あなたの戦後は? 
(期間:2010.12.1 - 2011.1.31)

メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。

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  • [No.161] Re: 戦後史 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 21:01
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    > 昭和17年8月、俺はその羽田飛行場より零式輸送機に乗り、セレベス島のマカッサルに向け飛び立ちました。
    > 父母には、一寸行って来ると言い残しましたが。
    > 森が崎、羽田の浅瀬では潮干狩りの記憶が残ってます。
    > 小学校のときは夏休みは殆ど毎日、森が崎の海水浴場で泳いでました。
    > (明日から福島県小名浜の家の庭の草刈りに行きますので留守になります)

    BUPさん
    肉親にも誰にでも
    行き先は言ってはいけなかったのですね。
     どこにスパイがいるかもしれない。

    小名浜から帰ってきたら
    また書いてください。


    [No.160] Re: 戦後史 投稿者:BUP  投稿日:2010/12/10(Fri) 20:53
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    昭和17年8月、俺はその羽田飛行場より零式輸送機に乗り、セレベス島のマカッサルに向け飛び立ちました。
    父母には、一寸行って来ると言い残しましたが。
    森が崎、羽田の浅瀬では潮干狩りの記憶が残ってます。
    小学校のときは夏休みは殆ど毎日、森が崎の海水浴場で泳いでました。
    (明日から福島県小名浜の家の庭の草刈りに行きますので留守になります)


    [No.159] Re: 戦災孤児2 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 19:22
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    > またまた長文でごめんなさい。

    あやさん 長文はかまいませんよ。
    できるだけ詳しく書いていただいた方が
    参考資料となります。 不足だと誤解されたりします。

    > 当時19にもなる私は祖母と一緒に寝ていたのだ。朝、起きた時はまだ祖母は寝ていた。
    > 「おばあちゃん、会社へ行ってくるね」
    > と声をかけたが、目を開かない。いつもと違う。私は揺り動かしながら、頬をさわったのだろうか。冷たい、動かない。で死んでいることがわかった。隣家の人を呼び、助けを求めた。
    > 医師の診断は、朝の3時頃死亡したとあった。私は一緒に寝ていて気がつかなかったのだ。

    そばに寝ていて、いつ亡くなったとは、わかりませんよね。
    しかし
    畳の上で死ねた人は、やはり行いが良かった
    という人がいます。

    人が死を迎えるのは、いつどこでそうなるか本人もわかりません。
    育てたあやさんと一緒に寝ているうちに亡くなったのは
    やはり運の良いことだったと私は思います。


    [No.158] Re: 戦後史 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 19:15
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    > 「一中丸」と名のついた小さな舟で渡るのです。誰が動かしたのかな?

    あやさん
    きっと渡し守の船頭さんがいたと思います。

    昭和39年
    東京オリンピックの時
    調布で多摩川の渡しに毎朝船頭さんの世話で
    川を渡ったことがあります。 夏に実習でお世話になりました。


    [No.157] 戦災孤児2 投稿者:   投稿日:2010/12/10(Fri) 19:12
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    またまた長文でごめんなさい。

    母親を生まれた時に亡くした母は、伯母さんに当たる人に育てられた。そんなことで私のおばあちゃんでもある。母が戦争のため? 亡くなってからは祖母が母親代わりとなって育ててくれた。母が亡くなって、そのあと9年後に祖母は75歳で逝った。

    当時19にもなる私は祖母と一緒に寝ていたのだ。朝、起きた時はまだ祖母は寝ていた。
    「おばあちゃん、会社へ行ってくるね」
    と声をかけたが、目を開かない。いつもと違う。私は揺り動かしながら、頬をさわったのだろうか。冷たい、動かない。で死んでいることがわかった。隣家の人を呼び、助けを求めた。
    医師の診断は、朝の3時頃死亡したとあった。私は一緒に寝ていて気がつかなかったのだ。

    祖母は男勝りで、言うことを聞かない私を、
    「ほんとうのおばあちゃんじゃないから、お前は私を困らせる」
    「ほんとうのおばあちゃんだと思うから、わがまま言うのよ」
    と私は言い返す私だった。そんなにして育ててくれたのだ。
    「孝行できなかったけど、現在、幸せに暮せていることが孝行だと思ってください」と手を合わせるのだ。
    祖母により生きし我には孤児といふ名はまぬかるも孤児に等しき
    亡き祖母の調べを真似て歌留多読む
    父母と祖母の墓なりすすき満つ


    [No.156] Re: シューシャンボーイ。 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 19:11
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    昭さん こんばんは 150番の記事でした。

    >  戦後彼方此方の都市でシューシャンボーイが出現したと思います。
    > 私の住む街も、旧海軍の軍港都市でしたので米軍が進駐し多数の子供がシューシャンボーイとして一生懸命働いていました。

    シューシャインボーイといえば
    暁テル子を思い出します。
    SSK(松竹少女歌劇団)出身。
    「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」は代表曲。

