あなたの戦後は? 
(期間:2010.12.1 - 2011.1.31)

メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。

メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。


[新規投稿] [新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用] [問い合わせ]
[トップページへ] [留意事項] [投稿の手引]
  • 以下は新規投稿順のリスト(投稿記事)表示です。
  • 48時間以内の記事は new! で表示されます。
  • 投稿者のメールアドレスがアドレス収集ロボットやウイルスに拾われないよう工夫して表示しています。

  • [No.584] Re: 元気を呉れた「異国の丘」に大感謝! 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 21:08
    [関連記事

    > > >
    > > > > この歌がヒットすると、いつしか電車の車内に傷痍軍人、たいてい二人組みが現れ、一方がアコーデオンで曲を奏でると、他方がこの「異国の丘」を歌う風景が全国の津々浦々、どこででも見られるようになった。その人たちは、手や足に『名誉の負傷』をしていて、見るからに痛々しかった。
    >
    > 歌はなんとかわかりますが、このような光景はわかりません。
    >
    > > > しかし
    > > > 私の母は理屈ではわかっていても
    > > > 人の集まるところにいるに傷痍軍人風の人たちに
    > > > 寄付をしていました。

     戦災で無一文になったToshichan のような、人間と、戦災に無傷な人や、ヤミでぼろ儲けした
    人とは、雲泥の差が有った時代やと、思いますわ。

    > > >   その都度、母は私の顔を見ながら「やっぱりねぇ」と言いました。
    > > >
    > > > 彼らは実態は芸人だったのですが、当時の日本人の心をなぐさめてくれました。
    > > >   セラピーと経済との調和していた微妙なひととき
    >
    > 母上は情の厚い方だったのですね。すばらしいです。
    >
    > >  ラジオに「お好み投票音楽会」というのが、週に、一回あり
    > >  1〜10位の音楽を毎週ながしていました。
    > >  「あこがれのハワイ航路」が1番の頃「湯の町エレジー」がその内
    > > 1位になると、宛てたのですが、
    >
    > このような番組は知りませんでした。ラジオなどあまり聞いたことなかったです。
    > 「あこがれのハワイ航路」って岡晴夫? ちがったかな? 歌っていましたっけ。
    > この方にはお会いしたことがあります。すぐそばで長い時間一緒に過ごしました。
    > もちろん歌もたくさん歌ってくれました。

     「あこがれのハワイ航路」や「湯の町エレジイ」は今も唄う人はありますが、
    「異国の丘」はほとんど、無いようです。

     苦しかった時代を「思い出して」唄うというのが、正しいと考えると、
    やっぱり、異国から、帰れた方の、絶対数が、少ないのが、本当に唄われる曲数が
    少ない、理由だと、この、ツリーを読んで思った次第です。

                                  Toshichan in Kyouto-fu


    [No.583] Re: ナイロン・ストッキング 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 20:47
    [関連記事

     あやさん、マーチャン、みなさん、今晩は。

    > ところで、そのナイロンストッキングですが、今はほつれると、輪のまま切断して
    > 輪ゴムをつなぐように、ストッキングをつないで、かぎ針で編むのです。
    > そして、お風呂などを洗うのに使います。ナイロンなのでいいのです。

    あっしは昭和28年から31年まで、横浜港などで輸出入貨物の通関の仕事に従事しておりやした。その時、その保税貨物の種類は(輸出でいうとビールや缶詰など)多岐に渡っていましたが、たしかその中に、こういうのがありました。

     ナイロンストッキングです。ですが、これがキレイな包装紙の中にではなく、驚いたことに、大きな黒い無愛想なドラム缶に入って横浜港に荷揚げされたのです。そのドラム缶が、倉庫にたくさん並んでいる光景を、今でも目の前にありありと思い浮かべることが出来ます。中を見ると、ドラム缶の家に住まう前には、さぞかし美しいヤンキー娘のおみ足を包んでいたでもあろう、使い古しのストッキングが、底までぎっしり詰まっているのでした。

     あやさんの使っているのとほぼ同じ用途で、初めから『ウエス』として輸入されたのでした。ウエスというのは辞書に、機械類の汚れを取るボロ、などと書いてあるので、当時おそらくそうした方面にでも使われていたのでしょう。


