我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆
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はじめに
この記録の
メロウ伝承館への転載につきましは、緒方惟隆様のご了承を
いただいております。
メロウ伝承館スタッフ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
我が軍隊的自叙伝
序
本自叙伝脱稿寸前、私達が曽て大元帥と仰ぎ最も敬愛措く能わざる 大行天皇か、御闘病の甲斐もなく、地にひれふして天地に折りし我々の誠容れられず、終に崩御遊ばされた。誠に誠に悲しみに堪えない。
謹んで奉悼の意を表する次第である。
――――――――――――――――――――――――――――
さて終戦以来、はや半世紀になろうとしている。
私もいたずらに馬齢を重ねて、もう六十七歳(昔風に数えると六十九歳)と相成る。六十七歳と言えば相当な爺イである。
振り返ってみると、精神的、経済的に浮き沈みの激しい半生であったが、その間にあっても常に頭の一隅を占めていたのは、軍隊生活の思い出であった。
見ず知らずの人間同志が一つの運命に因って、一つの場所に集合して、常に死を意識しつつ、苦楽を共にした軍隊生活の思い出には、学校の同窓会とは全く異なる「何物か」がある。
この「何物か」が、軍隊の思い出を懐かしめ、私を戦友会に駆り出させるのである。私は六つ程の戦友会に名を連ねているか、時間・費用の許す限り出席することにしている。
老人ボケという言葉を耳にする。私にもそのボケが何時廻って来るか分からない。ボケが廻らないうちに、あの苦しくも楽しかった軍隊生活の思い出を書き留めたいと思った。即ち題して
「我が軍隊的自叙伝」と云う。
平成元年正月
惟隆 記
目次
生い立ちの章
学生時代の章
新兵の章
騎兵学校の章
見習士官の章
船舶兵科の章
中隊長の章
終戦復員の章
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我が軍隊的自叙伝
生い立ちの章
大正十年九月二十五日早朝。大阪府泉北郡浜寺町(現在大阪府堺市浜寺町)の一陋屋で、一人の男子が暇々の声を上げた。
即ち斯く言う私である。父は子福者で五男三女の子供があり、私は四番目の三男であった。
当時、私の父は既に退官して一介のサラリーマンであったが、その一年前までは京都深草の歩兵第三十八聯隊(この聯隊は後に奈良に移駐する)に勤務する明治三十八年兵の陸軍歩兵特務曹長(後の准尉)であった。従って、大礼服や白い鳥の羽根で作った前立てのついた正帽を始め赤い鉢巻の軍帽・歩兵を表す赤い襟章に38の数字のついた軍服・長靴・サーベル型の軍刀・指揮刀・儀式刀・外套・将校マント・背嚢・図嚢・双眼鏡に至るまで軍装品は一式完全に揃っていて、納戸に大切にしまってあった。
物心がついた時期、私の一家は奈良市に転宅していたが、父が元軍人だった関係で、その影響を受けてか、私の遊びは大てい兵隊ゴッコであった。そして納戸から軍帽や指揮刀などを持ち出しては母からよく叱られたものである。叱られても叱られても、又しても持ち出すので、終には母も諦めてか、あまり叱らなくなった。
昭和三年四月。奈良県師範学校附属小学校に入学した。この頃父は日曜祝祭日などの休みの日、ハイキングや当時盛んであった皇陵巡拝などによく連れて行ってくれたし、また時には母の里(今の京都府相楽郡精華町北稲八間)へ行く時などは、奈良電車の新祝園駅から母の実家までの約十町あまりの田圃道を、あたりに人家の無いのを幸いに、ありったけの声を張り上げて、軍歌を合唱し、歩調を取って歩いた。そんなことが度々あったし、もともと軍歌は勇壮で好きだったので、今でも「橘中佐」(上19番・下13番)や「広瀬中佐」(12番)「戦友」(14番)「勇敢なる水兵」(10番)「討匪行」(15番)「ブレドー旅団の襲撃」(15番)などの長い歌詞の軍歌であっても、一節も忘れてはいない。自慢ではないが、軍歌だけは全く自家薬寵中のものである。
