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 昭和の部屋   2014.8.19更新

   平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
 輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
 国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
 お話し下さい・・・貴方の昭和
 ※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります


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  • [No.2563] Re: 陸士、海兵 投稿者:Pan  投稿日:2015/10/11(Sun) 16:55
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    ザックスさん、みなさん、

    > 私どもが中学の頃、戦争末期の頃、この二つと機関学校はあこがれの的でした。当時の軍部の宣伝もあって、すでに負け戦であるにも関わらず、若い中学生は宣伝に載せられて進むべき道を見失っていました。
    >
    > 私の数年先輩はこれらの学校に入り、もう少し先輩の連中は戦況も知らずに、国のために散って行ったのです。私ももう少し早く生まれていれば、この世にはいなかったかもしれません。

     中学校へ入ったとき、上級生が次々とその方面に進学して、その都度
    全校生徒で盛大な歓送会が行われました。

     進んだ中学校は別でしたが、私の小学校の同級生が一人、昭和20年
    に「幼年学校」に入ったのは聞いていました。

     6年後の大学の入学試験会場で偶然出会いビックリしました。
     半年で敗戦になり生きて帰っていたのです。

     その同じ日、私達の小学校卒業時の担任だった先生が共産党のトラック
    に乗って選挙演説をしていました。
     私達には選挙権がまだありませんでしたが、その先生は府会議員になり
    ました。


    > そういう尊い人柱のお蔭で今の平和があるんですね。私は視力が悪かったのでそういう方へはいけませんでしたが。

     尊いと云うか空しいと言うかは別にして、そのような歴史の上に今私達
    は生きています。

       ***** Pan *****


    [No.2562] Re: 傷痍軍人 投稿者:Pan  投稿日:2015/10/11(Sun) 16:51
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    男爵さん、みなさん こんにちは

    >戦争で障害者になった人が車に乗っていると、どこに車を駐めてもいいのだということを聞いたことがあります。

     ちょっと脱線しますが、私の知人で心臓のペースメーカーを入れて
    いる人があります。 戦争による障害とは無関係です。

     その人はどこでも停められると云っていました。

     専用のステッカーを持っていて、駐車の時は、車の前の外からよく
    見える場所にそれを置くのだと云っていました。

     私が腰痛で困っていたとき、通っていた医院でその様なステッカー
    を借りていた時期があります。

     その医院へ車で通って、医院の前に停める時だけ使っていました。


       ***** Pan *****


    [No.2561] Re: 陸士、海兵 投稿者:男爵  投稿日:2015/10/11(Sun) 15:29
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    ザックスさん

    >  私の数年先輩はこれらの学校に入り、もう少し先輩の連中は戦況も知らずに、国のために散って行ったのです。私ももう少し早く生まれていれば、この世にはいなかったかもしれません。
    >
    >  そういう尊い人柱のお蔭で今の平和があるんですね。私は視力が悪かったのでそういう方へはいけませんでしたが。

    下記の本を読んだら
    文科系学生でも海軍をこころざした作家の思い出はなしが
    どっさり出ていました。

    阿川弘之:海軍こぼれ話

    みんなも知らない大事なことが書かれてありました。

    終戦の功労者
     鈴木貫太郎大将  岡田啓介大将  米内光政海軍大臣  井上成美次官 そして高木惣吉少将

    高木惣吉少将は、かげでよごれ役を引き受けた。
    東条内閣が倒れると、高木惣吉少将は次官の井上中将より「戦争終結の方策を研究せよ」と密命が与えられたという。(陸軍に知られたら命が危ない)

    海軍はアメリカ相手の戦争に消極的だったし
    最後をどうおさめるか考えていたようです。

    米内光政は岩手の人です。


    [No.2560] 陸士、海兵 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/11(Sun) 08:56
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     私どもが中学の頃、戦争末期の頃、この二つと機関学校はあこがれの的でした。当時の軍部の宣伝もあって、すでに負け戦であるにも関わらず、若い中学生は宣伝に載せられて進むべき道を見失っていました。

     私の数年先輩はこれらの学校に入り、もう少し先輩の連中は戦況も知らずに、国のために散って行ったのです。私ももう少し早く生まれていれば、この世にはいなかったかもしれません。

