平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.2543]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/03(Sat) 09:23
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まやさん
> 私が育った筑豊地方では石炭搬出のために鉄道が網目状態に走っていましたが
> 通勤通学の人を運ぶような支線の列車には半分以上に貨物車が使われていました。
> 客車に使われる貨車の箱の中央に太い木材を渡して(動物並み)、中には壁沿い
> に板のベンチが設置されているだけでした。立っている人は大きな出入り口の横
> 木が頼り・・・振り落とされないように・・・大変でした。
貨物が主だったんですね。
> 少し長距離を走る列車の場合はこの写真のような客車が使われていましたが、
> 人間は通路にまで溢れていました。夜行になると通路に寝ている人もいて、用足
> しに立つのも大変な状態。それに列車がトンネルに入るとススが飛び込んできて
> 目を開けてもいられないありさま。
私も良く鼻が黒くなった経験があります。
[No.2542]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/03(Sat) 09:19
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寒梅さん
> そうそうこの形でした。高崎線も上り線は大宮の手前が一番混んでいまして
> デッキにぶらさがって上尾駅をでます揺さぶられて中にはいるのです。片足の
> 下が線路だったなんてことも・・・。
何しろ混んでましたね。
> その頃農家から買出したお米、野菜を大きな荷物にして背負ったおばさんたち
> が乗り込んきましたね。闇やさん 赤羽駅ではそれぞれに散っていきました。
> 重かったでしょうねぇ。
闇屋のおばさんが、よく駅の近くで荷を下ろしてお団子なども売ってましたね。
[No.2541]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/03(Sat) 09:15
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> その後は、窓からの乗り降り、通路に寝るということをどのくらい繰り返したか。
> 楽しい山行きの時でした
>
> ちびが窓からの乗り降りは大変でしたが、楽しかったです。
そうだったんですか。でも当時は当たり前でしたね。
[No.2540]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:まや
投稿日:2015/10/03(Sat) 01:54
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ザックスさん & みなさん、こんばんは!
> 少し新しいので古いのを上げます。
私の記憶にある列車はこれより大変な状態でした。
私が育った筑豊地方では石炭搬出のために鉄道が網目状態に走っていましたが
通勤通学の人を運ぶような支線の列車には半分以上に貨物車が使われていました。
客車に使われる貨車の箱の中央に太い木材を渡して(動物並み)、中には壁沿い
に板のベンチが設置されているだけでした。立っている人は大きな出入り口の横
木が頼り・・・振り落とされないように・・・大変でした。
少し長距離を走る列車の場合はこの写真のような客車が使われていましたが、
人間は通路にまで溢れていました。夜行になると通路に寝ている人もいて、用足
しに立つのも大変な状態。それに列車がトンネルに入るとススが飛び込んできて
目を開けてもいられないありさま。
昭和24年くらいになると、私は大学が関西なので東海道線で九州と関西を往
復することも多かったのですが、下り急行に乗る時には大阪まで出て、また、上
り急行に乗るときは博多まで行って改札から並んで列車にのることが普通でした。
それでも座席がなくて、最悪のときには上りも下りも広島あたりまで立っている
ことも度々でした。
昭和29年、私は札幌で就職。大阪から急行「日本海」で青森までが24時間
かかり、青森から青函連絡船が4時間(?)で、函館から札幌まで7時間だった
ように記憶しています。
昭和30年代に入ると、交通事情は目に見えて好転し、旅行も旅(たび)もだ
んだん楽になってきました。それと同時にいつも手近にあった分厚い交通公社の
時間表が姿を消してしまいました。
まや
[No.2539]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:寒梅
投稿日:2015/10/02(Fri) 21:44
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ザックスさん みなさんこんばんは
> 少し新しいので古いのを上げます。
そうそうこの形でした。高崎線も上り線は大宮の手前が一番混んでいまして
デッキにぶらさがって上尾駅をでます揺さぶられて中にはいるのです。片足の
下が線路だったなんてことも・・・。
新しくできた駅ホームに衝突で怪我をした(亡くなったかも)とゆう話もあった
のでした。
その頃農家から買出したお米、野菜を大きな荷物にして背負ったおばさんたち
が乗り込んきましたね。闇やさん 赤羽駅ではそれぞれに散っていきました。
重かったでしょうねぇ。
昭和も24・5年のことでした。
寒梅
[No.2538]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:あや
投稿日:2015/10/02(Fri) 20:13
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終戦前後にはあまり記者に乗るということはありませんでした。
母の実家のある新潟長岡へ疎開した時に、「上野」の文字を目にしました。
長岡へ着いたら、「上野」とあり、びっくり!
元へ戻ってしまったのかと思ったら、東京は「上野(うえの)」
長岡では「上野(かみの)」だったんです。
そんな思い出があります。
その後は、窓からの乗り降り、通路に寝るということをどのくらい繰り返したか。
楽しい山行きの時でした
ちびが窓からの乗り降りは大変でしたが、楽しかったです。
[No.2537]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/02(Fri) 16:03
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画像サイズ: 312×438 (60kB)少し新しいので古いのを上げます。
[No.2536]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/02(Fri) 15:51
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画像サイズ: 600×400 (61kB)> 座席はどうういう風になったんでしょうか。
座席の1例です。
[No.2535]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/02(Fri) 11:53
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> 終戦直後の汽車は本数が少なく物凄く込んだ居ましたですね、個人疎開をして
> いましたので迎えに来た者と帰る列車では佐世保に着く迄数時間立ちっぱなし
> だったのを思い出します。
立ちっぱなしは辛いですね。
> 又、列車の網棚に寝た記憶もありますが、寝心地は良くありませんでした。
> 終戦直後の列車は、列車とは言えず単なる箱の乗りでした。
網棚は狭かったですね。
[No.2534]
Re: 終戦前後の汽車
投稿者:ザックス
投稿日:2015/10/02(Fri) 11:50
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マーチャン
> ヨーロッパからもコンパートメントカーがなくなりました。
座席はどうういう風になったんでしょうか。
日本、中国に負けて残念ですね。
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