三・四年生の頃「少年倶楽部」という月刊の少年向けの雑誌かあって、田河水泡の「のらくろ二等兵」の漫画などと共に、山中峯太郎の「敵中横断三百里」という連載小説があった。日露戦争の末期、金沢師団の騎兵第九聯隊の建川美次騎兵中尉が部下の、豊吉軍曹、野田上等兵、神田上等兵、大竹上等兵、沼田一等卒の五名と共に、奉天のロシア軍の背後(鉄嶺附近)深く捜索した挺進騎兵斥候の物語で、樺島勝一の挿絵がまた非常にリアルだったので、血湧き肉躍らせて夢中で読んだ。
そして大いに騎兵にあこがれたものである。今でも樺島勝一のあの挿絵は、その場面までハッキリと覚えている。
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学生時代の章 その1
昭和十年四月。奈良県立奈良中学校に入学した。中学に入学すると学校教練があり、他の教課は別として、この教課に関する限り一所懸命にやったので、卒業するまで常に最高の点を貰っていた。三年生に進級して射撃部に入部した(射撃部は三年生にならないと入部資格が無かった)。軍隊に「射撃ボンクラ」という言葉があったが、射撃の上手なものにはボンクラが多かったのだろうか。ボンクラだった私もそれに洩れず射撃は比較的上手であった。実弾射撃では大抵四〇点以上の高得点をマークしていた様に記憶している。奈良中学の宝相華の徽章の入った日本手拭を賞品によく貰った。
四年生を終了した時、小学校以来の無二の親友であった野田稔君と一年先輩の湯川勇君が、陸軍予科士官学校に合格して(陸士五十五期)中学校を出て行った。当時、私は近眼でもあったし、「ウドの大木」そのままの痩身で、陸士予科に合格出来るような体格ではなかったし、その上何よりも肝心の学科の成績が良くなかったので、最初から陸士予科受験は諦めていたのだが、親友が合格してみると何とも羨ましく思ったものである。彼は終戦の年、航空兵大尉の時戦死した。一人息子だったので、ご両親はさぞかし嘆かれたことであろう。又、湯川君も歩兵第三十八聯隊(奈良)の中隊長としてグァム島で玉砕、戦死した。
五年生の五月。紀元二千六百年の記念行事として、皇居の二重橋前広場に於て天皇陛下の御親閲を受けることになり、日本全国の中等学校、高等専門学校、大学校から夫々十名の学徒が選抜されて東京へ集まった。当時、天皇陛下の御親閲を受けるということは、非常に名誉なことであった。幸いに私も名誉の十名の中に選ばれて執銃・帯剣で皇居前へ向かった。
陸士予科に在校中の親友、野田稔君も顔を見せてくれた。松の翠に映えてクッキリと皇居の櫓の白壁が美しかった。やがて各学校が夫々の校旗を先頭に分列行進を始めた。私達も順番か来て歩調を取って「頭ら右」をしつつ陛下に注目、仰ぎ見たとき、陛下の御顔の肌の美しさと猫背が非常に印象的であった。陛下の御側に高松宮や三笠宮のほか、各皇族の方々たちか居られたらしいか、陛下に気を取られて全く気が付かなかった。
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学生時代の章 2
昭和十五年四月。同志社高等商業学校に入学した。五男三女を育てて来た父に、私まで上級学校へ進学させるだけの資力があるわけはなかった。長兄は和歌山高等商業学校を卒業して、満州中央銀行から蒙疆銀行へ移っていたし、次兄も桐生高等工業学校を卒業し、兵役を終って蒙疆電業に復職していたので、多分両兄から多額の仕送りがあったのであろう。そんな苦しい家計のやりくりなど無頓着に、本人は至って呑気に学生生活を楽しんでいた。奈良市の自宅からはとても通学出来ないので、卒業までの三年間は寮生活であった。部活動は中学と同じく射撃部に入部して、入学早々からレギュラーになり東京や各地の大学高専大会で好成績を挙げていた。
