あなたの戦後は? 
(期間:2010.12.1 - 2011.1.31)

メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。

メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。


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  • [No.311] Re: 新宿のヤミ市 投稿者:   投稿日:2010/12/23(Thu) 21:08
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      さんらく亭さん、男爵さん、みなさん、こんばんは。

    > > 都知事がいう、いわゆる三国人の闘争もあったようです。
    > > 西部劇の時代だった新宿というところでしょうか。
    > 神戸では敗戦の直後から国鉄三宮駅の高架下から神戸駅までの間は闇市が並んで、
    > ほとんど治外法権の地帯でした。
    > 戦前から神戸に多く住んでいた在日朝鮮人、在日中国人は日本人と同じ敗戦国民
    > ではないがアメリカと同じ戦勝国民でもない。そこで「第三国人」という表現が使われました。多くは善良な市民ですが中には日本の法律に従う必要はないと禁制品の
    > 横流しや暴力事件を起こす連中も増え、三国人には日本の警察も手を出すのを
    > 恐れていました

     あのころ、第三国人は、怖いもんなしでしたねえ。

    > 石原慎太郎が三国人との表現を使って差別だとか侮辱だとか批判されましたがこの
    > 批判は無知によるまったくの間違いであることが後日周知されました。
    > 石原は私と同じ昭和7年神戸生まれなので当時のことが分かっていたのです。
    > 彼が「太陽の季節」で障子破りをしたころ私は母親の手伝いで障子張りをしました。
    > エライ違いですわ(;_;)

    親孝行のさんらく亭さんが、いくらせっせと障子張りをされても、同じ神戸出身のアプレゲールさんに、片っ端から障子を破られたんじゃ、堪った紋じゃありませんねえ。(-_-;)


    [No.310] Re: 新宿のヤミ市 投稿者:   投稿日:2010/12/23(Thu) 20:32
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    唐辛子紋次郎さん  男爵さん こんばんは

    > 都知事がいう、いわゆる三国人の闘争もあったようです。
    > 西部劇の時代だった新宿というところでしょうか。

    神戸では敗戦の直後から国鉄三宮駅の高架下から神戸駅までの間は闇市が並んで、
    ほとんど治外法権の地帯でした。

    戦前から神戸に多く住んでいた在日朝鮮人、在日中国人は日本人と同じ敗戦国民
    ではないがアメリカと同じ戦勝国民でもない。そこで「第三国人」という表現が使われ
    ました。多くは善良な市民ですが中には日本の法律に従う必要はないと禁制品の
    横流しや暴力事件を起こす連中も増え、三国人には日本の警察も手を出すのを
    恐れていました

    貧乏学生時代空腹に耐えかねると三宮のジャンジャン市場という闇市で芋の代用食、
    芋ぜんざいなどをガツガツとかきこんだものです

    石原慎太郎が三国人との表現を使って差別だとか侮辱だとか批判されましたがこの
    批判は無知によるまったくの間違いであることが後日周知されました。
    石原は私と同じ昭和7年神戸生まれなので当時のことが分かっていたのです。
    彼が「太陽の季節」で障子破りをしたころ私は母親の手伝いで障子張りをしました。
    エライ違いですわ(;_;)



          さんらく亭@甲子園


    [No.309] Re: 押入れの暗室 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/23(Thu) 20:06
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    あやさん
    おかげで300件に達しました。
    あやさんに感謝します。

    > 男爵さんのサザエさんにレスをつけていて思い出しました。
    > 昭和30年前後の時ですかね。

    > それはさておき、その男子は写真が趣味だったのか? 住み込みの
    > 部屋の押入れを暗室にしてしまったのです。店主は怒りましたが
    > 聞くものではありませんでした。
    >
    > カーテンのような幕が張ってあったり、なんかごたごたと並べてあって、
    > 電気もあちこちついていました。
    > 私も潜り込んで、一緒に焼き増しなどしました。
    >
    > おもしろかったです。楽しかったです。

    実は、私の父も写真に凝っていました。
    ただし暗室は作らず
    家族が寝たら、台所で水を流しながら
    夜に現像とか焼き付けをやっていました
    (現像や定着には水をたくさん使うのです)。

    当時は写真は貴重なものでして
    父は小学校の先生だったのですが
    学級の生徒の日常の写真や
    卒業とか修学旅行の写真を撮って配って
    父兄からとても感謝されました。

    この写真道楽はとてもお金がかかったのですが
    母は何も言いませんでした。
    あんがい評価していたかもしれません。


    [No.308] 押入れの暗室 投稿者:   投稿日:2010/12/23(Thu) 19:19
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    男爵さんのサザエさんにレスをつけていて思い出しました。
    昭和30年前後の時ですかね。

    そのアルバイトをしていたパン屋・喫茶店併設の店に、少し上の
    男子が住み込みで働いていました。
    山を歩き、海へ釣に、時には街中へ遊びによく歩いたものです。
    彼の友人にデパート経営の息子がいて、贅沢でしたね。
    お金をたくさん持ち、お菓子など箱ごと持って来てくれました。

