平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.2553]
傷痍軍人
投稿者:マサちゃん
投稿日:2015/10/06(Tue) 06:43
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戦後10年位は、街角に必ず傷痍軍人と称して、白衣を着て戦闘帽をかぶった人が立っ
て通行人になにがしかのお金をせびっていました。
中には白衣姿で、アコーディオンを弾いている人も居ました。
あれ、中には偽の傷痍軍人も多かったと聞いています。
[No.2552]
終戦後の汽車
投稿者:男爵
投稿日:2015/10/05(Mon) 15:18
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私は戦後でも
だいぶおちついた頃のSLしか知りませんが
終戦当時はなかなか汽車に乗るのは大変だったようです。
ある本に書いてあったことですが....
戦死した兵士の遺骨が遺族の手に渡ることは稀だった。
潜水艦こど死んだ兵士、特攻隊でお国のため命をささげた若者...
送られてきた白木の箱には何が入っていたのだろうか。
あるところで、満員の列車に白木の箱を抱いたおばあさんが乗ってきた。
息子の遺骨と聞いて、みんな席を譲っていた。
しかし、警察官が気がついた。
あのおばあさん、毎週白木の箱を抱いて列車に乗るのです。
某老人施設で終戦後の話に盛り上がる。
田舎に行って苦労してお米を手に入れてきたのに警察官に見つかり没収され悔しい思いをした。
しかし、カボチャの中をくりぬいて中に米を入れたら見つからなかった。
米の袋を体に巻きつけたり、みんな苦労したようです。
成田空港で税関に見つかる麻薬運び人も必死で新しい手を考えるんでしょうね。
[No.2551]
Re: 戦後の庭
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/05(Mon) 11:39
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> 戦後建てられた家には、わりと食べられる実のなる木が植えてありませんでしたか?
家の前には小さな池や大きな木があり、木に登って遊んだものでした。
また、木になったスグリと言う小さな赤い実を食べたのを覚えています。
[No.2550]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/05(Mon) 11:33
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まやさん、
> 私は3等専門ですから、風呂はありません。ただ、当時の国鉄の普通乗車券では
> 青函連絡船の乗下船のときに並ぶのが最後になりますから、札幌在住者の入知恵で
> 連絡船だけは「船だけ2等」と指定して国鉄の乗車切符を購入していました。それ
> でも畳を敷いた広い空間を仕切った場所があるだけの場所だったように記憶してい
> ます。
等級があったんでしたか。広い空間は何となく記憶にあります。
そう言う偉い宣教師さんもいらしたんですね。今やトンネルで繋がっているんですから。それも新幹線も。
[No.2549]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:まや
投稿日:2015/10/05(Mon) 00:36
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ザックスさん、
> 今は青函連絡船なんてとうにない訳ですが、昔、学会が札幌であり、連絡船に乗りました。珍しくて船の中の風呂へ入ったのを覚えています。
>
さすが、お医者さま。
私は3等専門ですから、風呂はありません。ただ、当時の国鉄の普通乗車券では
青函連絡船の乗下船のときに並ぶのが最後になりますから、札幌在住者の入知恵で
連絡船だけは「船だけ2等」と指定して国鉄の乗車切符を購入していました。それ
でも畳を敷いた広い空間を仕切った場所があるだけの場所だったように記憶してい
ます。
まや
[No.2548]
Re: 洞爺丸事故
投稿者:まや
投稿日:2015/10/05(Mon) 00:19
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ザックスさん & みなさん、今晩は!
> のちに台風でこの船が沈没し、飢餓海峡や氷点という本まで書かれて多くの人命が失われたのでした。水上勉の小説など、夢中で読んだものでした。写真は連絡船です。
この洞爺丸事故のとき、私は札幌にいました。そして、教会関係で親しく存じ上げ
ていた宣教師が同乗の人に救命具を譲って事故死したニュースに接したのでした。
長年日本にいらした宣教師でしたので、みんなに惜しまれて、私たちは悲痛な思い
で葬儀をしたのを記憶しています。
まや
[No.2547]
Re: 洞爺丸事故
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/04(Sun) 09:32
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画像サイズ: 450×320 (48kB)のちに台風でこの船が沈没し、飢餓海峡や氷点という本まで書かれて多くの人命が失われたのでした。水上勉の小説など、夢中で読んだものでした。写真は連絡船です。
[No.2546]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/04(Sun) 09:18
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まやさん、
> > 貨物が主だったんですね。
昔は物が無かったから人よりモノだったんでしょうか。
今は青函連絡船なんてとうにない訳ですが、昔、学会が札幌であり、連絡船に乗りました。珍しくて船の中の風呂へ入ったのを覚えています。
又、学会の懇親会で野外でジンギスカン鍋を食べましたが、生まれて初めてで大変旨く感じました。昭和31年だったと思います。
[No.2545]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:まや
投稿日:2015/10/03(Sat) 20:52
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ザックスさん、今晩は!
> > 私が育った筑豊地方では石炭搬出のために鉄道が網目状態に走っていましたが
> > 通勤通学の人を運ぶような支線の列車には半分以上に貨物車が使われていました。
> > 客車に使われる貨車の箱の中央に太い木材を渡して(動物並み)、中には壁沿い
> > に板のベンチが設置されているだけでした。立っている人は大きな出入り口の横
> > 木が頼り・・・振り落とされないように・・・大変でした。
>
> 貨物が主だったんですね。
貨車と客車と混合なんです。終戦前後のことで、客車が足りなかったのでしょう。
山陽本線でも普通列車は座席も窓も板張りのものが走っていたくらいですから。
> > 少し長距離を走る列車の場合はこの写真のような客車が使われていましたが、
> > 人間は通路にまで溢れていました。夜行になると通路に寝ている人もいて、用足
> > しに立つのも大変な状態。それに列車がトンネルに入るとススが飛び込んできて
> > 目を開けてもいられないありさま。
>
> 私も良く鼻が黒くなった経験があります。
本州から九州に入ると、建物の白壁が鼠色になっているのに気がついたことがあり
ます。当時は私たち女性はズボンをはきませんでしたから、スリップの裾20センチ
くらいが薄汚れて、どんなに洗っても白くならなかったのを記憶しています。
札幌では春先の雪を触った手の白い手袋が降り積もった雪に混じったススで真っ黒
になって洗っても落ちないのに気付いたことがあります。
石炭を燃やして出るススはありとあらゆるものを黒く汚していたのですね。石油も
化石燃料としては同じですが・・・
まや
[No.2544]
防空壕
投稿者:めぐみ
投稿日:2015/10/03(Sat) 20:29
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こんばんは。
終戦後子供の頃近所の竹藪の中に素掘りの防空壕がありました。
その中で遊んだものでした。
夜になると訓練用だとかの焼夷弾とやらが暗闇を明るくして花火のようでした。
10kmくらいの所に飛行場があったのでその場所での訓練とかでした。
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