中国の全域では、我が皇軍は快進撃を続けていたが、亜細亜の情勢は益々険悪となり、昭和十六年十二月八日、日本は遂に太平洋戦争に突入した。その日の朝、登校した時「我が大日本帝国が米英蘭に対し宣戦布告をして戦争状態に入った」ことを学友から知らされた。ドキンー・と胸に強いショ″クを受けたことを憶えている。大変なことになったという不安感と、戦果拡大中という喜びとが交錯して、何とも複雑な気持ちであった。今までは満州事変、上海事変、北支事変、支那事変、などと称して実質は戦争であっても、宣戦布告が無かったので直接事変に従軍している将兵に対しては誠に失礼な話だが、それ程にも切迫して感じなかったか、やはり「事変」が「戦争」に変わると、これ程の強いショ。クを受けるのだから変なものである。やがて三年生(私の一クラス上級生)は卒業期日か三ヶ月短縮されて、十二月末日卒業して、すぐに入隊して行った。日本全国が戦争中なのだという緊迫感がヒシヒシと身に感じられる情勢であった。
昭和十七年四月。私は三年生になった。月日は忘れたか間もなく、徴兵検査の通知かあり、本籍地の京都府相楽郡精華町役場で検査を受けた。体力的に自信がなかった私は、何百里も歩かねばならない歩兵を何となく敬遠したくて、検査官から「貴様、馬に乗ったことがあるか」「ハイ、あります」「どれ位乗ったか」「ハイ、三回位であります」検査官かニヤリと笑った。このニヤリの意味か、軍隊に入って実際に馬に乗るまで分からなかったのだから目出度い話である。検査官は更に「自動車に乗ったことかあるか」「ハイ、あります」今度はもう何回とは聞かなかった。
兎も角も無事『第一乙種合格』と相成ったが甲種編入で現役入営は間違いなかった。兵科は判らないので、ヤッパリ歩兵かな?、いやヒョツとしたら軸重兵かも知れない、などと色々憶測していたところ、やがて何日かあと役場から約五糎巾の細長い紙切れか来て「騎兵一番」と書いてあったので、少年時代からあこがれていた兵科でもあり、非常に嬉しくてホツと胸を撫で下ろしたことであった。
学校では、去年の三年生か三ヶ月学業短縮で十二月卒業だったか、私達の学年は更に三ヶ月(計六ヶ月)短縮になって、九月十九日卒業と決まった。同じ頃、十月一日中部第三十九部隊に入隊すべき通知かあった。卒業から入営までに僅か十日しかない。その十日の間の気持たるや実に複雑で、とても字句に言い表わせるものではない。入隊した後の生活をアレコレ想像したり、「我が大君に召されたる、生命栄えある朝ぼらけ」と出征兵士を送る歌を歌っては涙を流したり、未来の世界へ迷い込んでは現実に引き戻されて、その十日間を奈良市北袋町の自宅で、軍隊の勉強をするでもなく、身辺の整理をするでもなく、ただ漫然と過ごした。
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新兵の章 1
昭和十七年十月一日。とうとう私の入営の日がやって未だ。まだ夜の明け切らぬ午前五時、早めに起き出て身体を清め、ま新しい越中裸に白いシャツーステテコ、その上に学生服を着て家の表へ出た。現役入営なので赤襷は掛けなかった。父が控え目に私の後に従って呉れていた。表には北袋町の町内会長と若干名の町内の御婦人方が、ヒッソリと見送って呉れた。
