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 昭和の部屋   2014.8.19更新

   平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
 輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
 国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
 お話し下さい・・・貴方の昭和
 ※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります


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  • [No.3409] Re: 長谷川町子のこと 投稿者:男爵  投稿日:2018/06/10(Sun) 07:43
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    > 長谷川町子の年表調べです。
    >
    > 1920(大正9)年 佐賀県に生まれる。 0歳
    > 1932(昭和7)年 福岡高等女学校入学 12歳
    > 1933(昭和8)年 父死去       13歳
    > 1934(昭和9)年 一家で上京 山脇高等女学校に編入 田河水泡に弟子入り 14歳
    > 1936(昭和11)年 山脇高等女学校卒業 田河水泡の内弟子となる 16歳
    > 1944(昭和19)年 一家で福岡市に疎開 24歳
    > 1946(昭和21)年 4月「夕刊フクニチ」で「サザエさん」連載 12月 一家で上京 26歳
    > 1947(昭和22)年 「夕刊フクニチ」で「サザエさん」連載再開 27歳
    > 1949(昭和24)年 12月 「夕刊朝日新聞」に「サザエさん」連載  29歳
    > 1951(昭和26)年 4月 「朝日新聞」朝刊に「サザエさん」連載 31歳
    > 1974(昭和49)年 2月 「朝日新聞」で「サザエさん」連載終了 54歳 


    その後、この本も読みました。(どうやら2度目 以前に読んだ記憶がある)
      長谷川洋子:サザエさんの東京物語

    著者は姉妹の末の妹

    52歳で夫を亡くした、長谷川町子たちの母親は
    クリスチャンの親友から、「一緒に祈りましょう」と誘われ教会に通うようになる。

    すっかり神様にすがるようになった母は
    病に伏した父にも安らかに天国に行けるようにと、父をはじめ一家五人が洗礼を受けた。

    しかし冷静な著者は
    母や牧師の熱意も父は迷惑に感じていたと思う
    と述べている。

    力ずくでも信じさせようという母の熱意に
    「信じられないものは信じられないよ」とうるさそうにいう父だった。

    父のベッドから見える位置に二枚の絵がかけてあった。 ゲッセマネの園で祈るキリスト像 聖母子像
    ある日、父はお手伝いさんに命じて、この二枚の絵を外して片づけさせた。

    > 16歳のときに田河水泡の家に住み込みで内弟子となったが
    > ホームシックにかられ数ヶ月で実家に戻ってしまう。

    十一ヶ月で家に戻った長谷川町子
    でも、田河水泡の推薦で、「少女倶楽部」に作品が掲載された。
    彼女の影響で、田河水泡夫妻はクリスチャンになったという。

    著者は女子大を受けるのに、理数系にしようと思ったが、町子姉から強引に文科系(国文科)にするよう押し切られた。
    合格した女子大だが、なぜか毎日学校までの道に迷った。(方向音痴?)
      心理学の先生に言わせると、それは女子大が嫌いだから。 あの瀬戸内寂聴さんの卒業した女子大です。

    長女は菊池寛の連載小説の挿絵を描いていた。その縁で著者は菊池寛に紹介され、女子大をやめて会社で働くよう勧められ、文芸春秋の社員になってしまった。 おやおや

    「サザエさん」が売れに売れて、期待して貯金通帳を見た町子と姉まり子は、思ったほど金額が記載されていないので母に抗議をする。

    「私たちは十分すぎるくらい、豊かに暮らしているじゃありませんか。余ったものは神様からの預かりものだから、足りない方、困っている方たちに使っていただくのが当然のことでしょう」
    「自分の所有物だと思ったらとんでもない間違いです。町子の才能も出版社が順調に発展しているのも、みんな神様から与えられたお恵みなんだから! 自分たちの働きだと思ったら思い上がりもいいところだ。ちっと反省しなさい」

    これに対して町子たちが反論するのももっとものこと。
    「私たちの老後のことも考えてよ。花咲爺さんみたいにまいて歩くばかりで、人にはだまされるわ、いかがわしい団体に寄付するわで、お母様のやり方には計画性も方向性もないじゃないの」


    この著者洋子は結婚して娘二人をもつ。新聞記者の夫は35歳で死ぬ。
    どうやら,サザエさんのムコのマスオは、この洋子の夫がモデルみたい。 容貌や性格はともかく、シチュエーションは目の前のモデルを長谷川町子は使ったのだろう。

    > 戸籍的にムコではなくとも、マスオさんは娘夫婦と同居するという波平・フネにとって好ましいムコなのだろう。


    [No.3408] Re: ドンゴロス 投稿者:Pan  投稿日:2018/06/06(Wed) 00:10
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    夏子さん、男爵さん、みなさん こんにちは。

