平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.3237]
Re: 洞爺丸台風の年
投稿者:夏子
投稿日:2017/03/04(Sat) 09:57
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洞爺丸、紫雲丸と、遭難事故が続いて、それまで四国が定番だったわが母校の小学校の
修学旅行の行く先が変更になりました。
私たちの学年が最初に影響を受けて、本州の広島県宮島に行くことになりました。
あそこも船には乗りますが、何と言っても短時間で、波の静かな海ですからね。
結果として、私は宮島が旅行先でよかったです。厳島神社も、干満の激しさも非常に
印象に残っています。
しかし、その後の修学旅行先がどこになったかは、まったく記憶がありません。歳の近い
弟妹もいるのに・・・
夏子
[No.3236]
Re: 洞爺丸台風の年
投稿者:男爵
投稿日:2017/03/03(Fri) 11:06
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まやさん、 みなさん、 こんにちは。
> > 洞爺丸台風は、1954年(昭和29年)9月26日に来襲した台風である。
> 洞爺丸事件があったとき、私は札幌在住でした。
>
> そして、私が所属していた教会で奉仕されていた宣教師がこの
> 洞爺丸に乗っておられたのでした。ご自分がつけていた救命具を
> 近くにいた女学生(?)に譲ったばかりに、ご自身が遭難なさる
> ことになったという悲しい報告に接し、葬儀の席に連なるという
> 出来事があったのは忘れられない思い出になっています。
この宣教師の話は、三浦綾子か誰かの小説で読んだことがあります。 「氷点」でしたか?
あのアウシュヴィッツの強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなった
コルベ神父みたいな人が洞爺丸に乗っていたんですね。
[No.3235]
Re: 洞爺丸台風の年
投稿者:まや
投稿日:2017/03/03(Fri) 09:57
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みなさん、お早うございます。
> 洞爺丸台風は、1954年(昭和29年)9月26日に来襲した台風である。
>
> 青函連絡船洞爺丸の遭難では1,139名の犠牲者が出た。
>
> この事故をきっかけに青函トンネル構想が世に出て、いま完成した青函トンネルに新幹線が走る。
洞爺丸事件があったとき、私は札幌在住でした。
そして、私が所属していた教会で奉仕されていた宣教師がこの
洞爺丸に乗っておられたのでした。ご自分がつけていた救命具を
近くにいた女学生(?)に譲ったばかりに、ご自身が遭難なさる
ことになったという悲しい報告に接し、葬儀の席に連なるという
出来事があったのは忘れられない思い出になっています。
まや
[No.3234]
洞爺丸台風の年
投稿者:男爵
投稿日:2017/03/02(Thu) 11:10
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洞爺丸台風は、1954年(昭和29年)9月26日に来襲した台風である。
青函連絡船洞爺丸の遭難では1,139名の犠牲者が出た。
この事故をきっかけに青函トンネル構想が世に出て、いま完成した青函トンネルに新幹線が走る。
ラジオ深夜便で昭和29年の歌謡曲として
雪村いづみ「青いカナリヤ」(昭和29年 5月)が流れました。
https://www.youtube.com/watch?v=TOnhwBEH-q4
https://www.youtube.com/watch?v=mfMjojXWv2o
[No.3233]
Re: えり子と共に
投稿者:男爵
投稿日:2017/03/01(Wed) 03:25
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Panさん、 みなさん おはようございます。
> 今思うとあの「えり子」の声に恋していたのだと思います。
>
> 阿里道子さんが演じていたのですね。
>
> 終戦直後で、私は結核に罹り、もうダメかと思いながら休学して
> いたときです。
結核で悩んでいた Panさん
あの三浦(堀田)綾子の闘病生活と重なります。
彼女は、1939年に旭川市立高等女学校卒業。その後歌志内町・旭川市で7年間小学校教員を勤めたが、1946年に退職。この頃肺結核を発病する。
と自伝に書いています。
当時の日本人の栄養状態、衛生状態など考えると
やむをえない事情がありましたね。
あの渥美清も、1954年に肺結核で右肺を切除しサナトリウムで約2年間の療養生活を送っています。
絶望のどん底で聴いた雪村いづみの「青いカナリヤ」が、生きる希望を与えてくれた。
明治の時代でも
夏目漱石の兄たちも結核で亡くなったし
樋口一葉も石川啄木も結核で亡くなりました。
森鴎外も比較的長生きしたが、結核だったことを自覚していました。
[No.3232]
Re: えり子と共に
投稿者:Pan
投稿日:2017/02/28(Tue) 22:47
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男爵さん、 みなさん こんばんは。
> > 「雪の降る町に」はその時に作られた歌だそうです。
>
> そういうことになっています。
> なんでも、時間が余ったので
> 何かしたほうがいいということで詩を作り
> それではと作曲を頼んだとか。
歌は単独で知っているのに、その時に作られた印象は持っていませんでした。
今思うとあの「えり子」の声に恋していたのだと思います。
阿里道子さんが演じていたのですね。
終戦直後で、私は結核に罹り、もうダメかと思いながら休学して
いたときです。
***** Pan *****
[No.3231]
Re: えり子と共に
投稿者:男爵
投稿日:2017/02/27(Mon) 22:09
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Panさん、 みなさん、こんにちは。
> 「雪の降る町に」はその時に作られた歌だそうです。
そういうことになっています。
なんでも、時間が余ったので
何かしたほうがいいということで詩を作り
それではと作曲を頼んだとか。
山形県の鶴岡のイメージとかで
鶴岡には記念碑もあります。
冬に鶴岡に行ったのですが
その年は暖冬で、雪が全然なくて、がっかりしたことがあります。
[No.3230]
えり子と共に
投稿者:Pan
投稿日:2017/02/27(Mon) 09:42
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みなさん、こんにちは。
先日ラジオを聞いていたら、チラッと名前が出てきたのが「えり子と共に」
でした。
昭和20年の事だったそうです。
http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-637.html
物語は全く覚えていませんが、番組の始まり毎にえり子の声が
聞こえたのが印象的でした。
「雪の降る町に」はその時に作られた歌だそうです。
***** Pan *****
[No.3229]
Re: 初めてのカラー写真
投稿者:まや
投稿日:2017/02/20(Mon) 23:13
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Panさん、安房守さん & みなさん、今晩は!
カラー写真のスライド用のネガが出てきました(^'^) サクラカラーで、
占領下の沖縄に行ったときのものもありますから、かなり古いですね。
ガラス板のネガもあったはずですが、こちらは処分したらしく(忘れた)
出てきませんでした。(私が写っているのだけ保存していたはずですが?)
> 当時、黒白は自分の現像タンクて現像して引伸し機?、で印画紙にプリントしてました。
> 写真の歴史は明治前後を振り返ってみても面白いですね。
父が写真を趣味にしていましたので、フィルムの現像から引き伸ばし機
を使っての焼きつけ、写真の水洗いから乾燥など、子供時代には父のそば
で、楽しんだのを記憶していますが、今はみんな懐かしい思い出です。
まや
[No.3228]
Re: 蒋介石総統
投稿者:安房守
投稿日:2017/02/19(Sun) 19:43
[関連記事] URL:http://awa.o.oo7.jp/ |
宋美齢は105歳で他界したのですね。
どんな想いの晩年だったのでしょう。
> 座っているのが
> 宋慶齡ですね。
>
> 父親は熱心な孫文の支援者でしたが
> 娘が孫文と結婚するのは反対だったようです。
> 年も離れすぎ。
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