次兄が入営するときは「祝入営緒方駿朗君」と書いた大きな幟を何本も押し立てて、見送りの人達は皆夫々日の丸の小旗を打ち振りながら「天に代りて不義を討つ」などと軍歌を合唱して、行列をつくって見送った。実に派手なものであったか、私の場合は防牒上の関係とかで派手な見送りは禁止されていたので、全く夜逃げのようにコッソリと出発した。それでも、見送りの方々には「御国の為に、頑張って征って参ります。もとより死は覚悟の上、後をよろしくお願い致します」などと勇ましくも、あり来りの挨拶をして、父とたった二人で奈良電車の奈良駅へと向かった。
電車の中では二人とも殆ど無言で、私はもう居直りの心境であったし、父は三十七年前の自分の入営のことなどを思い出していたのであろう。京阪電鉄の「師団前」駅を降りて東へ突当たり左に折れて、やがて私達は中部第三十九部隊の正門前に立った。父はただ一言「行ってこい」と言っただけであった。私は胸を張り、営門歩哨に一礼して営門をくぐった。
入隊手続きを済ませ兵舎に案内されて、着て来た学生服と下着を脱いで、褐絆・袴下・衣・袴を着た。襟には赤べタに黄色い星一つの階級章と39の部隊番号か付いていた。服に体を合わせて兎も角も格好だけの兵隊か出来上がった。古兵殿が親切に袴の履き方まで教えてくれた。着て来た学生服や下着やその他の私物一切は梱包して班長室に預けた。かくして私は陸軍二等兵として、第一中隊(乗馬)第三班に編入されたのである。
(中部第三十九部隊とは「捜索第五十三聯隊」の通称名であること。騎兵第二十聯隊は昭和十六年頃改編されて捜索第十六聯隊となり、騎兵の軍旗は宮中へ返納して今は無いこと。第十六師団は戦争勃発と同時に比島へ出動し、その後に第五十三師団が新しく編成されたことなどは、後になって判った)
聯隊長は梁瀬泰中佐、中隊長は広瀬敏博中尉、中隊附将校は北浦一夫、河喜多善男各少尉、藤岡忠男、沢金一郎、牧野武 各見習士官、そして班長は尾崎忠雄伍長であった。
その日の夕食は各中隊共、兵舎前の営庭に机を持ち出して、我々十月一日入営の新兵の為に入営祝の赤飯の会食であった。
聯隊全部の会食なので実に壮観であった。入営第一日、第二日はお客さんで極く親切に風呂場、酒保、炊事場、厩舎、武振神社などを案内されたり、色々な心得や注意を受けたりした。三日目からは「お客さん」一転して、「ド新兵」と変り果て内務に追い廻されることになるのだが………。
我々十月一日入営組は全員幹部候補生要員で、浅井好三、牛島温彦、川口五郎、川島秀雄、桑原博一、鈴木省三、永井隆一、中野喜代蔵、中村 実、奈良崎 明、長谷川栄一、長谷川孝一、久野慈剱、藤井謙一、牧野観樹、山口三津男、吉岡 巌、私の十八名。この十八名は六名づつ三つの班に編入された。我が第三班は浅井、川島、永井、長谷川(栄)、牧野、それに私の面々である。我々の教官は藤岡忠男見習士官、助教は浜口保吉軍曹であった。私の飼付馬は「大地」。十八才位の老馬で、病癖のない大人しい鹿毛であった。
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新兵の章 2
京都の冬はすごく寒い。底冷えがする。その厳しい寒さの中での厩作業は本当につらかった。馬の大小便のビダンヨリと泌み込んだ寝藁をロールに巻いて担架で運び出す作業は、鼻にツンくるアンモニアの臭いがたまらなく嫌であった。水槽に張った二・三糎の氷をわって蹄洗桶に水を汲んで蹄鉄を洗う作業は、白魚のように奇麗だった(?)手を一ペんに見るも無惨なヒビーアカギレだらけの手に変えてしまった。それでも厩作業を終えて駆け足で兵舎に帰る頃には、ホカホカと体がほてっていた。また飼付けの最中に逃癖のある「義島」という馬を放馬させてしまって、大目玉を食ったこと等、今にして思えばつらかったけれども、楽しい思い出である。