    >  これ等は、朝鮮動乱が始まったS.25年〜動乱が終わった後の28年頃までが一番多かったようです、朝鮮に出兵する兵士達は宵越しの金は持たないみたいな感じで有り金はたいて行く兵士も多かったようで、シューシャンボーイにも釣銭は要らないと気前良くドルで支払っていました。

    朝鮮戦争で日本の景気は立ち直したようです。

    >  この話を、当市に来て聞いたメニューイン氏は、その様な人にこそ自分の音楽を聞いてもらいたかったと感激されて、其の子に会いたいと申され、お会いになられた際に欲しいものはないかとたずね、其の子がバイオリンを欲しいと言った事から、楽器店でこうして其の子供に渡されました。

    >  長文ですみません。

    昭さん
    この掲示板の趣旨としては
    どんどん思い出して書いてください。

    残さずお願いします。


    [No.155] Re: シューシャンボーイ。 投稿者:   投稿日:2010/12/10(Fri) 19:07
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    昭さん、

    シューシャンボーイって靴磨きのことかな。と思ったけど、
    ちょっとインターネットで調べてみました。靴磨きのことですね。

    >
    >  駅周辺、繁華街特に米軍の兵隊が集まる箇所には10数人ずつ数箇所で行っていましたが、殆どが戦災孤児のようで、長崎に投下された原爆で孤児になった子供達も可也居ました。余りに多くて客の奪い合いで喧嘩になったりしていました。


    私の家の近くでは見かけませんでした。駅へ行くと居たように思うのですが、
    なんかボーイというより小父さんか、お兄さんみたいなように思いました。

    >
    >  これ等は、朝鮮動乱が始まったS.25年〜動乱が終わった後の28年頃までが一番多かったようです、朝鮮に出兵する兵士達は宵越しの金は持たないみたいな感じで有り金はたいて行く兵士も多かったようで、シューシャンボーイにも釣銭は要らないと気前良くドルで支払っていました。
    >

    気前のいい兵士には会いましたね。お金は貰いませんが、ガムをよくくれました。
    笑顔ももちろんくれましたが!


    [No.154] Re: 戦災孤児1 投稿者:   投稿日:2010/12/10(Fri) 18:57
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    しろくまさん、こんばんは。

    > > 今でも時々思うことなのだが、私の戦後の第一は、「孤児となった」
    > > ことに尽きると考えている。

    > 戦災孤児といえば空襲などで焼け出された人ばかりではないのですね。
    > いろんな形で孤児となった人が存在するのですね。戦争を憎まずにはいられません。
    > でも、お母様はきっとあやさまを見守っておられることと思います。

    本来空襲などで親を失った子どもを孤児というのでしょうね。
    その意味からは私は孤児ではないでしょう。
    自分でそう考え、そう思って生きてきたのです。
    ほんとうに戦争はあってはいけませんね。

    >
    > 私は日本が敗戦にならなければ生まれなかった人間です。
    > 父はその父親の仕事の関係で現在の韓国に居り、母は日本に居りました。敗戦にならなければそれは変わらなかったことでしょう。
    >
    > 敗戦になり父の一家は強制的に帰国させられ、母と結婚することになり、私や弟が生まれました。
    > 日本が勝っておれば私や弟は絶対に存在しない人間とこどもの頃から何回考えたことでしょう。

    しろくまさんにも、そのような人生があったのですね。
    日本が勝っていれば存在しなかったと子どもの頃から考えていたなんて!

    でも、生まれてきて幸せだったと思いますでしょう。今は!


    [No.153] Re: 戦災孤児1 投稿者:   投稿日:2010/12/10(Fri) 18:49
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    > > 東京大空襲の日、池上本門寺のある山へ父だけを残して逃げた。
    > > 夜中だったと思うが、山の上から電車が火を吹いて走っているのが見え、
    > 3月10日 あの夜、大森馬込の自宅に帰ってました。
    > 乗機のエンジン交換で内地に帰っていたのです。

    ほんとうに近くに住まっておいでだったんですね。

    > 夜中に二階の北側の窓から、真っ赤に燃えている空が見えました。
    > 何にも知らずに、数日後、南の空に向けて旅発ちました。

    飛行機に乗って働いていらしたなんて、驚きです。

    > 池上は子供の頃の遊び場で、お会式の太鼓のドンドンツクツクの音が耳に残っております。

    お会式はずっと大人になってから、大森と縁がなくなってからよく行きました。
    懐かしいです。


    [No.152] Re: 戦災孤児1 投稿者:   投稿日:2010/12/10(Fri) 18:46
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    男爵さん

    >
    > > そんな母は昭和22年5月9日に入院した。その翌日のまだ家族全員が寝て
    > > いる明け方、医師と看護婦の訪れによって母の死が知らされたのだ。
    >
    > かわいそうな話ですね。
    > あやさんは9歳、そして弟さんはもっと幼かった。
    > いま、人の世話をして元気に活動しているあやさんにも
    > そんなことがあったのですね。

    そうなんですね。母の日に、白いカーネーションを胸に飾るのが悲しかったです。
    今は少なくなりましたが、何かあると「お母さん」と思わず助けを求めています。
    夕方空を見上げて、一番星を母と思っています。


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