     そういう尊い人柱のお蔭で今の平和があるんですね。私は視力が悪かったのでそういう方へはいけませんでしたが。


    [No.2559] Re: 傷痍軍人 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/10/09(Fri) 21:36
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    >  戦後10年位は、街角に必ず傷痍軍人と称して、白衣を着て戦闘帽をかぶった人が立っ
    > て通行人になにがしかのお金をせびっていました。
    > 中には白衣姿で、アコーディオンを弾いている人も居ました。
    > あれ、中には偽の傷痍軍人も多かったと聞いています。

    アコーデオンの曲は「異国の丘」が多かったような。


    [No.2558] Re: 傷痍軍人 投稿者:男爵  投稿日:2015/10/09(Fri) 07:58
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    マサちゃん、まやさん、Panさん  こんにちは

    >  戦後10年位は、街角に必ず傷痍軍人と称して、白衣を着て戦闘帽をかぶった人が立っ
    > て通行人になにがしかのお金をせびっていました。
    > 中には白衣姿で、アコーディオンを弾いている人も居ました。

    昭和30年代になっても見かけました。 祭りとか動物園の入口などで見ました。

    親戚に職業軍人だった人がいます。
    「本当の傷痍軍人なら恩給をもらっているはずだから、あんなことをする必要がない。決してお金をあげないように」

    しかし
    私の母親は「あれを見ると、ついあげたくなって」と苦笑いしながら、その箱にお金を入れていました。

    戦争で障害者になった人が車に乗っていると、どこに車を駐めてもいいのだということを聞いたことがあります。


    [No.2557] Re: 傷痍軍人 投稿者:Pan  投稿日:2015/10/06(Tue) 17:30
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    マサちゃん、まやさん、こんにちは。

    > 戦後10年位は、街角に必ず傷痍軍人と称して、白衣を着て戦闘帽をかぶった人が立っ
    >て通行人になにがしかのお金をせびっていました。
    >中には白衣姿で、アコーディオンを弾いている人も居ました。
    >あれ、中には偽の傷痍軍人も多かったと聞いています。

     国鉄で1時間程掛かる区間を短期間ですが通ったことがあります。

     各車両を順に回ってきて入り口でアコーデオンをちょっと弾いた
    後、口上を述べて白い募金箱を持って座席を回りました。

     最初の内は幾らかの募金に応じる人が居ましたが、いつも同じ人
    が回っているのに気が付き、誰も応じなくなりました。

     あれで一番心を傷つけられた人は本当の傷痍軍人です。


       ***** Pan *****


    [No.2556] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/06(Tue) 16:38
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    マサちゃん

    > お茶のサービスがあって、飲んだ後は茶碗に10円のチップを入れたものです。

    よく覚えていますね。

    > フカフカの椅子がある部屋を選んで乗るようになりました。

    検索でこのようなのが出ました。青函ではありませんが。


    [No.2555] Re: 傷痍軍人 投稿者:まや  投稿日:2015/10/06(Tue) 13:19
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    >  戦後10年位は、街角に必ず傷痍軍人と称して、白衣を着て戦闘帽をかぶった人が立っ
    > て通行人になにがしかのお金をせびっていました。
    > 中には白衣姿で、アコーディオンを弾いている人も居ました。
    > あれ、中には偽の傷痍軍人も多かったと聞いています。

     いましたねぇ。
     私が聞いた話では、ほとんどの場合「元締め」がいて、白衣や杖なども貸与され
    るのだとか・・・場所を離れると、杖も包帯も外してしまうとか、いろいろ聞いた
    ことがあります。


    [No.2554] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:マサちゃん  投稿日:2015/10/06(Tue) 06:56
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    ザックスさん まやさん  おはようございます

    >  さすが、お医者さま。
    >  私は3等専門ですから、風呂はありません。ただ、当時の国鉄の普通乗車券では
    > 青函連絡船の乗下船のときに並ぶのが最後になりますから、札幌在住者の入知恵で
    > 連絡船だけは「船だけ2等」と指定して国鉄の乗車切符を購入していました。それ
    > でも畳を敷いた広い空間を仕切った場所があるだけの場所だったように記憶してい
    > ます。

     僕も出張の際は青函連絡船を利用したことがあります。
    最初は三等で、畳を敷いた大部屋に乗り、船が揺れたりするとずるずる滑ったりしました。
    お茶のサービスがあって、飲んだ後は茶碗に10円のチップを入れたものです。
    2回目以後は、船だけ2等にしました。
    フカフカの椅子がある部屋を選んで乗るようになりました。


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