    それはさておき、その男子は写真が趣味だったのか? 住み込みの
    部屋の押入れを暗室にしてしまったのです。店主は怒りましたが
    聞くものではありませんでした。

    カーテンのような幕が張ってあったり、なんかごたごたと並べてあって、
    電気もあちこちついていました。
    私も潜り込んで、一緒に焼き増しなどしました。

    おもしろかったです。楽しかったです。


    [No.307] Re: 昭和28年/サザエさん 投稿者:   投稿日:2010/12/23(Thu) 19:08
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    男爵さん、こんばんは

    >
    > > そういえば校庭で映画会がよく催されました。なんの映画だったか?
    > > 鉄棒にぶら下がったりしながら、見ていた時もあります。
    >
    > これは臨場感あるコメントでした。実際に体験した人でないと書けません。

    ありがとう。夜のことでおばあちゃんが心配して迎えにきたりもしました。

    >
    > > > テレビでは力道山がなんといっても結びつきます。
    >>
    > パン屋と喫茶店がセットになっている店は
    > たとえば吉祥寺駅前のドイツパン屋リンデがあります。
    > http://www.lindtraud.com/

    こんなすごい店ではありませーん。下級生の男の子の家でした。
    その男子は数学ができたのです。ところが、私にアルバイトに
    くるなと言うのです。なぜかって、先生が「お前のところに
    いい先輩がアルバイトしていてくれてていいな」と言われた
    そうです。私もその数学の先生には、太鼓判を押されていたのです。

    > 時間があったらリンデにも寄るところでしたが

    いつかまたですね。

    > 美人のあやさんが働いていれば、それでお客さんも増えていたことでしょう。

    とんでもない! でも自由が丘のバーのママに働いてくれないかと
    言われたことありです。顔のせいではありません。


    [No.306] 昭和30年/サザエさん 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/23(Thu) 16:40
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    昭和30年

     街頭録音  サザエが「新内閣にのぞむ」と題する街頭録音で「世田谷のフグタ、主婦、二十三歳」と自己紹介し、「うそのない政治をしてください」と言う。そばにいたカツオが「二十三だって、うそじゃないの」。サザエ、逃げるカツオを追う。
     ヘップバーン・スタイル  「ローマの休日」のヘップバーンの髪型(前髪を下ろしたショートカット)が評判になった。
     下駄をはく  当時は小学生も中学生も下駄をはいていた。今なら下駄は応援団と鬼太郎だけ。
     下駄でうらなう天気予報  表が出たら晴れ、裏が出たら雨。
     障子の張り替え  年末には障子の張り替えをしたものです。
     落とし穴  カツオが花壇を作ろうと穴を掘っている。しかし、途中から気が変わって落とし穴をつくり、サザエを見事に落っことす。
     鬼ごっこ  ワカメが往来で「鬼ごっこするもの、この指とまれ」と友だちを呼んでいる。
     ゴムひもとび  狭い通り道で女の子たちがゴムひもとびをやっている。通れなくて困ったサザエは、思い切ってゴムひもをとび越える。すると女の子たちが拍手をしたので、つけあがったサザエはゴムひもの高さを高くしてもらい、それに挑戦する。女の子たちは調子づいたサザエに困り顔。  
     果物をつめた木箱  磯野家にはよく地方から木箱につめられたリンゴやミカンが届く。木箱はいつのまにかダンボール箱にかわっていった。
     金魚売り  ワカメが部屋で本を読んでいると「きんぎょーえ、きんぎょー」の甲が聞こえる。
     ラジオが娯楽の中心  磯野家では夜に、サザエとカツオがラジオの落語を聞いている。落語家がヨウカンをうまそうにほうばっている演技を聞いて、二人とも急に空腹を感じ、台所へ食べ物を探しに行く。
     知恵の輪  街でカツオが知恵の輪らしきものをひろう。なかなかはずれない。波平がやると簡単にはずれる。しかし、近くの女性から「あたくしのイヤリングざんすけど」と文句が。
     コールド・パーマ  電熱を用いず薬品だけでするパーマ。 今はコールド・パーマですね。


    [No.305] 昭和29年/サザエさん 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/23(Thu) 16:06
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    昭和29年