馬は一日四回の食事をする。毎朝起床ラッバと共に飛び起きて点呼を済ませ、直ちに駆け足で厩舎へ直行、馬を一頭づつ曳き出して、馬繋柵に繋ぎ、寝藁を厩舎外へ運びだし、直ぐに取って返し馬の手入れ(蹄洗・刷毛かけ等)をした後、又、一頭づつ、馬房へ曳き入れ飼付けを行い、後片付けをして厩作業を終り、又駆け足で兵舎へ戻り洗面をしてようやく朝食にありつける。午前中の演習を終って営庭に‘帰ってくると、その足で厩舎へ直行して馬に昼の飼付け。兵舎へ戻り自分たちの昼食。ホッとする間もなく午後の演習。それが終って厩舎へ直行して夕方の飼付け。終って我々の夕食。その後兵器・被服の手入れ、洗濯、入浴等をして又厩作業で晩の飼付けを済ませ、日夕点呼の後、兵舎へ帰り、消灯ラッパで一日を終わる。毎日がその繰返しであった。しかし私は新兵である。五・六枚の毛布で寝床を作ったり上げたりの寝台の作業、兵器・被服の手入れ、洗濯等はすべて古年次兵のものまで一緒にやらねばならない。要領の悪い私は時間の都合をつけるのが下手で、入営第一日に入浴しただけで、幹部候補生に合格するまでの四ヶ月間、終に入浴は出来なかった。
内務班での私の寝台は、通路の北室東側で、南隣りは銃架に接して三年兵の曽和清兵長(現下間清之氏)、北隣りは山室勝美応召兵で、共に温厚な方でよく面倒を見て頂いた。(下間氏とは本当の意味での戦友として、今でも兄弟以上のお付き合いを願っている。山室応召兵は捜索第五十三聯隊に動員が下ってビルマヘ出動したとき、彼の地で戦死された)
また、第一班には四年兵の津田武雄上等兵か居られた。彼は奈良の小学校で、私の二年先輩で、家もごく近所だったので大変心強かった。時折、お八つの館巻きや六方焼きが手箱に入っていた。彼の心づくしに違いなかったので涙が出る程嬉しく感謝して頂いた。彼は一年後、昭和十八年十月フィリッピンで戦死した。
捜索聯隊は第一中隊が乗馬隊、第二中隊が乗車歩兵隊、第三中隊が軽装甲車隊という編成で、厩舎も半分は軽装甲車の車庫に改装されていた。第一中隊だけは、昔の騎兵の軍装をそのまま残してあって、他の中隊の兵隊は、歩兵や他の兵科と同様にコンボ剣に短靴・巻脚絆であったが、私達はたとえ星一つの新兵であっても、長靴に長刀(サーベル形式の三十二年式軍刀甲ではなく、日本刀形式の五年式軍刀)だったので格好が良かった。それだけによく見習士官と間違われた。或る日、聯隊の南門を出た処にある陸軍病院(現国立京都病院)に、入院している誰かを見舞いに行った時のこと。遠くの方を五・六名の他の聯隊の兵隊が隊伍を整えて「歩調を取れ、頭ア右」と号令をかけて此方に敬礼をした。附近に上官がいるのかナと、辺りを見廻したか誰もいない。長靴を履き、日本刀形式の軍刀を吊っていたので見習士官と間違ったのだろうが、間違われた私は面喰らった。あわてて此方から敬礼をしたか、先方も此方が星一つの新兵なので、バツが悪かったことだろうと思う。
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新兵の章 3
演習は楽しかった。気を遣わねばならない古年次兵は居らず周囲は全部同年兵だったからである。演習が一区切りついて休憩するときの「誉」の一ぶくは特にうまかった。乗馬演習での鐙上げ速足は、最もつらい訓練の一つで、膝の内側で鞍をはさむので、馬が走り出すと擦り剥けて、ひどい者は血で袴を真っ赤に染めて実に気の毒な有り様であった。私は袴を血で染めたことは無かったけれども、厠で用を足すとき会陰の部分か突っ張り、痛くてしゃがむのに苦労をした。しかし訓練が進むに従って痛みなど何処かに消えて、連日の乗馬演習も平気になった。こうして乗馬か楽しくなって来た或る日、野外の乗馬訓練があった。大亀谷の桃山練兵場への坂を上っていたとき、愛馬「大地」が何かにつまずいてガク。と膝を折った。
