども貴重。商売柄使いまくってボロボロになった露和辞典、同時通訳用に使った膨大な量のケースファイルも、不断の猛烈な勉強ぶりが偲ばれて、思わず足を止めてしまう。また愛蔵の絵には、彼女の友人で、著書の表紙を飾った画家・後藤栖子氏のものがある。
この画家とのそもそものなれ初めも、彼女らしくって面白い。万里が航空会社の添乗員で、栖子氏がそのお客だったという。そのほか、万里が小学3年から中学2年までを過ごしたプラハの学校教科書が残っているのもスゴイことです。
もうひとつ付け加えるとすれば、壁に並んだ万里の著書、23冊の一つ一つに、井上ひさしが愛情をこめて書いた推薦文。これも中々に読み応えがあります。
万里の著書をどうしても1冊となれば、あっしも斉藤美奈子に倣ってプラハ時代を活写した「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を挙げたいと思います。(大宅壮一ノンフィクション賞受賞)
☆ 写真はこの展覧会の案内板。 |