     もう日も飛んでしまいましたが、この言葉は良く使いました。

     やや粗雑ではあっても丈夫でしたから、何でも頑丈な物には
    「ドンゴロスのような・・」と言った使い方をしたものです。

     極端な場合は人物に対しても使うことがあったように思いま
    すが、穏やかな言葉に替えれば後世の「丈夫で長持ち」と同じ
    で、決して見下すような使い方では無かったと思います。


       ***** Pan *****


    [No.3407] お好み焼きで笑顔に 広島のボランティア 投稿者:男爵  投稿日:2018/05/31(Thu) 17:30
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    > 私は広島にパソコン通信のミニオフと称して
    > 広島お好み焼きを食べに行ったのでしたが
    > ドイツで一緒だった先生が広島大学にいたので
    > 広島大学に表敬訪問しました。

    > その先生も一緒に電車に乗って
    > お好み焼きの店に行ったのですが
    > ビルの中にできた屋台村でお好み焼きを食べたので
    > その先生も(その変化に) 驚いていました。


    お好み焼きで笑顔に 広島のボランティア、益城町の仮設訪問

    https://kumanichi.com/news/490614/

     熊本地震の被災者に笑顔を届けようと、生活協同組合ひろしまの職員や組合員のボランティアらが30日、益城町の仮設団地を訪れ、名物の広島風お好み焼きを振る舞った。  生協ひろしまは2012年から東日本大...​


    [No.3406] 松山恵子 の曲「お別れ公衆電話」 投稿者:男爵  投稿日:2018/05/31(Thu) 06:09
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    今朝のラジオ深夜便で
    松山恵子の「お別れ公衆電話」を聞きました。

    いつか、五木寛之も
    彼女が長くないことを悟ったとき
    ファンに最後の別れをするように
    この歌を歌っていたことを語っていましたね。

    https://www.youtube.com/watch?v=0oUfPukxaok

    いまなら
    携帯電話があるから
    駅の公衆電話があるかないかは、問題でないのですが。

    この歌の女の悲しみも
    後世の人には理解できないでしょう。

    あるコミックで
    恋人同士が待ち合わせる駅を私鉄か国鉄(JR)で
    お互いに違う駅を考えていて
    とうとう会えずに、それがきっかけで別れてしまう話があったが
    今なら場所が違うことを携帯電話でやりとりすれば
    現場で会えるわけです。

    時代が違う。
    便利になった。 しかし,詩情がなくなった。


    [No.3405] 広島大学学部長殺人事件 投稿者:男爵  投稿日:2018/05/28(Mon) 16:08
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    広島大学学部長殺人事件

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%AD%A6%E9%83%A8%E9%95%B7%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
    広島大学学部長殺人事件とは、1987年(昭和62年)7月22日に発生した殺人事件である。

      −−−

    そのとき
    私は広島にパソコン通信のミニオフと称して
    広島お好み焼きを食べに行ったのでしたが
    ドイツで一緒だった先生が広島大学にいたので
    広島大学に表敬訪問しました。

    その先生の言うことには
    事件を起こした理学博士の助手は
    人柄の良い人で親切だったそうです。

    とても、あんな事件を起こしたなんて信じられないと
    言っていました。

    その先生も一緒に電車に乗って
    お好み焼きの店に行ったのですが
    ビルの中にできた屋台村でお好み焼きを食べたので
    その先生も(その変化に) 驚いていました。
       まるでシンガポール  シンガポールは古い町を壊して近代的なビル街に変えているのです。

    私は、大きなヘラひとつで
    お好み焼きを上手に食べるのに驚くやら感心するやらでした。


    [No.3404] Re: サザエさんの昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2018/05/24(Thu) 07:49
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    > サザエさんの漫画は
    > 昭和の日本人の生活やものの考え方を反映していて
    > 貴重な文化資料だという人がいます。

    上に紹介した樋口恵子の文章ですが
    彼女は女性なので、男性のあまり気づかない視点でサザエさんを見ています。

    サザエさんは嫁ではない。
    だから自由なのだ。
    姑と一緒に暮らさず実母と一緒に暮らすサザエさんは
    嫁の苦しみや悲しみを知らない。(知らなくてしあわせ)

    逆にマスオさんはムコなので、サザエさんの両親やサザエさんの弟や妹との同居生活で苦労している?