    [No.582] Re: 元気を呉れた「異国の丘」に大感謝! 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 20:08
    [関連記事

    > >
    > > > この歌がヒットすると、いつしか電車の車内に傷痍軍人、たいてい二人組みが現れ、一方がアコーデオンで曲を奏でると、他方がこの「異国の丘」を歌う風景が全国の津々浦々、どこででも見られるようになった。その人たちは、手や足に『名誉の負傷』をしていて、見るからに痛々しかった。

    歌はなんとかわかりますが、このような光景はわかりません。

    > > しかし
    > > 私の母は理屈ではわかっていても
    > > 人の集まるところにいるに傷痍軍人風の人たちに
    > > 寄付をしていました。
    > >   その都度、母は私の顔を見ながら「やっぱりねぇ」と言いました。
    > >
    > > 彼らは実態は芸人だったのですが、当時の日本人の心をなぐさめてくれました。
    > >   セラピーと経済との調和していた微妙なひととき

    母上は情の厚い方だったのですね。すばらしいです。

    >  ラジオに「お好み投票音楽会」というのが、週に、一回あり
    >  1〜10位の音楽を毎週ながしていました。
    >  「あこがれのハワイ航路」が1番の頃「湯の町エレジー」がその内
    > 1位になると、宛てたのですが、

    このような番組は知りませんでした。ラジオなどあまり聞いたことなかったです。
    「あこがれのハワイ航路」って岡晴夫? ちがったかな? 歌っていましたっけ。
    この方にはお会いしたことがあります。すぐそばで長い時間一緒に過ごしました。
    もちろん歌もたくさん歌ってくれました。


    [No.581] Re: 米穀通帳 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 19:58
    [関連記事

    マーチャン、さんらく亭さん

    マーチャン
    >>  そもそも「米穀通帳」がなくては「公式」には米飯を食べることはできなかったはずです。
    >>  たとえあっても、ご飯には、なかなかありつけないのですが。

    私はただ持っていただけで、このようなことは知りませんでした。

    >>
    >>  病気で入院するのにも、米穀通帳か外食券が必要でした。
    >>
    >>  そもそも外食券は
    >>  役所に米穀通帳を提示して発行してもらうものなのです。
    >>  だから、どっちみち米穀通帳は必要でした。

    父の入院時には外食券をよく届けました。
    このようにしてもらったのを届けたのですね。

    >>
    >>  それ以外の入手方法としては「闇米を買うこと」しかありません。
    >>  「闇米」は買うことも売ることも違法ですし、めちゃめちゃ高かったのです。

    とても貧乏で「闇米」など買えない我が家でした。
    白米と刺身の好きな母は、食べる物がなく、そのため病気とわかってすぐ亡くなっ
    たのです。

    さんらく亭さん
    > 米穀通帳は米を買うためだけでなく、身分証明書でもありました
    > 親元を離れて転勤するとき自分の分の発行を受けました
    > (今なら運転免許証や健康保険証の役割です)
    >

    身分証明書でもあったのですね。
    この通帳には私に名しかありません。弟達には別にあったのでしょうか。

    よい勉強をさせていただきました。ありがとうございました。


    [No.580] Re: 米穀通帳 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 19:48
    [関連記事

    男爵さん

    >
    > > 写真の米穀通帳は昭和45年となっていて、戦後を少し外れる
    > > かもしれませんが、最後のものとして残しておいたのです。
    > > このあたりまでお米の配給を受けていたのでしょうか。
    > >
    >
    > 昭和45年ですと
    > 私は使わなかったと思います。
    > なくてもお米を買っていたようです。

    どこに住んでいらしたのでしょうか。農家の方なら通帳が
    なくてもお米はありましたよね。
    でも、買っていらしたとは? 男性なので気がつかなかったのでは。
    母上がやってくださったのでしょう。

    >
    > あれば少し安かったのでしょうか。
    > いずれにせよわかりません。

    安かったかどうか、わかりません。

    マーチャン、さんらく亭さんの書き込みを(*^_^*)


    [No.579] Re: ナイロン・ストッキング 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 19:41
    [関連記事