まだまだ騎座が甘い時期だったので、手綱に引っ張られ馬の頭を飛び越して物の見事に一回転して落馬した。「しまった」と思い、すぐさま馬の前脚の膝を見た。無情にも愛馬「大地」の膝は、毛が擦り切れて血が溶んでいた。「ああ、とうとうやってしまった」。常日頃、古年次兵から「冠膝をやったら馬の値打ちが半分になるぞ。馬は兵器だ。兵器を傷付けると、重営倉だぞ」とやかましく、しかもおどかし半分に注意されていたので、往生してしまった。仕方がない。度胸を決めて、藤岡教官に報告した処「曳き馬で帰れ」と言われたので、トボトボと曳き馬をして厩舎まで帰り、馬の手入れをしていると、長谷川(栄)君が私と同じ様に一人曳き馬で帰って来た。「どうしたんだ」と聞いて見ると彼も、私と全く同じ状態で落馬して冠膝をやったという。同犯が出来て幾分気は楽になったが、班長に報告しなければならないので憂鬱だった。しかも、同じ班の馬が二頭も一っぺんに冠膝をやったのである。班長の怒りが目に見える。しかし、どうし様もないので二人揃って班長室へ入り尾崎班長に報告した。果たして目玉が飛び出る程叱られて、挙句の果ては、二人で対抗ピンタを命ぜられた。全くお粗末の一席であった。この対抗ピンクの話は長谷川君と会う機会があると、今でも必ず出てくる。
「乗馬」は乗り手が意のままに馬を御してこそ乗馬である。三回位馬に乗っても単に馬に「乗せて貰った」のであって、「乗った」のではない。徴兵検査官の「ニヤリ」の意味が、この頃になってようやく判って来るのである。馬を扱っていて、最初の一ヶ月位は馬の習性か判らないので馬がこわい。このこわい時期を通り越すと全くこわさを忘れてしまう。この時期が最も危険な時で、冠膝をしたり蹴飛ばされたりして怪我をするのはこの時期であると思う。そして又五・六ヶ月も経つと再び馬がこわくなる。(馬に乗り始めの時のこわさと違って、馬の習性が判ってのこわさである)
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新兵の章 4
入隊して一・ニケ月経った或る快晴の日、第三中隊長の命課布達式があった。我々聯隊の全員は赤い鉢巻の正帽に二装用の軍服・帯刀で営庭の中央に、兵舎に向い北向きに整列した。
正面に稍高く壇を設けその上に、聯隊長梁瀬泰中佐と新第三中隊長泉達夫中尉のお二人が、抜刀を肩にして此方を向いて立たれた。一瞬の静寂。梁瀬聯隊長は「注目」の号令の後、一段と声を張り上げて
「天皇陛下ノ命二依り陸軍中尉泉達夫、今般捜索第五十三聯隊第三中隊長二補セラル。因って同官ニ服従シ各々軍紀ヲ守り職務二勉励シ其ノ命令ヲ遵奉スベシ」
と命課を布達された。そしてお互いに向き合い刀の敬礼をせられた。その光景は正に厳粛そのもので、その印象もまた正に強烈で、四十六年を経た今日でも未だにその状景は私の脳裏を去らない。しかも、四年間の軍隊生活中、命課布達式参列の経験はこの時だけで、私が最終の部隊で中隊長を拝命した時も命課布達式はなかった。先日、奈良市の春日ホテルで開催された騎兵二十連合会の総会で、その当時の中隊長泉達夫氏に会い、そのことを申し上げた処、大変共感されて、その後も色々な資料を送って頂いたりした。
その十二月、四年兵の満期除隊かあり、我が第三班からは岡田末次、磯部清、木下昌三、田中豊次郎の各氏であった。
そして私達の教官か、新しく騎兵学校から帰隊された岡田隆夫見習士官に変わった。
昭和十八年になって間も無く幹部候補生の試験があったか、合否については全く自信か無かった。それと言うのも学科は兎も角、内務に関しては完全に落第点であった筈だから、先づ駄目だろうと半ば諦めの心境にあった。
二月十日。「陸軍兵科幹部候補生ヲ命ズ。同月同日陸軍一等兵ノ階級ヲ与フ」命令を聞いた時は夢かと思う程嬉しかった。
早速一等兵の階級章に付け替え座金も付けた。鈴木、山口の両君は経理部の幹部候補生になって何れかに転属して行った。
不思議なのは、日頃内務でコマネズミのように動き回り、古兵達から「お前は甲幹間違いない」と言われていた同僚の名が無く、甲幹どころか、所謂「落チ幹」になったことであった。