     八頭身 前年にミス・ユニバースで伊東絹子が第三位となった。海水浴場に来たサザエが伊東絹子の等身大の切り抜き看板を見つける。「これを通り抜けた方は八頭身美人です」 四頭身のサザエには無理だった。
     若い女性への席ゆずり  アメリカは開拓者の国、女性が少なく女性を大事にする習慣が生まれた。電車の席に座っていたマスオとノリスケが立って女性に席をゆずる。その女性はちょっと太めだったから。しかし、彼女は「まぁ失礼な」と座るのを拒否する。
     三本立て映画  映画館の切符売り場で「切符二枚」という声と同時に二人からお札が出てくる。フネと知人が、互いに(相手に払わせまいとして)自分が払おうとする。豪華三本立て映画
     デパートの実演販売  デパート内で生活用具や食品の実演販売を見ているマスオ。サザエに呼ばれて「よく呼んでくれた。気が弱くてね、行きそびれたんだ」というマスオ。
     運動会の賞品  ワカメが運動会でノートと手ぬぐいをもらってくる。
     毛糸巻き  昔は使った毛糸のセータなどをときほぐし、再利用することが多かった。毛糸編みは女性の家事の一つだった。
     ドロメップ缶  サザエがこたつに入っているワカメオに「ごほうびにドロップあげる」から、毛糸巻きを手伝ってと言う。
     インク壺  針仕事をするサザエのそばを、バケツとぞうきんを持って何度も行き来するカツオとワカメ、二人は机のインク壺をひっくり返して畳をよごしたので拭き取っていた。
     ゴジラ  日本最初の空想科学映画 ゴリラとクジラの名前を合体させたネーミング。

     


    [No.304] Re: 新宿のヤミ市 投稿者:   投稿日:2010/12/23(Thu) 13:52
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    > 唐辛子 紋次郎さん  祝300番!

     ワオ、これはスゴイ。さっそく祝杯を挙げなくっちゃ。(^_-)-☆

    日本はいまでもヤクザ社会のような紋ですが、混乱期の終戦直後はとくに沢山のヤクザが暗躍しました。

     東京のヤミ社会を活写したR.ホワイトニングの、(六本木の夜を取り仕切ったニックこと、ニコラ・ザペッティ元海軍軍曹☆にとくに詳しい)本を読めば、驚きの連続です。このころから日本はイタリア系と関係が深かったのですね。

     ホワイトニングには、さきの安藤昇ももちろん、登場します。自民党の生みの親で、ロッキード事件の被告、日本プロレスリング協会(力道山なども所属)の会長だった、児玉誉士夫もでてきます。

     日本の戦後は、こうした怪物どもの活躍で始まったんだなあ、と感慨ひとしおです。

     当時、ヤミ市で売られた商品のなかにも、正当なルートのものだけでなく、かれらが米軍から盗んだものも、大量に混じっていたようですね。


     ☆ かれはNYの貧民街、家の周りがすべてマフィアの仲間だらけ、というお誂え向きの環境。つまり、ハーレムで誕生)


    [No.303] Re: 新円切替 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/23(Thu) 11:53
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    さんらく亭さん みなさん   こんにちは

    > >  農家に買い出しに行っても、お金より「もの」がものを言いましたよね。
    > >  次々と着物などを手放して食料調達をしていた。いわゆる「竹の子生活」だったのですね。

    > 母が京都から嫁入りのときに持ってきた西陣織の衣料を風呂敷包みに包んで溜息つきながら僅かのお米と物々交換で農家に渡していた姿は子供心に刻み込まれました

    着物を持っていた人は、それでも食べ物が手に入ったのです。

    何かで読んだら
    ずっと農業をやってきた人が
    今までで一番良かったのが、終戦後の食料不足のときだったと正直に言っていました。
    (食料を持っていたら強い。着物も帯も貴金属も手に入ったでしょう)
    農業もあとはダメだったそうです。
    今は高い関税もかけられなくなって外国の安い農産物がどんどん入ってきますから。

    私の終戦後の北海道の田舎(そこに当時あった国鉄ローカル線もいまは廃止されました)の暮らしでは、幼いころなので、食べることは食べられたのですが、大人たちがまずい物を食べて我慢していたことは記憶しています。
    都会から、食料を得ようとして着物とか持ってきた人が
    思うように交換してもらえず、苦労していたということを亡くなった母親から聞きました。

    中には、だまされて、都会に帰られず、その土地で自殺した女の人もいたそうです。
    だから、母親は、当時の田舎の人をあまりよくは言いませんでした。
    良心的な人もいたでしょうが、欲張りの人もいたでしょうから。


    [No.302] Re: 新円切替 投稿者:   投稿日:2010/12/23(Thu) 10:53
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    マーチャン みなさん

    >  「進駐軍の命により」となると反対してもムダだったのでしょうか。

    あの当時「進駐軍の命により」というのは黄門様の印籠でしたね
    中には勝手にその名を騙って悪事を働く奴もいました。とくに神戸ではひどかった。

    >  農家に買い出しに行っても、お金より「もの」がものを言いましたよね。
    >  次々と着物などを手放して食料調達をしていた。いわゆる「竹の子生活」だったのですね。

    母が京都から嫁入りのときに持ってきた西陣織の衣料を風呂敷包みに包んで溜息つきながら僅かのお米と物々交換で農家に渡していた姿は子供心に刻み込まれました


            さんらく亭@甲子園


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