    男爵さん、みなさん  こんばんは

    >
    > ここも後1日ですね。
    > 次のテーマもヨロシク。

    お役に立つかどうか? こちらこそよろしく。

    >
    > > ところで、そのナイロンストッキングですが、今はほつれると、輪のまま切断して
    > > 輪ゴムをつなぐように、ストッキングをつないで、かぎ針で編むのです。
    > > そして、お風呂などを洗うのに使います。ナイロンなのでいいのです。
    >
    > 浴槽洗いにいいですね。
    > それに似たもので代用しています。

    それに似たものとは? 
    私はアクリルの毛糸を使ってたわしを作り、食器、鍋、流しなどなど洗っています。
    中性洗剤は使いません。


    [No.578] Re: 米穀通帳 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 16:07
    [関連記事


    >  病気で入院するのにも、米穀通帳か外食券が必要でした。

    米穀通帳は米を買うためだけでなく、身分証明書でもありました
    親元を離れて転勤するとき自分の分の発行を受けました
    (今なら運転免許証や健康保険証の役割です)



          さんらく亭@甲子園


    [No.577] Re: 米穀通帳 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 15:09
    [関連記事

    男爵さん

    > あれば少し安かったのでしょうか。
    > いずれにせよわかりません。

     そもそも「米穀通帳」がなくては「公式」には米飯を食べることはできなかったはずです。
     たとえあっても、ご飯には、なかなかありつけないのですが。

     病気で入院するのにも、米穀通帳か外食券が必要でした。

     そもそも外食券は
     役所に米穀通帳を提示して発行してもらうものなのです。
     だから、どっちみち米穀通帳は必要でした。

     それ以外の入手方法としては「闇米を買うこと」しかありません。
     「闇米」は買うことも売ることも違法ですし、めちゃめちゃ高かったのです。


    [No.576] Re: 長嶋さんの存在 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 14:28
    [関連記事

    唐辛子紋次郎さん


    初めて長嶋選手を目の前で見たのは神宮での東京六大学リーグ
    の立教vs慶應戦でした。昭和32年秋だったかな?

    1塁側(立教側)で見ていましたが慶應の林投手(神戸高出身)
    から2ランホームランを打って1塁ベースを回ったあたりで派手な
    ガッツポーズをしました。当時は今と違って学生がそんなポーズ
    をとることはなかったのでだいぶ話題になりました

    その本塁打が確か通算8本目でその時点でリーグ新記録になった
    (その後も打って結局六大学リーグ新の12本になった筈です)

    実はこの試合を見に行った本命は長嶋ではなくて、本屋敷遊撃手
    (芦屋高)と杉浦忠投手が目当てでしたがすっかり長嶋の魅力に
    惹かれました。

    プロ野球では長年のアンチGですが長嶋さんだけは別格です(^_-)/


         さんらく亭@甲子園


    [No.575] Re: 開高健の「トリスを飲んで」は昭和36年ですが… 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 14:26
    [関連記事

    男爵さん 唐辛子紋次郎 さん

    > うまいコピーですね。
    > 山口瞳の作でしょうか。
    > ここらは、さんらく亭さんに聞いてみたいところです。

    呼ばれたような気が、、(^_-)/

    これは山口瞳の作です

    正確には「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」

    当時はまだ海外旅行は夢のまた夢でした
    トリス(¥330)でその夢が実現するかもという。
    海外渡航が自由化するのは3年後の1964年で、この時の
    一等賞品は「ハワイ旅行積立預金証書」でした。
    来たるべき自由化を見越しての賞品だったのです

    開高健が作ったのは、これです。同じ年です

    『人間』らしく
      やりたいナ 

     トリスを飲んで
     『人間』らしく
      やりたいナ

      『人間』なんだからナ

    時代は、高度経済成長、消費革命の真っ只中で人々は経済的な
    繁栄が幸せをもたらしてくれると信じて馬車馬のように働いて
    いた。しかし心の何処かに一抹のムナシサがなかったとは言えない。
    そこのところが人々の共感を呼んだのだと思います

    開高さんとは1956年ごろ労組の執行委員仲間として、山口さん
    とは1960年から2年間社宅の隣人としてお付き合いがありました


           さんらく亭@甲子園


    | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 |


    - Web Forum -   Modified by isso