四月一日。「陸軍上等兵ノ階級二進ム。同月同日陸軍兵科甲種幹部候補生ヲ命ズ」 この日、我々候補生は甲種・乙種に分かれ、幸いにも私は甲種に選ばれた。藤岡教官、岡田教官の御訓陶の賜と深く感謝しつつ、その日から陸軍騎兵学校分遣まで、聯隊講堂で寝起きすることになった。聯隊講堂は第一・第二・第三中隊の幹部候補生だけの兵舎となったので、気が楽になったのか十五貫そこそこの体重が一ペんに十七貫五百に増えた。
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騎兵学校の章 1
五月一日。「幹部候補生集合教育ノ為陸軍騎兵学校二分遣ヲ命ズ」 長谷川、桑原、浅井、川口、私、それに第二中隊の宮崎勉、石川澄郎の七名は、新品の軍装に外被を巻いて肩から斜めに掛け、習志野に向けて出発した。津田沼までの列車の中では、表面はあくまで厳正を装いつつ、心の中はまるで旅行気分で浮き浮きしていた。七名の間ではいろんな話や冗談が飛び出したと思うが、まるっきり覚えていない。津田沼の駅から陸軍騎兵学校のある薬円台まで、二列縦隊で隊伍を整えて歩いたが、歩けど歩けど目指す学校へ行き着かない。四・五十分も歩いたろうか、ようやく陸軍騎兵学校の正門に到着した。
「これは外出などで東京へ出るときは大変だぞ」と思った。その日直ちに幹部候補生隊第一中隊に編入された。我々七名の配属は次の通りである。
第一区隊(乗 馬) 川口 緒方
第二区隊(乗 車) 石川 宮崎
第三区隊(機関銃) 桑原
第四区隊(速射砲) 浅井 長谷川
中隊長は照井治大尉(陸士四九期)、第一区隊長鈴木清次中尉(少候十九期)、第二区隊長加藤数馬大尉(少候十七期)第三区隊長大内正七郎大尉(陸士五三期)、第四区隊長武合廣信中尉(特志)で、区隊附将校は、第一区隊田村義雄少尉、第二区隊大宰正道少尉、第三区隊高橋勝治少尉、第四区隊中村孝士少尉で、区隊附は全員第五期幹部候補生出身の若手将校であった。
私と同じ第一区隊には近衛騎兵、近衛捜索の他、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本、旭川、弘前、金沢、姫路、久留米、宇都宮などの各師団や中支・北支の野戦補充馬廠等から分遣されてきた候補生が約四十名程居た。熊本師団の候補生に私と大変仲の良かった霧島肇が居た。立派な体格の面白い男であった。熊本師団の他の候補生達は殆ど戦死したそうだが、彼は今も健在で鹿児島県の大口市に居る。一度是非会いたいものと思っている。もう一人、手紙の交換をしている親友か居る。姓名を建川英男と言う。私の区隊で最初に取締候補生になった男で、近衛騎兵聯隊から分遣されて来ていた。建川と言う姓は、小学校の頃に胸を躍らせてT心不乱に読んだ、あの「敵中横断三百里」の建川斥候長と同じ姓なので、もしやと思って聞いてみると、果たしてその建川中尉(二・二六事件で現役を退いて、当時予備役の陸軍中将であった)の子息であった。
早稲田大学出身。実に破天荒な性格を持つ魅力的な男だったので、すぐ仲良くなった。戦後消息か分からなかったか、あちらに電話し、こちらに電話してようやく尋ね当てた。彼も健在で千葉県松戸市に居る。(その後平成元年四月八日、九段の靖国神社境内で挙行された戦没軍馬慰霊祭の前日、東京へ二人を呼び出し四十七年振りの久闊を叙したことであった)。
その他瞼を閉じると、池田、伊藤、井上、梅田、岡部、加藤、川石、菊池、佐々木、白木、高橋、藤井、保坂、松岡、八木、谷野、弓削田等の顔がすぐ浮かんで来る。
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騎兵学校の章 2