    戸籍的にムコではなくとも、マスオさんは娘夫婦と同居するという波平・フネにとって好ましいムコなのだろう。

    必殺シリーズの 中村主水(藤田まこと)が、「ムコ殿!」と叱責されるのとは対照的だ。


    [No.3403] サザエさんの昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2018/05/24(Thu) 07:39
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    サザエさんの漫画は
    昭和の日本人の生活やものの考え方を反映していて
    貴重な文化資料だという人がいます。

    たとえば
    目に見えて大きな変化は、家庭の中に便利な道具・家具が
    昭和30年代後半から急激に増え
    家の中はピカピカ美しく、主婦の家事が合理化されたことである。

    20年代、サザエさんの台所の火は、いわゆる七輪である。
    新聞紙、タキギ、消し炭の順で、家の外で火をおこしてから台所に運び込まれたに違いない。
     七輪は台所の床に置かれ,サザエさんはその前にしゃがみ込んで、すいとんの鍋などをかき回している。

    ある日、台所にガスが引かれ、ギザギザのついたガスコンロが台の上に置かれている。
    まだ、ガス台の上にはダルマさんのお尻のような釜がデンと置かれ、ごはんの湯気をたてている。

    そしてまた数年、ある日のサザエさんの台所は、ステンレスで統一された調理台、自動点火、オーブンつきガスレンジが光っている。

    そして、ネコがフタの上に寝そべっていたおひつは電気ガマに、氷冷蔵庫は電気冷蔵庫に代わった。

    磯野家の食事どき、家族はチャブ台を囲んで座っていたが、それも万博の近づく40年代中ごろからは、ダイニングキッチンにかわっている。

     以上は樋口恵子の文章だが、女性の目から具体的に述べられている。


    話は違うが
    ある中国料理の体験の本を読むと
    おいしい料理がつくられる厨房をのぞいてみると
    七輪だけだった。 ガスコンロなどなかった。

    要するに、調理器具よりは料理人の腕なのだということ。
    昔ながらの七輪で出せる(ベテランの)味は、ガスコンロを与えられた(味の修業の未熟な)若い料理人ではまだ出せないのである。

    といっても
    戦後の便利な厨房製品のおかげで
    女たちは自由につかえる時間がたくさん得られることになった。


    [No.3402] 長谷川町子のこと 投稿者:男爵  投稿日:2018/05/19(Sat) 13:16
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    長谷川町子の年表調べです。

    1920(大正9)年 佐賀県に生まれる。 0歳
    1932(昭和7)年 福岡高等女学校入学 12歳
    1933(昭和8)年 父死去       13歳
    1934(昭和9)年 一家で上京 山脇高等女学校に編入 田河水泡に弟子入り 14歳
    1936(昭和11)年 山脇高等女学校卒業 田河水泡の内弟子となる 16歳
    1944(昭和19)年 一家で福岡市に疎開 24歳
    1946(昭和21)年 4月「夕刊フクニチ」で「サザエさん」連載 12月 一家で上京 26歳
    1947(昭和22)年 「夕刊フクニチ」で「サザエさん」連載再開 27歳
    1949(昭和24)年 12月 「夕刊朝日新聞」に「サザエさん」連載  29歳
    1951(昭和26)年 4月 「朝日新聞」朝刊に「サザエさん」連載 31歳
    1974(昭和49)年 2月 「朝日新聞」で「サザエさん」連載終了 54歳 


    16歳のときに田河水泡の家に住み込みで内弟子となったが
    ホームシックにかられ数ヶ月で実家に戻ってしまう。

    参考にしたのは
     鶴見俊輔・齋藤愼爾:サザエさんの<昭和> 柏書房
    でした。   


    [No.3401] Re: サザエさん 投稿者:まや  投稿日:2018/05/13(Sun) 21:42
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    男爵さん、今晩は!

    > 長谷川町子美術館に何度か行きました。
    >
    > ここはサザエさんの町です。

     桜新町に行ったことがあります。所沢の教会に古くからいらした牧師
    さんが教会を移られたときでしたから、もう随分以前のことになります
    が、そのとき周辺を歩いたのでした。

    まや


    [No.3400] Re: サザエさん 投稿者:男爵  投稿日:2018/05/13(Sun) 18:15
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    まやさん、今日は!

    > > >  「サザエさん」は確か福岡の人ですよね。
    > >  
    > > >  いつの頃か東京に引っ越したのですが、いつだったか?
    > > >  ほとんど記憶にない(/_;) 

    > >  『サザエさん』は8月22日にサザエの結婚で一旦打ち切りとして同年の暮れに一家そろって上京する。

    > >  1947年1月3日、夕刊フクニチへの『サザエさん』連載を再開した。

    > >  1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移すと、作者の引越しをなぞるように磯野家も東京に引越した。
    > >  1949年、朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に『サザエさん』の連載先を変更する。

    > > ですから
    > > 昭和21年暮れには上京して
    > > あとはずっと東京住まいです。

    長谷川町子美術館に何度か行きました。

    ここはサザエさんの町です。


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