騎兵学校では中隊長から「貴様達は戦略、戦術などでは陸士を出た現役の将校には絶対に勝てっこない。だから実兵指揮で彼らに負けない実力をつけてやる」ということで訓練は猛烈を極めた。騎兵学校の横から拡がる習志野の原は実に広い。
その広大な習志野の原を、右に左に走り廻って、夕方校舎へ帰って来るともうクッタクタであった。夕食を終え風呂で汗を流し兵器を手入れして、消灯までの間自習室に入って学習や、その日の反省などをするのであるが、疲れ果てて学習・反省どころではなく、ついウトウトと居眠りするのがオチであった。だから消灯の時間になって寝台に入ったか最後、翌朝まで前後不覚で殺されても分からない。そんな或る日、起床ラッパと共に飛び起きて毛布をたたんでいるとき、白い敷布の足の方に血の筋がスーと斜めに十糎程ついていることに気が付いた。最初のうちは何の血なのかサッパリ判からず、さして気にもしなかったが、そのうち誰かが「寝台に南京虫がいるぞ」と言い出した。寝台は深草の聯隊では鉄製だったか、騎兵学校のは木製であった。その寝台の木の合わせ目を見ると、芥子粒よりも小さい赤黒い虫が一列縦隊になって身をひそめているのが目に付いた。妻楊枝で掘り起してみると居るわ居るわ、その小さな虫が何十匹何百匹ともなくゾロゾロとはい出て来た。お初にお目にかかる南京虫である。その逃げ足の速いこと速いこと。あわてて片っ端から潰して廻った。そのときようやく気が付いたのだが、毎日の猛訓練でグッスリ寝込んでいるときに喰いつかれて痒いので、無意識に動かす足で南京虫をすり潰して、その血が十糎程の筋になって敷布に付いていたのであった。それからは毎日曜日になると校庭へ寝台を持ち出して南京虫退治であった。お蔭で卒業する頃には、絶滅までは行かなかったが大分居なくなった。
六月一日。「陸軍伍長ノ階級二進ム」
九月一日。「陸軍軍曹ノ階級二進ム」
階級章の付け替えか忙しかった。階級だけは昇っても候補生である限り、あくまでも仮の階級であって、何らかの事故かあればすぐ一等兵に降等するので油断かならなかった。
在校中三度ばかり外出しただけだったと記憶している。外出しても騎兵学校の附近には目ぼしいものは何もなかったので東京へ出た。東京に出ると真っ先に二重橋前へ直行し宮城を遥拝、次に九段の靖国神社に参拝して、サテもう行く処がない。あったとしても地理に不案内だし、仕方がないので恵比寿に在住の増田さん(奈良の私の家のお向かいに五・六年居られて家族ぐるみの交際で極く親しくしていた。私と同年の一人娘さんか実践女子専門学校に入学したので、東京に引越しされていた)の処で暇をつぶして帰校した。今になって考えれば幾らでも行く処があったのに…と残念に思う。
猛烈な訓練は相変らず続いていた。時には乗馬訓練で、習志野の原を過ぎて南に拡がる下志津の原まで足を伸ばすことかあった。下志津の原は習志野の原よりも更に広かった。習志野の原は夜は兎も角、昼間は豊臣台とか号砲舎などの目標物かあるので滅多に迷うことはなかったか、下志津の原は広過ぎて昼間でも迷った。斥候の任務を与えられ「○時○分、○○ニ於テ報告スベシ」などという命令を貰っても、道に迷ってしまって指定された時間に行き着けないことか多かった。
乗馬訓練も猛烈で習志野の原を、時には駆足で時には襲歩で駆け回り、最後に輪乗りをするのであるが、その乗馬時間の長いこと。人も馬もクタクタになるまで走り抜いた。そんな或る日、輪乗りの最中に八木候補生かバタッと人馬転倒をした。馬は横倒しになったまま、しばらく四肢を振るわせていたが、間もなく動かなくなった。これが訓育の良い材料となった。
「馬ですら死して後己む。まして貴様等は人間であり候補生である。であるから死しても尚己まざる精神を発揮せよ」
その頃我々第一区隊の区隊長が吉住菊治大尉(少候十八期)に替わった。何か人を小馬鹿にしたようなオカルトがかったうすら笑いを常に浮かべている馴染めない区隊長であった。